ふみふみこ『ぼくらのへんたい』:誰もが通る道とその人以外には決して通らない道

Posted at 12/08/21

【ふみふみこ『ぼくらのへんたい』:誰もが通る道とその人以外には決して通らない道】

昨日何をしていたのかうまく思い出せなくて自分のツイッターのログを見てみたがなおさら思い出せなくてちょっと困った。だいぶ頭が散らかっていたんだなと思う。ブログは8時過ぎに更新しているからそのあと何をしていたんだろうな。頭の整理がうまくつかなくていろいろなことに手が付かなくてむやみにPCの前に座っていた気がする。そういう状態になるよりも、いったん外の世界から意識を切断して本でも読んだ方がいいんじゃないかなとか思ったがとりあえず今読みたいと思う本が見当たらず(読んでない本は何冊かあるのだけど)なんとなく小説のアイデアを打ち込んでみたり、スパイダソリティアをやったり。目が疲れるからあまりPCの前に座るのもどうかと思うのだが。

昼食時に一度駅前の本屋まで行こうかと自転車で出かけたのだが、夜待ち合わせをしていることを思い出して先ず御飯だけ食べようと近所のマイバスケットで昼食を買ってきて済ませる。あの後もなんだか洗濯物をたたんだり集中できずに過ごす。あ、仕事の電話も一件入ってそれにもちょっと気を取られたりした。

3時前に帽子をかぶってリュックで出かけ、郵便局でお金をおろして国保料を払い、駅前の文教堂を覗いてふみふみこを探すが見当たらず。しばらく気になっていた『東京「スリバチ」地形散歩』がまた目に入った。大手町まで出て丸善丸の内店へ行き、2階のマンガコーナーで探したがかなり地味な扱いでようやく一冊だけ見つけてふみふみこ『ぼくらのへんたい』1巻(徳間書店リュウコミックス、2012)を買う。

ぼくらのへんたい(1) (リュウコミックス)
ふみふみこ
徳間書店

ふみふみこは前作『女の穴』がちょっと変わった世界で毒があって面白いなという感じだったが、この作品は「男の娘」三人をめぐる話。なんというかきれいな中学生男子の傷つきやすい心情のこういう言い方もアレだがピュアな世界。『女の穴』は短編集だったから一話完結で毒の量が多いというか味付けが濃い感じなのだが、「ぼくらのへんたい」はわりとあっさりなのだけどふうっとしみこんでいくような味がある。中学生男子の中二病的な部分と、まだ幼い子供っぽい部分と、でもやはりセクシュアリティの問題も関わってくるわけで、簡単な論評は書けない、書きにくい世界。でもこういうのが好きだなと思うのは、あの頃もやもやして言葉にならなかった何かがそういうふうにも言えるんだと思えたりすること。誰もが通る道とその人以外には決して通らない道。そしてその切り分けは、自分の中でうまくできない。そういう未熟さと、その未熟さゆえの愛しさ。ああなんか熱く語ってるな。

自分自身のセクシュアリティは異性愛だけど人間だれしも本当は同性愛的な部分だって全然持ってないわけではないわけで、特に少年期・思春期は『風と樹の詩』ではないが、揺れ動くものがある。現実の汚いガキの世界と、その時期にしかない夢のような美しさ、そして自分がどこへ行ってしまうのかわからない不安。

両性具有の美
白洲正子
新潮社

先ほど考えていて思ったが、「男の娘」って江戸時代以来日本文化の伝統なのだ。女の子よりもずっときれいな男が舞台上や錦絵に現れていたのだから。もっとさかのぼればお能もそうだし、つまりは白洲正子の『両性具有の美』、稚児の美しさとその魅力というのは日本文化を貫く美意識の根源の一つでもある。世阿弥も言っているように、「まことの花」を実現するためには「時分の花」を経験し、花というものをよく理解しておく必要がある。幽玄美というのもそのあたりの定めのなさにあるものだし、三島のようにちょっと不自然な形でなくても男色は日本文化のキーワードの一つであったりするわけだ。

まあとにかくなんというか、この『ぼくらのへんたい』には何かの普遍性のようなものを強く感じる。誰もが通る道でなくても、そこにすうっと入っていく可能性は誰にでもある、そんな風の通路なのかもしれない。

本をいろいろ読んだりして少し早めに待ち合わせの駅へ。早めの夕食をなんだか古民家改造型の無国籍オーガニック料理みたいなところで食べる。おいしかった。二階はヨガスタジオなのだそうだ。そのまんまという感じだが、こういう雰囲気、嫌いではないな。

そのあと東京駅に出て丸善でお茶を飲み、別れてから八重洲北口に出たらまだ三省堂が開いていたので本をじっくりと物色。『コミックリュウ』の10月号を買い、結局皆川典久『東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社、2012)も買った。ブラタモリ的な、微小地形を楽しむ本。こういうのは面白い。

凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩
皆川典久
洋泉社

50になってなんか楽になったなと思うのは、こういうふうにしなければいけないとかこれは我慢しようとかいう無駄なこだわりとか力みみたいなものが抜けた感じがすること。どうせもう50なんだから何したっていいやあ的な。49だとできなくて50だとできるというのはまあ数字のマジックというか暗示の怖さみたいなものだけど、開き直るためには何かのきっかけが必要で、その一つがそういう生物学的な年齢なんだろうなと思う。無理に開き直らない方がいい人も多いだろうけど、私の場合は無駄に力が入りやすいので、自分のやりたいこと、本音を確認しつつ、オープンな感じでやっていくのが吉なんだろうと思う。人にどう思われてもあんまり関係ない。もう50なんだしなあ。みたいな感じで。

若い頃も地形の本とか好きだったし、マンガもよく読んでたけど、それを誰かに認めてもらいたい、評価してもらいたいというような無駄な色気があった気がする。それよりも自分が純粋に好きだから読んで、そのことについて書いて結果的に気に入ってもらえばいい、という考え方が、ようやく心の中に文字通り落ち着くようになってきたというか。つまり昔から年よりくさい考え方だったのだけど、実際に年を取ってきてそういう考え方がようやく板についてきたということなのかもしれないな。なんか自分のことをぼろくそに言ってる気もするが、そうでもない感じもする。まあそういうことをごちゃごちゃ考えてしまう程度には、まだ無駄な色気が残ってるんだろうけどね。

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