内田樹・光岡英稔『荒天の武学』:異界への行きかた

Posted at 13/01/09

【内田樹・光岡英稔『荒天の武学』:異界への行きかた】

昨日帰郷。車中、内田樹・光岡英稔『荒天の武学』(集英社新書、2012)を読む。

荒天の武学 (集英社新書)
内田樹・光岡英稔
集英社

この本は今でもまだ読み終わってないが、凄い本だ。凄い本なのだが、どこがどうすごいなどということはまだ全然言えないという感じの本だ。人間とは何か、生きるとは何か、時間とは何かと言った問いかけにある意味あっけらかんと答えていると言えばいいのか。この本は、そういう疑問そのものが言葉から生まれている、という本質をついていて、言葉のまだ生まれる前の世界に入って行く説明が非常にうまいと思った。上手いと言ってもこれは誰にでもわかることではないのだと思うが、武術でいういろいろなことが実は言葉になる前の世界のことをなんとか言葉で表現しようとしていることで出て来たことばなのだ、ということが実によくわかる。そう考えて見ると言葉で表現できない世界を表現しているものが禅であり、また野口整体であったりするわけだけど、そういう世界への見通しがものすごくよくなる、そんな本だった。つまりものすごく本質的なことについて書いてあるので、そう簡単にこの本に何が書いてある、とまとめることはできない、というかまずもったいないし、まだ自分の中にそれを語る言葉がきちんと生まれていないという感じもする。光岡英稔と言う人は本当にすごいが、この人自身もすごいし、この人が今その世界にいる韓氏意拳という中国武術もまたなんだかすごいものだということは言える。

特に驚いたというか唖然としたのは、「言葉にならないものを表現するためには、少なくとも三つの概念が必要だと思う」という発言だ。言葉にならないものを表現する、というのは昔から自分が求めていたことだけど、それはまあ不可能だけど、不可能なものの影としての言葉、月を差す指のような言葉を見せることで言葉にならないものを表現しよう、というくらいの感じしかなかった。しかし彼は三つの概念によってそれを表現するという、なんというかそのための方法論について言及しているわけだ。これはもうしたたか驚いた。そして言われてみると、三つの概念で表現しようとしている例が言葉で言い表せない世界には実に多い、ということにも気がついた。

意拳では重視すること、言葉にならないその動きが起こるところを「機・位・間」という三つの概念で表現するというが、これは野口整体で操法を行う際の注意点、「機・度・間」という言葉を思い起こさせる。これは、ある瞬間・ある場所の特権性というか、つまりは「今ここ」の特権性というものを表現していて、こうなったらこうする、というようなシュミレーションができない、一回限りの実践力をどう鍛えるか、というような話でもある。そういう意味でいうと茶道でいう「一期一会」という概念にもつながっていく。

話はどんどん広がって、たとえば神というものをキリスト教では「父・子・聖霊の三位一体」と表現するが、これはそれぞれ別々のものでなく、神という言葉で表現できないものを三つの概念で表現しようとしたものなのだ、と考えると(この辺は私が勝手に考えた部分もあるが)実に考えやすい。人間としてのキリストと、この世に満ちている八百万的な精霊と、宇宙の原理である父なる神みたいなものがそれぞれいわく言い難い神をなんとか表現しようとしたものだということになるわけだ。このあたりは内田の専門領域にも近く、話がはずむ感じがあった。

光岡はハワイで道場を開いたりしていたというが、その話に出て来るハワイ人やサモア人のエピソードがとにかくすごく、圧倒される。そのほかフィリピン人の話や黒魔術の話なども頭がぶんなぐられるような感じだ。

私の小説はもともと異界との境目みたいなことを描くものが多いのだけど、そのせいなのかこの世にある異界みたいな話を手繰り寄せてるなという気がした。ハワイとか東南アジアの島嶼部とか、本当に異界だなあと思う。少なくとも今の自分にとっては。そしてもう一つのものすごく距離を感じる異界である南米のこともまた、最近いろいろな場面で出会うことが多く、昨日マーケットプレイスから届いたカエターノ・ヴェローゾというブラジルのアーチストの『シルクラドー』というアルバムを聞いていても、なんだかもうわけのわからない世界に連れて行かれるような感じがした。

シルクラドー
カエターノ・ヴェローゾ
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント

やはり子供のころから理解している(と思っている)世界は、日本と中国(三国志とか、西遊記とか)とヨーロッパ(とくにイギリス・フランス・ドイツ)の三つで、アメリカとかも自分なりに理解したかなと思ったのは30歳を超えていたように思う。アメリカよりはまだインドやチベット、モンゴルの方が自分の中での親しみはあった気がする。まあとにかくその三つないし四つの世界を足場にしてポリネシア世界や南米世界を理解しようとしてもなかなか大変だ。南米世界はヨーロッパ、特にスペインとアメリカを足場にして、また更にそれにインディオの世界が加わるし、ポリネシア世界に最も近いのは実は日本なのだと思うが日本の中の異界みたいな部分を通って行くにしても全然わけのわからないところも多くて、しかも欧米の支配下に入って変質した部分もあり、凄くつかみにくくなっているなあと思う。

まあいずれにしても、異界というものは別に遠くにあるわけでなく、日常のちょっとした裏側にあったりもするものだから、そういうものとの言わばすーすーした関係を保っていればいいのだけど、その保ち方みたいなものもまた、この本は示唆してくれるところがある気がした。

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