オーバーフロー状態/『火垂るの墓』は苦しんで見るべき作品だ/不幸な恋人たちのような兄と妹の生と死。『シド・アンド・ナンシー』のような。
Posted at 12/09/10 PermaLink» Tweet
【オーバーフロー状態】
なかなか更新できない。創作上のことで頭がオーバーフロー状態になっているので、日常的なことがちゃんとやれてないということもあるが、ブログをちゃんと書くということは結構(私の場合は)客観的な作業なので、というか少なくとも自分のやってることや自分の見たもの読んだものなどを客観的に言葉にする作業なので、言葉でないレベルでの頭の動きが続いている、というか自分の中の混沌とした内的な言語と人に発するときにある程度整理され背景などもある程度説明をするそういう言語での作業という意味でのレベルの違いみたいなことから人に話すレベルまで自分の言語のをおろしてくるという余裕、というかそういう気持ちの働きのようなものがないとなかなかそういうふうにはできない。ここの所あんまりそういう感じになっていなかった。ほかのものも読めなかったし。マンガ以外は、ということだが。
土曜日に上京したのだが、その前の仕事でちょっとごたついて、上京予定の特急を一本遅らせたりした。いろいろ勘違いによるアップセットがあったり、こういうふうに創作モードがオーバーフローしているときには日常業務が支障をきたしたりして困ったりするのだ。昨日はやはりいろいろ書いたりはしているのだけどうまく創作の歯車に乗せるの難しいような感じで、というのはつい土曜日に夜更かししてしまって日曜の私の創作にとって早朝の大事な時間を無駄にしてしまったりしたこともある。土曜日に帰ってきたら友人から手紙が届いていて、劇団時代の芝居の何本かのビデオをDVDに落としたものと、先日別の友人の芝居であった時に渡した私の小説の感想というか批評を丁寧に書いてくれてあって、それを読んでいたりしたからということもある。そしていろいろサイトを見ているうちにふと『火垂るの墓』を見なければという気になって、0時過ぎにツタヤへ行って借りてきたりもしたからだ。
【『火垂るの墓』は苦しんで見るべき作品だ】
ところがこの『火垂るの墓』が自分にとっては難物で、少し見てはオーバーフローしてしまい、一休みして、またワンシーンみては休んで、ということの繰り返しになってしまった。昨日から今日にかけてそういうことで悪戦苦闘して、きょう午前中いっぱいかけてようやく見終えることが出来たのだった。それでなんとかブログを書いてしまおうと書きにかかった時に来週個展予定の友人から電話がかかってきていろいろな話。いろいろと話し込んで3時を過ぎてしまい、今ようやくブログを書きにかかれたというわけだ。
というわけで『火垂るの墓』の感想。
余談だが、友人からもらった手紙で私の小説を批評してくれてあったのだけど、その批評がとても自分でも気が付いていないようなところを指摘してくれてあって、ああこれが批評だよなあと本当に批評された喜びを感じたところだった。特に水曜日から書いている小説が、その友人に渡した小説の続編的な部分があるのに、どうも自分で納得いっていないところがあって、それは最初に書いた小説の主人公の世界の感じ方みたいなものが今度の作品に有機的につながっていないからだなということが分かったことは本当にありがたかった。ということがあり、私がこのブログで書いているようなことは私自身が作り手であるそういう立場から見た「感想」の域を超えていない、批評にはなっていないなと感じた。その良し悪しは別として、とにかく私の書くものは批評ではなく感想なんだなと思ったのだった。いろいろと思いだすことはあったりするけど、読み手がそこから何かを主体的に吸収していくための作業ではなく、結局はインスパイアされることを求めて見たり読んだりしているのだなということを思ったわけだ。まあつまり、自分にとってそういうことが必要だからそういうことをやっているわけなんだけど。というわけで感想です。
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先ずはっきり書いておきたいのは、この映画は凄いと思う、ということ。一生に一本撮れたら幸せだと思えるような作品だと思うし、今まで見た(というか途中まで見てどの作品も最後まで見ることを放棄しているのだけど)高畑監督の作品の中で間違いなく一番いいと思う。しかしこんなに見るのが苦しかった作品もここのところなかった。見終って思った第一の感想は、この映画はつまり、「苦しんで見るべき作品」なのだということだった。生きることは苦しみを生きることであり、死ぬことがそのことの救済になる。妹が死に、その幻影が防空壕の外で一人で遊んでいる。その有様はまるで天国を見るようで、まさに彼女は天国にいるのだろう。それを見ているとひとりでに涙が出てくる。それまでの見ることが辛ければ辛かっただけ、その哀しい救いのカタルシスは大きいのだろう。
