新しい小説を書くためのアプローチいくつか:自分の奥底にある井戸に表現というアクセス方法を持つこと/『ずっとやりたかったことを、やりなさい2』がでた/今週の『モーニング』:正月進行前の突き抜けた作品群

Posted at 12/12/13

【新しい小説を書くためのアプローチいくつか:自分の奥底にある井戸に表現というアクセス方法を持つこと】

昨日はすごく感情的に調子が悪かったのだが、ある意味感情の風邪みたいなものだったのだなと思う。今日はわりとすっきりしているし、物事に対する新鮮な感覚が戻ってきている感じがする。感情の風邪というのはつまり、本当の風邪を引くと味覚が分からなくなったりするように、物事に対する感覚が鈍くなるということなんだなと思った。昨日は北朝鮮がミサイルで人工衛星らしき物体を打ち上げたり尼崎事件の主犯と目される人物が不審死を遂げていたり変なニュースがたくさんあったが、何と言うか自分の中でもある壁を突破した感じがあった。

次の小説に何を書くかということを考えていて、何からアプローチしていいのか分からず、いろいろ迷いながらとりあえずタロットカードでケルト十字的な占いをしてみて、出て来たカードが何かストーリーのようになっていたのでそれをヒントにしてみようかなと思ってストーリーを作ってみた。何か来そうな感じはしたのだけど、どうも不自然で、それはそれでそのままでは使えないなあと思ったが、それを作ってみたことが一つの叩き台になったようで、またいろいろな発想が出て来た。海の底に沈んだたましいが復活する、というような話とかを考えていてもあんまりピンと来ないので、『往還』のインスピレーションが来たのはやはり森の話だったからだなあと思って森のことを考えていた。同じ森でも都会の真ん中にある大きな神宮の森、みたいなことを考えていてそこに奇妙な神が祀られている、みたいな話を考えたのだが、考えているときは面白い感じがするのだけど一晩おいてみるとどうもあまりピンとこないなという感じがあり、まあそれでもそういうふうに考えておいたことはどこかでまた生きることもあるのでとりあえずは寝かせておこうという感じだ。

で、結局私は何を書きたいのだろうと考えてみたら、それは「人間にはどうにもできない何かがある」ということなんだなと思った。森というものや、山というものにはそういう感じを強く感じることができる。経験がないからだろうけど、海というものにはあまりそういう感じがない。それ以上にどうにもできないのは人間というものそのものだなとか、まあ色々そういうことを思っていて。

そういうことというのは、自分が書きたいことという以前に、自分がこの数十年の間生きてきて人間という存在とかその人間という存在を取り巻く世界とか宇宙とかいうものとの関わりの中で、そういうものなんだよな、と考えて来たことで、表現する以前に自分の何か奥底で自分というものを構成している何かなんだなと思う。そういうことは今まで書くべきことというようには感じられなくて、もっと心の浅いところに明滅する現象みたいなことを書こうとしていたのだけど、どうも自分でもあまり納得のできないところがあって、大人を主人公にした話が書けなくて、全身全霊で生きていることをわりと簡単に想像できる子どもを主人公にした話をここ数年は書いていたのだけど、『往還』ではかなり久しぶりに大人を主人公にした話を書くことができた。それは自分で意識してではないけれどもかなり心の中の深いところで考えていたことが出せたからなんだろう。いや、それは今気がついたことなんだけど。

自分が考えて来た自分の奥底にあるものというのは、もうそれはある意味自分そのもので、何かを書くということを考えた時に、それを書くということはあまり考えて来なかったというか、その奥底にあるものを書くことなんてできないと思っていたのだけど、意識しないで書いてしまったら、ああ書けるんだ、という感じになったんだなと思う。そういう心の中にあるある種の「井戸」的なものに到達するというのはたやすいことではないというか、本当に迷いに迷い、紆余曲折の、"The long and winding road"の果てに見つけた、そのアクセスの方法みたいなものがいろいろな形で見えて来たんだなと思う。「ないもの」を見つけるのではなく、今まで自分の中で意識・無意識に関わりなく形成されてきた「あるもの」につながることができれば、その思いというか核心と表現という手の出し方が結びついたときに、いわゆる「本当に書きたいもの」が書けるようになるのだなと思った。

