一瞬を積み重ねる/死後に何を残すか/「世界で唯一の自分」をどう見せるか

Posted at 12/10/20

【一瞬を積み重ねる】

村上隆『創造力なき日本』読了。第3章~第5章で印象に残ったことを三つ。

創造力なき日本 アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」 (角川oneテーマ21)
村上隆
角川書店(角川グループパブリッシング)

一つ目。今の若い人はショートスパンで結果を出そうとし過ぎる、「今この瞬間をどう効率的に生きるかということに特化して頭を働かせるスーパー刹那主義になって」いるという指摘。これは「未来」が見えないということなんだろうなあと思う。

私なども未来が見えないということにおいては同じなのだが、未来が見えなくても、今という瞬間を一つ一つ積み重ねて行くしかない、というスタンスに立っていて、積み重ねているうちに未来がおぼろげながら幻視されて来る、という実感を持っている。それは物語や小説を書く、ということが私の主な営為だからかもしれない。最初から結論ありきではなく、だいたいのゴールは決まっていないことはないが、書き始めたらどこに行くか分からないし、決めたプロットの通りに書いていても面白くないからより面白い方向へ話を動かして行く。人生を一瞬一瞬積み重ねるということはそういうことと同じで、あらかじめ決めた通りに一日を過ごしても面白くないから、その一瞬一瞬を積み重ねて積み上げて行くことによって自分の未来が幻視出来る、つまりビジョンが見える、ということではないかと思う。

だから、「今現在を『効率よく』過ごす」などということは、もっとももったいない時間と労力の使い方ではないかと思う。もちろんそれを追求しなければいけないときもあるだろうけど、アートしている瞬間というのは最も非効率的な思考や行為が結果的に見てもっとも効率的であったというパラドックスの世界にあることなわけで、そこにある意味醍醐味があるのにな、と思う。今効率的なことよりも、いつまでも面白くなること、を求めて行けばいいのにな、と思う。

未来が見えないから今すぐ結果を出そうというのではなくて、未来が見えないなら見えて来るまでじっくり今に取り組む、と考えた方が面白いということだと私は思った。


【死後に何を残すか】

二つ目。村上隆は現代美術の世界でいままでかなり目覚ましい成功を収めていると言っていいと思うが、家も貯金もないという。GEISAIでは累計で16億くらいの赤字を出し、貯金のほとんどはカイカイキキにつぎ込んだのだという。それは何のためかと言えば「アートを志す若い人たちへの愛]のためだとは言いたくない、という言い方がなるほどと思った。そんなものではなく、カイカイキキというものを300年は続く狩野派みたいな存在にしたい、そこから歴史に残る作品を生みだして行くような存在にしたいからだ、というのが面白いと思った。山岸会を作った山岸巳代蔵に「200年後を待ち切れず」という言葉があるが、孔子が儒派をつくりだしたように、ロヨラがイエズス会をつくりだしたように、滔々と流れる大河の最初の一滴になりたいと言うことだろうか。確かにそれは愛というより野望というべきもので、有為転変著しい現代美術の世界で数百年のスパンでものを考えている人が世界に他にいるだろうかとは思う。

要するに彼は死後に何かを残す、ということに固執しているわけで、自分の作品を残してもいいのだけど、自分が作った集団を美術史に残してもいいし、その集団の中から美術史に残る作品が出てきてもいいと考えているわけだ。彼に言わせると日本の美術品の中で世界の美術史に残っていると言えるのは葛飾北斎の富嶽三十六景の一枚『神奈川沖浪裏』だけなのだそうだから、つまり彼は二枚目を狙っているということになる。まあそれは野望と言わずして何であろうとは思うが、凄いと思ったり呆れたりするような種類のことではあろう。まあアーチストの考えることなんてみんなそうだと言えばそうなのだが。


【「世界で唯一の自分」の核心を歴史に照らしながらものを作り発表する】

三つ目は作家や作品に絶対的な意味を持たせてブランディングして行く唯一の方法は「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」だと言うことだ。これは私自身の考えていることとほとんど同じなのだが、いま自分がどこまで出来ているかというと、歴史と相対化させるというところまではやりきれてないなと思う。しかし確かに自分の目指すものが歴史的にどういう意味であるのかを言語化して訴えて行くことは考える意味はある。ただ、私の場合は作品そのものが言語で作られているものだから、それをまた言語化して表現することに二重の罠を張らなければいけないようなめんどくささというかそれでいいのかなという感じというか戸惑いがまだあると言うふうにいえばいいだろうか。

さらに言えば、自分の目指すものはこれだ、と言った途端に自分の目指すものはそこからずれて行こうとするわけで、言語化しないからこそ目指すことができる、というようなものでもある。ただ今現在自分がどういうことをやろうとしているのかということを折に触れて確認しておくことはまあそう悪いことでもないかもしれない。ピカソが青の時代からバラ色の時代に移っていくように、自分の関心とその時代的な意味を明らかにしておいた方が少なくともプロモートしやすいことは確かだ。

作る面から言うと、その方がエッジがきいたものができる気がする。意識しないことによって境界線を曖昧にするという戦略をむしろ私は取ってきているのだけど、どこかでそれは方向を変えなければならないかなとも思う。まあそれはけっこう根本的なことなのでまた自分の中の意識すべきこととして残しておこうと思う。

やるべきことは常にたくさんある、と再確認させられた本だった。一歩一歩進もう。先行者の足跡と自分の足の踏み位置を確認しながら。

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