愛とはどんなものか:アンドレ・ブルトン『狂気の愛』

Posted at 12/10/27

【愛とはどんなものか:アンドレ・ブルトン『狂気の愛』】

昨日。気分転換に岡谷の書店に本を見に出かけ、諏訪湖畔を車で走るのがとても気持ちよかったので寄り道して湖畔で秋の諏訪湖を見た。霜降も過ぎ、もう晩秋と言っていい季節になって来たので日もだいぶ低くなっていて、紅葉の進んだ木々の赤や黄色のさまがじんわりと心に沁み込んで来る。何枚か写真を取ってツイッターに飛ばし、書店へ行った。

ゴーグル (KCデラックス)
豊田徹也
講談社

書店の店内配置が全然変わっていて、最初はかなり戸惑ったが、マンガを探していたらいくつも新しい単行本が出ていたので、豊田徹也の短編集『ゴーグル』と小山宙哉『宇宙兄弟』19巻、『Giant Killing』25巻を買った。それから何か文字の本を買おうと思って物色すると古典新訳文庫にアンドレ・ブルトン『狂気の愛』(光文社古典新訳文庫、2008)があり、立ち読みしてみると面白いなと思ったので買った。

帰りに書店の横のサークルKでコーヒーを買う。最近本当にここのコーヒーに凝っていて一日に一杯は飲んでる感じになっているのだが、どんなものなのか。ポーションタイプのコーヒーメーカーなのだけど、美味しいことは確かに美味しい。

宇宙兄弟(19) (モーニング KC)
小山宙哉
講談社

帰ってきてさくっと『宇宙兄弟』と『Giant Killing』を読了。もともとモーニング本誌で連載時に読んでいるのでその復習みたいなものだ。しかしジャイキリの方は単行本用に書き増ししたページがあり、まあこれがあった方がイメージが明らかになりやすいなとは思った。『ゴーグル』は最初の「スライダー」だけ読んだがあとでゆっくり読もうと思う。

GIANT KILLING(25) (モーニング KC)
ツジトモ
講談社

今日は『コミックゼロサム』の発売日(通常28日だが今月は28日が日曜のため1日早まった)なので地元の書店へ車を走らせたが、その途中でサークルKに寄り、電話代を払ってコーヒーを買った。中毒か。最初はTSUTAYAへ行ったのだがなぜかゼロサムがなくて平安堂まで行って買った。帰って来た時にはもう時間がなく、「ランドリオール」と「吉祥7」だけ読んだのだが、ランドリは思いがけずシビアな展開になって、この辺は全然予想してなかったのでかなり熟読した。ゼロサムはあと二つ三つ読んでいる作品があるのでこれもまたあとで読もうと思う。

Comic ZERO-SUM (コミック ゼロサム) 2012年 12月号 [雑誌]
一迅社

『狂気の愛』、まだ読み始めたばかりなのだが、なかなか面白いと思うし、何というか演劇的だなと思う。ブルトンはシュルレアリスムの中心人物であり、シュールと言えばつまりは第一次世界大戦後の崩壊したヨーロッパ文明の中である意味現実を超え心の中の無意識の世界を引っ張り出して場面やシーケンスをつくっていくというような感じがあるのだが、絵画などではまあ視覚的に面白いし昔からけっこう好きだったけど文学的なものはブルトンのものを含め少しは読んでいたがどうもあんまりピンと来ていなかった。

狂気の愛 (光文社古典新訳文庫)
アンドレ・ブルトン
光文社

この『狂気の愛』もずいぶん形而上的な処理が多くて面倒なのだが、解説や註を頼りに読んでいくとまあそれなりにイメージが出来て、何というかとても演劇的なイメージを使ってものを語っているという印象を持っている。最初に7人か9人の黒い燕尾服を着た男たちが出てきてこれがなんだかよくわからないのだけど、つぎにやはり7人か9人の明るい服を着た女たちが出てきて、これがブルトンが愛した女たち(ある女性は数年、ある女性は1日)を指していて、ということは最初の男たちはその女たちを愛していた時のブルトン自身である、という註の示唆を受けるとようやくこのイメージ全体が意識出来た。

そう考えてみるとこれは実に面白くて、このレビューショーは彼自身が愛した7人ないし9人の女たちと、その時点での自分自身「たち」が時空を超えて一つの舞台に立っている、という設定になっているわけだ。この発想はなかったなあと思う。

まだここまでしか読んでないのでこの先のことは分からないが、このように愛した女たちとその時の自分自身たちを俎上に上げることで「愛」とは一体何だろう、ということを考えて行こうということなのではないかと思う。おそらくは男たち同士があのときはどうだったとかこれはよかったこれは失敗した、というようなことを語り合うのだろうし、女たち同士が男(つまりブルトン自身)についてあれこれ論評するのだろう。男たちはもちろんブルトンの分身であるわけだが、女たちもそういう意味ではまたブルトンの分身であり、彼らの語りあいの中でブルトンにとっての愛というものが見えて来る、という構造なのではないかと思った。自分にとっての愛というものを考えるのにそのような知的な仕掛けを用意するというのはさすがだなあと思わされた。

まあだからこの構造は実に文学的であると同時に演劇的であり、絵画的でもある。シュールレアリスムという運動が文学にとどまらずさまざまな芸術分野に波及していく力を持った運動だったことを意味していると思うのだけど、逆にいえばある意味で文学というものが芸術の中での特権的な地位を主張していないというようにも考えられる。

私は以前から日本のにおいて文学が芸術の中で特権的な位置にありすぎて、他の芸術との関わりが少なく、芸術運動の中でガラパゴス的な進化を遂げていることに何というか違和感を持っていたのでこれはこれでよくわかるのだけど、最近は自分で小説を書くようになると小説というものにやはりほかの芸術とは違う何かがあるような気もしてこのあたりのところがどうなのかなあという気もして来ている。

売るとか売れないとかいうところを超えたところにある深さみたいなものをやはり自分の書くものの中には表して行きたいと思うし、こういうものに取り組むことの魅力はやはりそういうところにあるんじゃないかなと思った。

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