本当の豊かさ/お金というローカルルール

Posted at 13/02/01

【本当の豊かさ/お金というローカルルール】

気がつくと今週はブログを一度しか更新していない。確かに書くようなことがなかったなあ。写真を撮ったリツイートをしたりはそれなりにしているのだが、こうしてまとまった文章を書こうという気にあまりなってなかった。

書こうとしている文章はあるのだけど、ちょっとまだ自分には難しい気がするような感じもあり、書いてもなかなかものにはしにくいかもしれないと思う。

小説を書くというのは本当に豊かな行為で、そこにない世界をあるようにするという凄い体験なのだが、何か説明文を書いたり何かの説明を書くということは、自分の考えや感覚の説明であっても、なんだかそれだけのものだという感じがしてしまい、一度自分で自分としてこれくらいのことがかけたらいいなあと思う小説を書いてしまったあとでは、なんだかつけ足しみたいな感じがしてしまうところがある。

ただ多分、今の社会というか世の中というか世界というものが、本当にひどいなあと思うところがあって、本当に豊かであるというのはこういうことじゃないかとか、そのためにはどうしたらいいかとか、そういうことについて書きたいという思いはあるし、そしてそれに賛同してくれる人が増えてくれればうれしいなあとは思うのだけど、何というかそういうことって、どういうことを書いても中身がないんじゃないかと思うところがあって、何をどんなふうに書けばいいのかなあと思って迷っているのだ。

こういうことはたぶん一般論を書いても仕方がない。豊かさの本質は精神的なものだとか、自然に根ざした生き方こそが豊かな生き方だとか、想像力と創造力を発揮することが本当に豊かな生き方だとか、受け継がれてきたものを受け継ぎ、またそれを伝えていくことが世界をより豊かにするとか、そういうことは確かなことなのだけど、そりゃそうだなと思ってはもらえるだろうけどだからどうなのということでもあって、でもそのことに一つ一つ実例をつけて書いてみたところでひどく退屈なものになり、また一般性も具体性も失われるような気もしなくもなく、実例というよりはそういうテーマでまたフィクションでも書いた方がより楽しいというか豊かなものになるのではないかという気もしたりする。

ただそういうことが豊かなことなんだということを確認するということは悪くないことかもしれない。人として生まれて生きて、そういう豊かな生き方をすることは誰でもできるはずなのに、それから外れて行く人があまりにも多いというか、むしろ外れて行くのが普通の生き方みたいになっているのはどうしたらいいんだろうと思う。

男だったら金と権力と女、女だったら金と美貌と愛、という感じになるのだろうか。豊かに生きるためには流れをよくするというか、ある意味流れを御する力を持つというか、そういうことが必要な気がする。だからそうなると、結果としてお金も入ってくるし、自分の言葉に人が耳を傾けてくれるし、生き生きしてくるし、パートナーとなるべき人も近づいて来る、ということはあるだろう。生の力のエネルギーのひとつの現れがお金である、というのはそうだと思うし、あらゆるエネルギーの流れの一つの現れがお金であるということは確かだろう。生の世界の中では、お金というのは人間のみに通じるローカルルールではあるのだけど、この人間の生きている世界においては、お金の威力というのは一種すさまじいものがある。

ただ、これがローカルルールである、ということは案外大事なことかもしれない。「お金お金、どうしてお金がそんなに欲しいのかしら」、と『夕鶴』のつうはいうが、つうの世界ではそういうローカルルールは通じないからなのだ。

ただローカルルールはローカルルールであればこそ、そのルールに従う人たちを厳しく規制する。規制するというか抑圧するというか魅了するというか拘束するというか、ああ拘束するというのが一番正しいか。ただこれも拘束されてしまうとそのエネルギーを操ることは難しくなるし、またあまり離れてしまってもこれを御することはできないから、それはけっこう難しいことかもしれない。