見ることが辛いのは、どんどん兄と妹が「不幸」になっていくからだ。不幸になりそうなフラグがたち、それが確実に回収されていく。その確実性のやるせなさみたいなものに心をかきむしられてしまう。しかしみていると何で?と思うことがたくさんあるのもまた事実なのだ。
【不幸な恋人たちのような兄と妹の生と死。『シド・アンド・ナンシー』のような。】
この映画は兄と妹の生と死を描いているわけだけど、この少年はすごく独りよがりな部分がある。親戚の家に厄介になっていて、母が死んだと知れるとごくつぶしのみなしごの面倒を見ているというふうに露骨に態度が変わり、結局はそれに我慢が出来なくなって二人で池(湖?)のそばの防空壕に引っ越してしまい、食べ物に事欠いて池のタニシ(?)や食用ガエルを捕まえたり、畑の作物を盗んだりし、最後には空襲警報が鳴る中、避難で空になった家を家探しして着物を奪って逃げ、それを食べ物にかえようとしたり、完全に犯罪まで犯してしまう。
彼らは結局親戚の厄介になっている不自由さに我慢が出来なくなって自分たちの命をも縮めてしまったのであり、「意地悪な親戚のおばさん」の振る舞いに我慢して小さくなって生活していたら少なくとも死なずに済んだかもしれなかったわけだ。ふと思い立って「意地悪な親戚のおばさん」という言葉でググってみたら検索結果の上位がいくつも『火垂るの墓』のこのおばさんに関連した文章で笑ってしまったのだが、このおばさんは本当に「意地悪」だろうか。考えてみればわかるけれども、少なくとも特別にひどい人ではないだろう。ちょっと物事をはっきり言いすぎる、口の悪い人ではあるけれども、居候させている子供たちが全然自分の言うことを聞かなかったらいろいろ言いたいこともあるだろうとは思う。自分が少年の立場だったらどうするかと考えてみると、たぶん我慢しただろうと思うし、当時生き残っている同じ立場の子どもたちはほとんどみな、そうしただろうと思う。
それが出来なかったのは少年がやはりプライドが高かったからで、これは原作者の野坂昭如の実体験が反映されているのだろうけど、こういう境遇の中で決然と4歳の妹を連れて家を出て行ってしまうということは誰にでもできることではないから、それを決行した少年への共感と憧憬を同世代の人々は感じたのではないかと思う。母が生きていると思っているから「親戚のおばさん」もちょっとの辛抱だと思って我慢していたわけだけど、いつまで居座られるかわからないと思えば戦時下の厳しい状況の中で少しは役に立ってもらいたいと思っても不思議はないだろうし、「自分たちの持ってきた梅干し」「母親の着物と変えた米」というふうに権利ばかり主張されたら面白くはないだろう。
また近所の農家のおじさんにしてもお金を出している間はいろいろ親切にしてくれたりしてもお金がないから助けてほしいと言われたら掌を返したように「親戚の家に戻ったらどうだ」と冷たくあしらうのもまさに金の切れ目が縁の切れ目で、当然と言えば当然ということになる。これらの大人たちは結局主人公たちに対して「世の中とは、世間とはこういうもの」ということを身を持って教えてくれる存在であり、海軍将校の子弟として不自由なく育ってきた子供たちにとっては初めて接する世間であったことは間違いない。頭を下げて居候させてもらい、状況が変わるまでとにかく生き延びるということは彼らにとって耐えられないことだったわけだ。
そして作物を盗んだ少年を徹底的に折檻して警察に突き出した農家のおじさんも、自分の畑を荒らされて怒るのは当たり前のことだし、警察に突き出すのも当たり前のことだが、説諭して解放すると言われて不満そうにしたら未成年者に対する暴力行為だと言われて急に引っ込んでしまう。いつの状況でも兄と妹に対して優しいのはむしろ官の側であり、庶民は彼らに対して厳しく当たる。少なくとも庶民にとって当然だと思われることをしているにすぎないわけだ。このあたりのところはすごくリアリティがあるというか、たぶん宮崎駿ならこういう撮り方は絶対にしない。悪い、厳しいのは一般に官の側であり、庶民の側には必ず太っ腹な優しいおばさんかおじさんがいて少年たちを保護し、後ろ盾になってくれる。そこに宮崎アニメの夢があり人気の秘密があるわけだけど、現実の社会ではこの兄と妹のような立場のような人間に対して優しいのはむしろ官の側で「世間は冷たい」というのが実際のリアルな現実だろう。
