物質的な豊かさと精神的な豊かさ:あいまいなさきにある大切ななにか
Posted at 12/12/11 PermaLink» Tweet
【物質的な豊かさと精神的な豊かさ:あいまいなさきにある大切ななにか】
アダム・スミスが「神の見えざる手」という概念を提出した時の18世紀イギリスは貴族の時代・啓蒙主義の時代で、彼らは基本的に自分たちの地位や存在を脅かされることに危機感は少なかっただろう。「夏の大三角形」の命名者として知られるムーア卿のように、自らの趣味に没頭してそれで著作をなしたような悠々自適の貴族たちの存在こそがこうした楽観的な考え方の背景にあるのだろうと思う。『ローマ帝国衰亡史』を書いたギボンなどはその典型だ。
アダム・スミスには『道徳感情論』という著作があるが、彼はこの著作の中で人間は結局幸福であるために良心にやましくないことを目指さなければならないし、自分が幸福に生きるために必要なものを得たらそれ以上に何も付け加えることはできないという考えを持っていて、ということは人はある程度以上のものを得たら自分のため以外のことに使うようになる、という考えがあり、18世紀イギリスにはそれを共有する空気があったように思われる。
良心に従うか、欲望に従うかと考えたとき、人は当然良心に従うだろう、という予想に基づいて発想されているのではないかと思う。
しかし実際に産業革命が起こってみると人は生きるのに十分なものを得てもそれで満足するようにはならなかった。それは新興の産業資本家たちは旧来の貴族と違い自分たちの地位や存在を脅かされる危機感から自由になることが難しかったからだろう。結局不安によりあきることなく利潤を追求し、必要以上のものをどんどん集積していく人間類型が出現した。マルクスらはそれに対抗してそれがゆがめた社会構造の矛盾の中から社会主義革命がおこると予言し、それは20世紀にかけて「ゆがんだ社会秩序を構築していく力=資本主義」と「暴力的に社会を変えて行こうとする力=社会主義」という対立を生むことになった。社会主義も資本主義も穏健化し、ケインズ主義と議会制福祉主義のあたりの妥協の時期も長かったのだが、社会主義の崩壊が起こると再び資本主義の原理的主張が幅を利かせるようになり、再び世界経済の構造のゆがみが大きくなっている、というのが現状なんだろう。
その中で日本社会は比較的穏健なのだけど、結局幸福についての最初のアダム・スミスの考え方に戻って、生きるのに必要以上のものを得られるようになったら、それを自分のためだけには使わない、という方向性が、少し見い出されてきているのかなという気がする。何がいいことなのか、断言はしないけれども、お金の力を含めていろいろな力を得た人がいま日本には思っている以上にいて、それが社会を変えて行っているような気がする。『僕たちの前途』にはそういうことの片鱗が描かれているんじゃないかなと少し思う。
大事なことは、こころ豊かに暮らせている人が少しでも増えていくことで、その人たちのネットワークが広がり、力を持つようになっていく、そういう先に何かが見えるのではないかなという気がした。
何をもって豊かか、というのは人によって違うと思うし、今までのコミューン論や、社会主義的な幸福論は、その人によっての微妙な差異を切り捨ててきてしまったために全体主義的になってしまったのだし、それでは人は本当の意味では豊かになれないだろうと思う。幸福であるというのは精神的な意味あいが強い言葉だし、豊かであるというのは物質的な意味合いが強い言葉であるけれども、どちらもまた必要なことだろう。精神的な資産が物質的な豊かさを生み出す力にもなり得るし、物質的なものが精神的意味合いを持つことももちろんあるわけで、その二つは本当は有機的なつながりがあるはずで、切断することによってそういう問題の答えが出なくなってしまったのではないかと思うけれども、それは今までの世界が人が生きるのに十分には豊かではなかったからだろう。
現代の日本は、そういう意味でかなり広範囲で18世紀イギリスのような、物質的にはこれ以上いらないからもっと違うものがほしいという状態になっている人がいるようになっている。イースタリンの逆説という言葉がまさにその通りなのだけど、実際に生きるのに十分なものを得てしまったら、それ以上に金銭的・物質的に豊かになっても幸福な感じは増えて行かない、ということに共感できる人は増えていると思う。
アメリカやイギリスではおそらくはフランス革命以来の豊かな人たちの恐怖感みたいなものがまだ生きているのか、満足できる状態になってもそれ以上に利潤を追求していくことが正しいという考えが相当強いのだけど、それでもそれに対するアンチテーゼが60年代末のヒッピームーブメント以降起こってきているし、アメリカはそれにより没落したと考える人たちによって新自由主義的気風がそういうものを一掃しようとした時期もあったが、そのトップに立つジョブズのような人たちが実はそういう気風を持っていて、パソコンや携帯のような物質的な機械にまで使い勝手の良さやデザイン的な満足感といった精神的な豊かさを埋め込むようになってきている。
だから奥底のところで、何かが変わろうとしているのだろうと思うし、だからと言ってどういう政策をとればいいのかということはよくわからないし、いろいろな政策の中で誰かにとってベターであればだれかにとってワーズである、というものを選択しながらでしか前に進んでいけないのだろうと思う。「政治とは可能性のアートである」と誰かが言っていたけれども、すべての人にとってベストの政治というのはおそらく、原理的に不可能なのだろう。でもその中で少しでも向上させるために多くの人が情熱を傾けている。
私がやるのはそういうことではなくて、やはり作品を作っていくことで世の中の精神的豊かさとか物質的な満足感とかそういうものを増やしていき、生きることが楽しいと感じられる人が少しでも増えていくことを喜ぶ、そういう方向性、そういうことなんだろうなと思う。今まで見えなかった生き方が少し見えたとか、少しふさいでいたのが少し元気になったとか、心の豊かさが少し加えられたとか、そんなことが出来るように、自分のために自分の豊かさを増やしながら、それを自分のためにだけでなく使っていく、そんなことをしていくのかもしれないな、と思っている。
政治的な言語ではないので、そういうことをあまりシャープには表現しない方がいいんだろう。少しあいまいだけど、あいまいなさきにあるあたたかいきらきら光るたいせつななにかを見つけてもらえるのがいいんじゃないかと思うんだけど。それはあいまいだけど確かに存在するものなので。
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