方向性より決意が自分を動かす/ライアン・マッギンレー/日本に足りないもの

Posted at 12/11/22

【方向性より決意が自分を動かす】

昨日は6部作の小説作品の第6部までの第一稿を上げて、30分ほどやり遂げたという充実感に浸っていたのだけど、まあまだ完成したわけではないのですぐに直しにかかろうと言うところもあったがとりあえずはまだすぐそういう方向には心も体も動かないので仮の冊子をプリントアウトして自分で読み直す用のものを作成した。1部2部はもう冊子の形にしてあるのだけど、6部まで作って通して読んでみてまた考えてみたいと思う。

今朝は何となくやるべきことの方向性がはっきりしなくてゆっくりと時間を過ごしたのだが、まあそういう時間が多少はあってもいいだろうと思った。昼前に出かけて少し買い物をしてから書店へ行く。毎日行っているのだけど、少しずつ発見がある。今日は何か自分が見えそうなものと思って探していて、橋本治『その未来はどうなの?』(集英社新書、2012)を買った。橋本治の本は私にとっては当たり外れがあるのだけれども、当たったものに関してはすごくこころの糧になることが多く、外れかもしれないけど読みたいな、と思うことがある。彼の小説の中にはこういうふうに書きたいなと思うものがあって、そういう意味でも私のアイドルのひとりだなと思う。この本はTPPのことなどについて書いてあるらしく、あたりか外れかはまだ分からないが、読んでみようと思う。

その未来はどうなの? (集英社新書)
橋本治
集英社

今日は車を運転しながら、何となく心浮かないのはなぜなんだろうなと思っていて、それはまあ昨日一度書きあげたことからくる虚脱感が大きいのは分かっているのだけれども、いつも思うのだがこういうときは自分自身に対してどういう姿勢で臨むのがいいのかなあと思うのだ。昨日までと同じようにとにかく書くことに集中して、というふうに自分に対することはできず、かと言って今まで書いている間にできなかったことをしよう、とか考えるとどうも気持ちがふさぎがちになる。今朝などは自分の置かれた環境や、自分を助けてくれるたくさんの人がいるからやれてきたんだなあということを強く思って、そういう人たち、ものたち、世界に感謝しよう、とか思ってみたりしたのだが、そんなことを考えるとよけいゴンと落ち込んだりするのだった。

何となく運気の流れが悪い時に感謝の気持ちが足りないんじゃないかとかいうことはよく言われたりするわけで、まあ確かに足りないんだろうなと思ったりはするからそういうことはしてみたっていいのだけど、結局そういう人たちに対して何かお返しができるかというと何もできないんだなあという無力感の方が出てきてしまって返って危ない。そういうわけで「みなさんに感謝するプロジェクト」はあえなく中止に追い込まれた。

昨日暁方ミセイさんの作品について座標軸が見えた、自分の方向性を確認することができた、というようなことを書いたが、それもまたちょっと浮かない気持ちになっている原因の一つだなと思った。人が真剣に生きているときに、自分の方向性なんて考えているだろうか。少なくとも私は考えてない。目の前のことをどうするか、全力でやっているだけだ。あとで振り返って、ああ自分はこういう傾向があるなあとか、自分のプリンシプルというのはこういうことだなあと思うことはあっても、自分のプリンシプルはこうだからこうするぞとか思って行動しているわけではない。結局はカンで決めている。その選択肢を選ぶことが「いい感じ」がすればそちらに進むし、「イヤな感じ」がしたらやめる。決定に迷うときにはカードを引いてみることも少なくない。出たカードに納得できたり、少なくともそのカードの指し示す方向に賭けてみようと思えたときにはその方向に進むことを決断したりする。およそプリンシプルとか方向性とかいうものはその時には存在しないわけで、ある意味影のようなものだ。

だから自分の方向性を確認すると言ってもそれは今までそういう方向でやってきたということがわかるだけで、あるいは自分を人に紹介するときにこういう方向でやってますと言うにすぎないわけで、その方向性として言葉になったものが自分を駆り立てると言うことはできないわけだ。人と人でないものの間、こころとこころでないものの間、生きているものと生きていないものの間にあるものを書こうとか言ってみたところで何も言っていないに等しい。

だからただ一つ、自分を駆り立てる言葉になるのは、昨日の自分を超えて行くという言葉だけだなと思った。それはつまり、決意だからだろう。何も分からないけど、とにかく昨日の自分には負けない。昨日の自分より一歩進んだ自分であること。半歩でも四分の一歩でもいいけれどもとにかく昨日よりは前に進んでいる。そういう単純な言葉が自分を動かし得るのだ。少なくとも私の場合は。

昨日の自分を超えると言うことはやりたくないことがやれるようになるということではなく、やりたいことが今よりもっとできるようになるということだ。とにかく自分のやりたいことの可能性を広げて行く、大きくしていくこと。そんなことを考えていたら少し元気が出てきて頑張ろうという気持ちになった。自分を言葉で縛ることは徹底的に向いていないようだ。方向性より決意が自分を動かす。書いてみれば当たり前のことなんだが。


