ヤンキー再論:否定ワードとしての「ヤンキー」と日本人の素朴な熱いハート

Posted at 12/11/13

【ヤンキー再論:否定ワードとしての「ヤンキー」と日本人の素朴な熱いハート】

昨日のヤンキーの話だが、『熱風』の倉田真由美の談話などを読むと彼女は「絶対!」と言えるのがヤンキーであり決めつけることが出来ないのが「文系」である、という定義をしていて、自分は文系だからヤンキーがメジャーになる世界では仕事が大変だ、みたいなことを言っていた。

これはなるほどと思う。ヤンキーと言っていいかどうかは別として、「絶対!」と言える人と言えない人というのはこの世に両者存在するとは思う。いわゆるインテリには後者が多いことは確かだし、いわゆるヤンキーは前者が多いこともまた確かだろう。

実際の人生の中では「絶対!」と言い切れる人が強いというのはまああることで、たとえば『宇宙兄弟』の中でも「絶対宇宙飛行士になる」というヒビトに兄のムッタは「世の中に絶対ということはないんだよ」と皮肉られると「大丈夫。世の中にはなくても俺の中にはあるから」と答えてムッタを絶句させているのだが、結局ヒビトが先に宇宙飛行士になって月面に立ち、ムッタはそれを追いかける形で宇宙飛行士になって訓練を続けていく、という展開になっている。

まあ逆に言えば「絶対!」というのは客観的な事実ではなくある種の決意表明であり、まあ逆に言えば「世の中」に絶対ということはないわけで、あるとしたらその個々人の中にしかない。だからたとえばある種の宗教的真実を信じられるかどうかという問題になり、日本ではインテリはそういうものを信じないものだ、みたいな先入見が強いけれども、まあ諸外国のレベルで言えば必ずしもそうではないことはまた言える。

逆に言えばそうやって主観的真実や宗教的真実を否定する人による肯定する人に対する批判手段やレッテル張りとして「ヤンキー」という言葉が使われているという面もあるのかなという気はする。世間ではそういうことに肯定的な言説が氾濫する一方で、「知的な人たち」の世界ではそれに対して否定的な言説が幅を利かせているわけであり、「知的な人たち」の世界に入るためには「絶対はないよね?」みたいなある種の踏み絵として作用しているという面はあるかもしれない。

私などはそういう面ではけっこう「絶対!」みたいなことにある種肯定的なところがある、というか本質的にはそこが相当強い人間なので、インテリの世界に居心地の良さを感じるところとまあ「絶対!」に対して否定的な言説を我慢したりあるいは一応それを認めたうえでの議論に参加せざるを得ないことも多いというところにたぶんある種の葛藤があるのではないかという気がする。まあそんなところが小説を書く原動力になっているのかもしれないなと思う。

しかし逆に言えば絶対はないかもしれないということをある意味認めたところから検討することによって知見が広がる面があるのもまた事実であり、すべてを棚上げするというかフラットな状態にして物事を観たうえでその概観を持って自分の居場所に帰ってきて物事に対処していくということを結局はやらなければならないと思う。熱い情熱があっても物事を知らなければ「世の中」ではうまくやっていけないことはままあることで、斎藤環の分析のようにそういうことでは「DQN」扱いされてしまうだろう。逆に物事をよく知っていて成功するヤンキーを「リア充」と定義するのだ、という論も飛躍しているところが面白いと言えなくもないがやはり飛躍しているしちょっとそれは上に書いたような意味でためにする議論に陥る可能性が高いのではないかなと思う。

ヤンキーが日本人の大勢を占める、という分析はよくあるけれども、それは逆に言えば日本人の大半は素朴に何かを信じる熱いハートを持っているというふうに言いかえることもできるわけで、まあだからこそDQNにならないためにちゃんと必要な知識を身につけることが大切なんだよというまとめをしておくとたいそう常識的な結論になった。

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