だから今私が思っているのは、「人間にはどうにもできないことがある」ということ、それはものすごく豊饒なこと、ものすごく豊かなことであるということを表現したい、伝えたいということで、結局今思っているのは、人間にできるのは何かをつくりだすこと、表現することだけなんだ、ということを思っている。マザー・テレサは愛の人で、愛の人だからノーベル平和賞をもらった、というように認識されがちだけど、愛の人は多分世界中に何億人もいるんだと思う。しかしなぜ彼女がノーベル平和賞をもらったかというと、彼女は苦しんでいる人たちに愛を捧げ、癒したというだけでなく、苦しんでいる人たちを救っていくたくさんの仕組みをつくりだし、ここに苦しみがあるということを表現して世界の人たちに伝え、苦しんでいる人たちを救うことは自分たちにも可能なことなんだということを世界の人々に伝えて言ったからこそ、ノーベル賞を受賞することになったのだと思う。つくりだすこと、表現することがいかに重要なことか、ということだろう。

苦しんでいる人がいる、という事実は、人間にはどうにもできないことなのだけど、しかし人間は表現しつくりだすことで、何かを動かすことはできる、まあ結局そういうことなんだろう。

ああ、こんなことを書くつもりではなかったのだがたまたまPCの前にマザー・テレサの写真が飾ってあったので書いてしまった。(笑)そういうふうに考えていくと、仏教でいうこの世の一切は苦である、ということと結局は同じことで、一切は苦であるが、あるいは苦であるからこそ世界は豊かで、豊饒で、美しい、ということでもあり、そしてブッダは、つまり人は、その苦しみの世界の中で人が生きる方法をつくりだし、表現することができる、ということでもあるんだなと思った。ああ、無定見にいろいろなものにつながって行く、あるいはつなげていくのは本意ではないのだけど、でもまあつながって行くのは仕方がない、みたいな感じになっているな。

自分の小説の方はそういうわけでまだそんなにはっきりと形を表してはいないのだけど、タロットで考えたことでストーリー性について考えることができ、森にインスピレーションを得たということで場について考えることができ、その場にどういうものが出て来るかと考えることでキャラクターについて考えることができ、それで結局人間にはどうにもできないことがある、ということを考えることでテーマ性についても考えることができた。まああんまり書く前にそういうものを明示してしまうのはあまりよくないことである気もする、何を秘密にして何を表現していくべきなのかは子どものころからよくわからないテーマでもあるのだけど、やはり秘密というか自分にもよくわからない部分をきちんと確保しておかないと書けないんじゃないかという感じはずっとある。その明らかにする仕方もこういうふうに言葉で論理的に詰めていくよりも、まずは小説表現によって世界を広げていくことで明らかにして行くべきなんだろうと思うし。論理的に明示して行ってしまうと、世界がやせてくる感じがあるので本当はこういうことをあまり書かない方がいい気もするのだけど、光を当ててしまってもまだ影が残ることは確かだし、まあその光の当て加減みたいなことがけっこう難しいなと思ったりする。

少なくとも、自分のテーマや創作方法についてある程度は自分で明示的に理解していた方が、新しい作品を書くときの糸口をつかむときには考えやすいのではないかという気もするし、でもそうしてしまうと返って光が当たりすぎて見えなくなってしまうのではないかという気もするし、むずかしい。何でも用意しすぎると意欲が萎えてしまうということでもあり、やはり常にチャレンジしていかないといけない、つまり表現というのはチャレンジの過程そのものであるわけだから、あまり意識がリードしすぎてはいけないのだと思う。まあそんなことを考えたり。