【ライアン・マッギンレー】

美術手帖 2012年 12月号 [雑誌]
美術出版社

『美術手帖』で写真家ライアン・マッギンレーの特集を読む。作品集のページを読んで、その中には自分が一度買おうと思ったけど結局買わなかったというものが何冊か含まれていることを知った。「You and I」なんかは買う直前まで行ったな。どうも何かゲイの人たち向けのものなんじゃないかみたいな印象があって買わなかったのだけれども、特集を読んでみた今となっては買ってもいいなと思う。

彼はヒカリエで来場者を目の前でiPhoneで撮影して写真を渡すというイベントをやっていたそうなのだけど、彼はそれを日本でしか成立しない試みだ、「アメリカ人はアートとの向き合い方が真剣すぎるから」出来ない、と言っているのが面白かった。つまり日本人にとってアートとはもっと気楽に向き合えるものであり、よりカジュアルなものであるという感覚があると言うことになる。このあたりのところは日本人にとってのアートの意味を考える上で面白いテーマだと思うし、逆にいえばアートの世界における日本人の限界のようなものを示唆してもいて、村上隆が歯噛みしているところはそこなのだろうなと思う。
マッギンレ―は明確にアートの歴史というものを意識していて、「ある時代に限定されない普遍的なものを撮りたい」ということを言う。また写真の持つ政治性も明確に意識していて、彼の写真集の一貫したモチーフであるヌードに関しても、「60年代から反発の行為としてトップレスになる」という文脈を踏まえている。確かにアドルノだったか、68年革命のときに女子学生が教室でいきなりトップレスになったことにショックを受けて死んでしまった、ということがあった。日本では羞恥とか個人的倫理の問題である面が強いと思うが、ヌードになること自体のメッセージ性というのが欧米では強く認識されているということを改めて思った。

また彼の作品を「エイズ以後の時代の感性」と評するものがあり、そのことはそういうことなんだなあと強く思うとともに、欧米のアートシーンにおいていかにエイズというものの衝撃が強かったかということについて改めて認識させられた。彼は16のとき(ということは1993年だ)に兄とその友人たちを次々にエイズで失っているのだという。私も90年代後半には3回アメリカに行ったけれども、最初の渡米の際にたまたま会ったゲイのカップルのひとりが感染していて、次に行ったときには亡くなったと言っていたことがあった。アメリカのリベラルなある程度教養のあるクラスには本当に強い衝撃があったのだと思う。彼のインタビューを読む限り、911よりもはるかに強いインパクトを受けているように思った。

彼はさまざまな撮り方をしているが、スタジオ写真を撮るときは「スタジオ写真の歴史に貢献している」という意識を持っているというのが面白い。全体的に行って、そういうつもりで読むと彼が現代アートの文脈というものをとても意識していることが分かって、それが村上隆が常々「コンテンポラリーアートを理解するためには知識が必要だ」と言っていることと重なってなるほどと思う。「アートを理解する」とはそれを感性的に受けとめられるということだけではなく、どういう文脈をそこに読みとることができるかということでもある、ということは理解されなければならないのだなあということは確認できた。

で、それはコンテンポラリーアートは勉強しなければ見てはいけないということではないわけで、マッギンレ―も「アートを何も知らない人にも感動してもらえる作品にしたい」といっているのだし、まあ知らなくても楽しめるけど知っていればもっと深いところで感動したり受けとめたり自分の人生を揺さぶったりすることにもアートは使えるよということなんだなと改めて思った。

You and I
Ryan McGinley
Twin Palms Pub


【日本に足りないもの】

まあなんというか、文脈だけしかないようなコンテンポラリーアートが好きかというとまあそんなに好きなわけではないし、やっぱりそこに豊かさがないとなあとは思う。でもまあそういうある意味痛々しいものが作られるには作られるなりの理由があるわけだし、そういうものはそういうものとして理解しておくと言うのは現代を理解するということの一面としてとらえることができ、そういう意味でコンテンポラリーアートを理解するということは、現代社会の様々な側面、国際政治や国際経済を理解することと同じだけの重さを持っていると言ってもいいことなのだと思った。まあつまりインテリジェンスの世界だ。

結局日本でアートが感性(のみ)の世界であると考えられているのは、日本人には政治も経済も会社経営でさえ感性でとらえてしまえと言う部分が抜きがたくあるということとけっこう関係があるのだと思う。多くの日本人にとって政治家の選択肢というのは結局感性的に○か×かで選ぶもので、あまり政策の細かいところまで見ていないと言うのが本当のところではないか。でなければこんなわけのわからないことばかり言う政治家たちが大手を振るって歩くようになるわけがない。

政治も経済もグローバルスタンダードで、いやそんな大げさなことを言わないでも感性だけでなく自らの教養に基づく原理原則によって論理的にとらえる基準のない国で、ことアートのことに関してのみ教養的な物差しを持って見ろと言っても無理な話だ。

それじゃあ全然救いがないかというとそうでもないとは思うのだけど、とりあえずはいろいろな意味で国民全体の教養を高めて行くということは目標にしてもいいのではないかと思う。日本人が目標とする「新しい教養」みたいなものは構想されて行ってもいいのではないかと思ったのだった。少なくとも暁方ミセイの作品を読んで震撼する人はもっとたくさんいていいと思う。

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