本屋に探しに行くもの

Posted at 13/01/03

【本屋に探しに行くもの】

人は本屋に、何を探しに行くのだろう。読みたい本が決まっているなら、amazonにアクセスしてクリックした方が早い。しかしamazonにいくらアクセスしても、探せないものがある。それは、自分が何を読みたいか。どんな本を自分が読みたいと感じているか、ということだ。

特に用事がなくても、大きい本屋を見つけるとぶらっと入ってみたくなる。それは、いつも言っている書店とは違う角度で本が展示されていて、そこに思いがけない出会いがあるのではないかという期待があるからだ。しかしそれは、どんな書店でもあるわけではない。いつ行っても何か出会いのある書店もあれば、いつ行ってもなかなか自分の読みたいものに出会えない書店もある。

心の底から何かを求めているのに、その求めているものが何なのかわからない。今日の私はまさにそういう感じで、PCの前に座って何を書くべきなのか、ずっと呻吟していたのだけど何も思い浮かばないという状態だった。

こういう時は、とにかく動いてみるに限る。座ったままでは、どこに行けばどんな出会いがあるのか、全然わからない。とにかくまず動いてみる。動きながら、歩きながら考えるのだ。

歩きながら、自分の使命は、「向こうからこっちへ何かを持って来ること」、にしたいなと思う。使命というと、向こうから与えられてこちらではいかんともしがたい、みたいなイメージがあるが、私の場合はそうじゃないんじゃないかという気がした。多分、頑張ればそれを私の使命にすることが出来るんだろうと思う。昨年は頑張っていろいろ書いたし、少しずつそれに近づいた感じがある。しかし、まだ完全には「許されていない」という感じがして、それが使命なのだと言うことが許されるまでもっと頑張らないといけないだなと思った。

少し腰の痛みが残っていて、歩くのが少し億劫ではあったのだが、とりあえず駅前の新刊書店に行ってみる。読みたいものは特にない。どこに行きたいか考えてみて、神保町のディスクユニオンにブラジル音楽のCDを買いに行こうと思い立つ。銀座もいいが、一年の計が正月にあるとすると最初に出歩くべき街は本の街かもしれないと思う。地下鉄に乗っている間に、そういえば自分に足りないのはネタなんじゃないかという気がしてきた。ネタというか、自分の好きなものとの出会いだ。それをキャメロンは「アーチストデート」という言葉で表現しているが、まさに好きなものと出会える場所へ行くべきだ、と思った。それで具体的にイメージしてみると、それは千駄木の往来堂書店だと思ったのだ。

しかしまず神保町のディスクユニオンに、と思い半蔵門線で神保町に出て、ディスクユニオンをのぞくが自分の欲しいものはなかった。そのあと神保町のいくつかの書店や古書店を回り、お茶の水まで歩き、お茶の水のディスクユニオンを探す。これが全く場所が見当がつかなくて散々探したのだが、探し当てて入ってみたものの欲しいものはなかった。しかし老若の男性ばかりが溢れかえるレコード・CDショップというのも相当味だなと思い、また機会があったら来ようと思った。

千代田線に乗って千駄木に出、往来堂まで歩く。電車の中で、世の中というものは、自分が思っているようにはできていない、というか自分の世界に入っていてそこから出て来てみるとものすごくつまらないことがたくさんあってがっかりしたりするのだが、まあだからこそよいものをつくろうとするのだし、一見つまらないものの中によいものの芽を見つけなければよいものは見つけられないよなあと思う。

ブラフマンの埋葬 (講談社文庫)
小川洋子
講談社

往来堂書店はまだ開いてなかったらどうしようと思ったが、無事開いていた。入ってすぐの書棚にあった小川洋子『ブラフマンの埋葬』(講談社文庫、2007)にまず捕まる。立ち読みして、これは買うべきだと思った。小川洋子にしては村上春樹っぽいのだが、そこがまた面白い気がした。

それから店内を探し、コミックのコーナーで手に取った幸田真希『梅酒』(マッグガーデン、2012)がまた面白い。すごく繊細で、立ち読みしながら、ああ、今こう言うのが読みたいんだよなあと無意識に感じていた。

梅酒 (マッグガーデンコミックス アヴァルスシリーズ)
幸田真希
マッグガーデン

レジを済ませて根津まで歩く。だんだん日が暮れてきて、でもこの不忍通りの雰囲気がいいなあと思ったり。駅のかどの京樽でいなりずしと太巻きを買って夕食にしようと思う。地下鉄の中で『梅酒』を読みながら、何というか繊細な感覚の弾けていくのを感じた。

帰りのバスの中でしばし考える。私は繊細な人間で、私の書くものは繊細な作品で、私に必要なのも繊細な作品なのだ。自分が繊細であることも、繊細なものが必要であることも、繊細なものを書こうとしていることも、実際にすぐ忘れてしまうところがある。世の中はそんなに繊細にはできていないからだ。しかし世の中のものの中にはそういうものが必ずあるわけで、そうなんだなあということを繊細な作品を読みながらようやく認識することが出来た。

そう考えてみると、私が往来堂に探しに行ったのは、また探しに行って見つけたのは、読みたい本や好きなものでもあるけれども、また本当の自分でもあったのだと思う。本来、本屋というのはそういう、本当の自分に出会う場所であるのだろう。もちろん、洋服屋で本当の自分に会う人もあれば、自然公園で出会う人もあるだろう。しかしものを書こうとする私は、やはり本屋で本当の自分に出会うのだろうし、また出会える場所もそうたくさんはないんだろうと思う。往来堂はそういう場所なのだと思った。

読みながら、私は繊細なエネルギーを必要としているのだと思った。繊細さがもつれてくるとそれに耐えられなくなってくることもあるけれども、私は原則的に繊細さが持つエネルギーを必要としている。そして私が表現しようとしているのもそういうものだろう。

繊細さの持つパワー、弱さの持つパワー、繊細さや弱さの陰に隠れ、潜んでいるパワー。繊細さの影には、いや、繊細さそれ自体の中に、本当は世界をも動かしてしまうような力がある。考えてみれば、私はいつもそういうものを書こうとしていたし、一番ピンと来るのがそういうものなのだと思った。

それを表現するのが私の仕事であり、使命なのではないかと思った。いや少なくとも、そうしたいと思ったのだった。

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by Luke Peterson

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