【『ずっとやりたかったことを、やりなさい2』がでた】

ずっとやりたかったことを、やりなさい。(2)
ジュリア・キャメロン
サンマーク出版

おととい帰郷して、その際に丸の内丸善をのぞいたらジュリア・キャメロンの『ずっとやりたかったことを、やりなさい2』(サンマーク出版、2012)が出ていた驚いた。もともと『1』の方は原題が"The Artists' way"で人間に創造性の道の扉を開く、そのための手段としてモーニングページ(以下MP)とアーティストデート(以下AD)があり、さらに10週かけてさまざまな創造性を取り戻すための自己訓練を行う、というような作りなのだが、この『2』は原題が"Walking in this wirld"というもので、MPとADに加えてウィークリー・ウォーキングという手段を加えて解説している、ようだ。まだ最初の1週目のところを読んでいるので全体像をつかめてはいないのだが、確かにウォーキングは創造性にとって大事だなと思う。以前は本当に歩くことによっていろいろな心理的な葛藤が解決したり、解決の糸口が見いだせたり、自分の思いを世界に投げ出せたり、新しい発見をして興奮したりすることができた。今でも一日に一回は必ず気分転換に出かけるけど、つまりはウォーキングというのはそういう働きをしているのだと思うし、あまり目的意識を持った気分転換よりも、何も考えずに自分を世界に投げ出し、世界が自分に語りかけて来るのを待っている方が、新しいものと出会えるなあということは、以前から知ってはいた。最近は田舎では車で出かけてしまうし、東京では時間がないから一定の目的を持ってどこかに出かけることが多いからウォーキングというのとは違うのだけど、まあ意識してそういうことをやってみるのもいいだろうなとは思った。(amazonではなぜか13日現在まだ発売されてないことになっている)


【今週の『モーニング』:正月進行前の突き抜けた作品群】

今朝出た『モーニング』。この号はいろいろ突き抜けたというか、いいものが多かった。「グラゼニ」はまた巨大なプレッシャーを受ける新展開。「宇宙兄弟」も困難を自覚して新たな一歩を踏み出す。「きのう何食べた?」も京都名所巡りでいつもいじましいメニューを読まされている側にとっては面白いがその裏では?みたいな。「セケンノハテマデ」の元メンバー裏話みたいなのもいい。「鬼灯の冷徹」の地獄の虫たちの話も何か面白かった。この人ある意味いろいろふっきれて来たんじゃないかという気がするなあ。「神の雫」も大立者がどんどん出てきてラストに向けての盛り上がりに入ってきた、という感がある。「草子ブックガイド」は『飛ぶ教室』。実はこの話はちゃんと読んでないのだが、少し読んだイメージとよく重なっていて、確かに小学校高学年から中学生くらいのときに読むべき本だなと思った。草子がこれからどういう展開をするのかは分からないが、どうなんだろうと心配のような楽しみのような、という感じ。そんなふうに読者に思わせているのだからこの作品は成功しているなと思う。「犬神もっこす」劇団ウラ話がどんどん佳境に入ってきている感があるが、まあ本当に経験談をもとに書いてるんだろうなと思う。思い当たる節は私にも多々ある、みたいなことが多い。(笑)「う」最終回。ふーん、こういう落ちか。(笑)ハッピーエンド。「特上カバチ!」突然の暗転。うーん、どうなるのか。「就職難!ゾンビ取りガール!」相変わらずの尻フェチ満開。「ミーファ」この四コマの面白さは、東京では分からない関西ネタにあるんだなと思った。ルミナリエネタとか祇園ネタとかが面白かった。「主に泣いています」この作品は読むと不安になるような感じのものなんだけど、次回が最終回ということで、なんだか落ち着いてきた。やっと最終回かと思うとホッとする。いや、酷いことを言うようだが、これは多分褒め言葉だ。「へうげもの」重嗣もやるなあという感じ。「クレムリン」黒指数が相当高いがそれが笑えるのが才能なんだなあ。明るい黒さだもんなあ。次号予告。正月進行で次号発売は27日。ジャイキリが予告から抜けてる、今号も休載だったけど。それから久しぶりの「ピアノの森」が3号連続で掲載とのこと。最後の掲載が9月20日発売号だったから、3カ月のお休みだった。あと2週間だが、楽しみだ。

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