まあそういうわけで私はこの主人公の少年に対して自由であろうとして不幸フラグを次々と立て、それを次々に実現化して行ってしまう何ともやりきれない独りよがりの少年だと思わずにはいられなかったのだけど、もちろんそれは周りと軋轢を起こしがちだった自分の少年時代とも重なったからだ。私は子供のころ早く大人になりたいと思っていたし、それは子どもというものが本当に不自由だと思っていたからだ。しかし、ここで自由を求めて軛を断ってしまったら必ず不幸になる、という予感があり、大人になるまでは、と思って耐え忍んでいるという部分があった。だから私は大人になってから、本当に自分の力で生きることの幸せをかみしめたし、むしろそれだけで満足してしまうようなところもあったりした。
独りよがりだというのは妹に対する接し方にも表れていて、まあなんというかある意味恋人に接するような執着の仕方を感じたのだけど、それを妹への愛と言わずに執着という感じがしてしまうのは、この二人の関係がなんというか周りの人を幸せにしない、そういう感じがすごくしたからだ。彼らが本当に楽しそうなとき、たとえばオルガンを弾いて「こいのぼり」を歌ったり、海辺ではしゃいだりしているとき、周りの人たちは彼らを見て楽しそうな顔はしない。むしろ「親戚の意地悪なおばさん」は腹を立てるし、海辺の親子連れも「何あれ?」という顔で見ている。彼らは仲良くすればするほど周りに疎まれる不幸な恋人たちのようなのだ。
こういう感じ、前にどこかで見たなあと思って思い出したのは『シド・アンド・ナンシー』だ。セックス・ピストルズのシド・ビシャスとその恋人、ナンシーの破滅的な恋愛を描いたこの作品は、ジャンキーの彼らがお互いにのめり込めばのめり込むほど不幸になっていく。雨の中でナンシーが母親にSOSの電話をかけるシーンは、もうどうにもならなくなって医者の診察を受け、滋養をつけろと突き放されて「滋養なんて、どこにあるんですか!」と叫ぶシーンと重なる。できないからできないのに、できないことをやれと言われ、絶望するしかない。
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この映画で一番悲しいけれども一番救いのある場面が妹・節子が兄にどんなにかわいがられても決して言わなかった一言、「おおきに」と言って息を引き取ってから、幻想の中で防空壕の前で一人で遊んでいる場面だとしたら、一番エロティシズムにあふれている場面は死んでしまった妹を柳行李の中にいれ、人形や大事にしていたものたちと一緒にして兄自らが一人で野辺で火をつけて燃やし、火葬にする場面だと思う。まさにあの場面は愛――ここはこういうしかない――と死というもの、エロスとはタナトスのことなのだと納得せざるを得ない場面で、ここですべてが実質的には終わってしまう。このあと神戸の駅で少年が行き倒れるのはもはや彼にとっての救いは死しかないからであり、まさに大団円が霊魂となった彼らが丘の上から「現代の繁栄する都市」を見下ろす場面で終わる。そこで初めて、見る者たちにこういう出来事が現代とつながっている時代に起こっていることを自覚させて物語は終わるのだ。
ここに来て初めて、彼らは譲れないものがあった、逆に言えば独りよがりであったからこそ美しいのであり、悲しいのであるということが分かる。この映画は大きく言えば反戦映画に分類されるかもしれないけど、そんな単純なものではないと思う。どんな時代も、子どもたちは生きていくのが大変なのだ。「4歳と14歳で、生きようと思った。」というキャッチコピーは、本来的な子どもたちの生きにくさというものをうまく表していると思う。戦争がなければ彼らは幸せだったかもしれないが、彼らの父親は海軍軍人であり、まさに戦争を前提として彼らは生活が成り立っているわけだから、そこはパラドックスに陥ってしまう。
そして確かに戦争というものはないにこしたことはないけれども、なくなることを期待するのは現実には難しいものだし、たとえ戦争が無くなったって、すさまじい自然災害や原発事故のような事故や人災を含めて、「不幸」が人間の社会からなくなることはないだろう。その中で人はどう生きればいいのかということを考えると、不幸の真っただ中に突っ込んで行ってもいいから自由に生きろというのはどうかと思うし、そういう選択を迫られないで済んでいる自分たちの「幸運」を感じたり、あるいは「不幸」でない自分たちの幸福を感謝したりすればいいのかという話で済ませるだけでもそんなに面白くはなかろう。答えはないけれども、自分の生き方、自分の人生というものについてどう考えるか、というところに話を持っていかなければあんまり意味がないだろうし、あるいは生きることが困難になった時に生きる力を引き出すバネになったりするようでなければ、この作品の持つ強烈なインパクトが成仏しないように思う。いやまあそんなことを考えずにただこの作品の美しさ哀しさを味わえばいいという考え方もなくはないが。
書き終えてみると、改めて放心してしまう。凄い作品であったことだけは間違いない。
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