人はみな、自分のすぐそばをお金というエネルギーがすごいスピードで、凄い風圧で通り過ぎていくのを感じることがあるのではないか。そのエネルギーが自分にぶつかると吹っ飛んでしまうこともあるし、僥倖でその大量のエネルギーを手に入れてしまうと逆に人生を狂わせたりもする。うまくお金の流れに乗って遠くまで行くことができる人もいれば、乗ろうと思って常に乗り損ねてあまり動けない人もいるし、まあそういう意味ではお金というのは乗り物の一種なのかもしれない。

まあこのローカルルールが強力なうちは、豊かに生きるということとお金というエネルギーとの関係は全く無視するということは難しいだろう。激しく強力なエネルギーに乗るか、弱く穏やかで優しいエネルギーに乗るかは別にして、あるいは人の好意とか愛とか献身という別の船に乗って移動するのでない限り、少なくとも文明社会においてお金というエネルギーと無縁でいるのは難しい。

しかしお金というエネルギーを手に入れるのは、親から受け継ぐというような場合を除いては、自分でどこかから持って来た自分のエネルギーと交換で手に入れるしかないことが多い。まあそういう意味でお金というエネルギーの実体はメディア(交換媒体)であるわけで、自分のエネルギーがお金というエネルギーに変換され、また違うエネルギーを手に入れる、というねじれ的な授受が行われるということなのだろう。

自分が持っているエネルギーというのは要するに自分自身の生のエネルギーやそれを変換した仕事や作品やそういうものなわけで、その自分自身の生のエネルギーや仕事や作品というのはどこから来ているかというと、たぶんそれはたどって行けば宇宙ということになる。いや食べ物や飲み物から得ていると言ってもいいのだがそれらもたどって行けば農作物で、それを生みだすのは結局地球であり、地球を形作ったのは宇宙であるから、まあ宇宙に戻っていくと言っていい。

それではたとえば作品はどこから来るかというと、インスピレーション的なものはこれもまためぐり廻れば宇宙のどこかからやって来る。モーツァルトなんかは特に宇宙から直接持ってきたような感じだが、作品は結局どこかからやってきたものが作者を通して発現するという部分が大きくて、作者としてはそこに自分の個性を表したくなるけれども、あまり表さない方が作品としてはいい作品になる、というのは宇宙のエネルギーの純粋性がそのまま表れるから、ということなのだと思う。

美しい花がある、花の美しさというようなものはない。これは、ポエジーを感じさせる言葉はあるけれども、ポエジーそのものは実在しない、というようなことかもしれない。というか、美しさとかポエジーとかがあるように思わせるのが芸術であり、また自然の造化である、ということなのだろう。宇宙から持って来るのは美とかポエジーとかであるかというと、そうではないと思う。やはり美しい花そのものであり、ポエジーのある言葉そのものなのだと思う。

何というか、美しさとかポエジーというものは多分、受け取った側が感じる感動なのであって、それそのものがそこにあるわけではなくて、感じる能力、つまりそれを感じるローカルルールを身につけなければ感じることができないものなのだろうと思う。

お金をローカルルールと言ってしまうとお金は大したことがないものだという気がしてしまうし、美しさを感じる能力をローカルルールだと言ってしまうと、ローカルルールこそが求められるものだという気がしてしまうのは、まあスノッブな偏見なのであって、たぶんどちらもローカルルールであることに変わりはない話なのだと思う。

少なくとも美しさとかポエジーというものはそこで人に感動というエネルギーを与えるもので、それは観念としての概念(美しさ)ではなく手にとれるものとしての実体(美しい花)であるから、宇宙からのエネルギーが受け継がれ、また拡散していくための、人間だけが持つローカルルールによって成り立つ仕組みの一つ、なのだろう。だからお金や美しいものは、そのエネルギーを交換するメディアであることによって、豊かさを感じさせる事物であるということになるのだろうと思う。

豊かさというのは、そういうエネルギー交換を頻繁に行うこと、あるいは行うことができること、と言ってもいいのかもしれないなと思った。

***

まあこんなことを書けばいいのかな。まとまりはないというかアイデア出しみたいな感じに書いたので、読みにくいところはご容赦いただきたいが。

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