夏の朝/『もののけ姫』再考:病のオーラと生きるという選択
Posted at 12/07/25 PermaLink» Tweet
【夏の朝】
明け方はまだ昨日の暑さが残っていたのだけど、7時過ぎの今は少し涼しい。しんとした夏の信州の朝。
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月曜日に日本橋に出かけて、丸善で『Giant Killing』と『へうげもの』の新刊を買い、ついでに『ますむら・ひろし宮沢賢治選集1 グスコーブドリの伝記』(メディアファクトリー、2008)を買った。ジャイキリとへうげものは一気に読んだが、ますむらはこちらの方へ持参して、少しずつ読んでいる。昨日は仕事が忙しかったのだけど、帰ったらマーケットプレイスで注文してあったアニメージュ特別編『宮崎駿と庵野秀明』(徳間書店、1998)が届いていてそれをぱらぱら見るのが楽しかった。宮崎と庵野がパリから複葉機に乗ってサハラへ飛ぶという『紅の豚』みたいな企画で、二人の対談もあったのだけど、終始宮崎が庵野を気にかけている感じの話になっていて、いいおやじさんだなあという感じだった。まあ例によってわからず屋っぽいところもあるのが面白いと思ったのだけど。
どうも仕事の忙しさが伝染していて、ことに集中できない感じがあるのだけど、ぼちぼちやろう。
【『もののけ姫』再論:病のオーラと生きるという選択】
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『宮崎駿と庵野秀明』、記事を少しずつ読んでいるのだけど、すごく面白い記事がいくつか。一つは「ドイツベルリン映画祭インタビュー 『もののけ姫』への44の質問 海外の記者が宮崎駿監督に問う」で、もう一つは「庵野秀明監督実写映画『ラブ&ポップ』をめぐって 対談 庵野秀明VS榎本ナリ子」の二つ。やはりこの二人は違うなあと思った。今日はとりあえず『もののけ姫』について。
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『もののけ姫』はジブリ映画で私が最初に見たものなのだけど、最初だけによくわからなくて、イヤにイメージの像の結びにくい複雑な映画だなと思った覚えがある。そういえば借りたDVDが途中で画像がおかしくなる個所があったし、見たのも大画面のテレビではなくほとんどPCで見たので、もう一度見直した方がいいかもしれないと思った。もちろん印象に残った場面はたくさんあったが、内容を読みこめたかと言えばほとんど読みこめてなかったなとこのインタビューを読みながら思った。わかる、とか感じられる、ということに関しては『千と千尋の神隠し』の方が上だったので、『千と千尋』は何度も見なおしてほとんどの場面は覚えてしまったくらいなのだけど、『もののけ姫』は太古の森のように、記憶が錯綜している。
だいたいこの映画は、繰り返して見るには重すぎる部分があって、あまり直視するのを避けていたようなところがあったのだけど、むしろ本当に宮崎駿が行くところまで行ってしまったのはこの『もののけ姫』だったのだなとインタビューを読みながら思った。それはその前の時期に公開され、同じ時期にブームの絶頂を迎えた庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』が実に行くところまで行ってしまった映画であったのとシンクロしているように思われる。
『エヴァンゲリオン』はテレビ版の驚きの結末をはじめ、劇場公開版や新劇場版など本人もまたあらたな制作を続けているけれども、その異様に突き詰めたストーリーのその先の破綻からさまざまなものを生みだす母胎になった。『もののけ姫』はそのような語られ方はしていないけれども、これは実はものすごいものを生み出そうとしているのではないかと思う。というより、この映画はまだ正当に語られていないのではないかとさえ思った。
正当に語られていないと言えば、おそらくは宮崎監督の多くの作品がそうなのかもしれない。『千と千尋』はずいぶん多くの言説があって私もいろいろな感じたことを書いていたりするけれども、たぶんこの映画は批評が書きやすい映画なのだ。しかし彼の作品はそんなサービスに満ちたものばかりではなく、もう理解を拒絶しているようなものがあったりする。
たとえば、2004年に公開された『ハウルの動く城』なども本当はかなり読まなければいけないところがあるのではないかという気がする。考えてみれば2001年の同時多発テロの後の最初の宮崎監督作品が、単純なラブロマンスであるはずはないのであって、何を言おうとしているのかまだ本当には読み取れてないとは思うのだけど、ハウルの評価について宮崎が怒っているというのを読むと、みんな読めてないんだろうなあと思う。
私はいろいろな物語を書きたいと思っているのだけど、日本の過去の歴史を舞台にした物語を書きたいと思ったことがなくて、そういう意味でも『もののけ姫』をきちんと勉強しようという気持ちがなかったこともある。ちなみにこの「勉強」といういい方は小澤征爾が自分の指揮する曲の譜面を読みこんでその曲の演奏の仕方を作っていく過程を「勉強」と表現しているのに倣ったのだけど、もっともっと過去の先行作品の「勉強」が必要だなとこのインタビューを読みながら思った。「エヴァンゲリオン」をもう一度見るのはきつそうだが、部分的には気になるところを見返して見るのもプラスになるかもしれない。
『もののけ姫』のおおもとになるアイディアを問われて宮崎はこういうふうに応えている。
「それともう一つは、人間が人間の存在に疑問を持ち始めたこの時代に、そうした疑問が大人や哲学者の問題じゃなくて、子供たちの中にも本能的に広がっているのを感じて、自分はその疑問についてどう考えているのか答えなければならないと思ったからです。この映画を作った一番の理由は、日本の子どもたちが「どうして生きなきゃいけないんだ」という疑問を持っていると感じたからです。」
この宮崎の思いはこの映画のポスターに書かれたコピー、「生きろ。」につながるわけだけど、この90年代後半という時代はエヴァもあり、阪神大震災もあり、オウム事件もあり、バモイドオキ神もあり、さまざまに人間というものはこういうものだと素朴に信じていた多くの部分が崩壊し、ある人たちにとっては破滅の縁に立たされた時期だったと思う。考えてみると私自身にとってもそうで、もう毎日が生きるか死ぬか、やっとの思いでただ生きて働いていた時期だった。あの当時私は宮崎駿という人の作品にいま思うとずいぶん浅いところで(つまりその戦後民主主義性に対して)反発を持っていたために「生きろ。」というコピーも鼻で笑ってしまっていたところがあったのだけど、私から見て深いところで生きていると感じられる人たちの何人かがこの映画を見て深い感銘ないし衝撃を受けていて、いつか宮崎駿を見るならば『もののけ姫』、と思っていた作品ではあったのだ。
言われてみればそうなのだけど、「生きろ。」という答えの前には「なぜ生きなければならないんだ、生きていたくない」という絶望があるはずで、私はまあ簡単にいえばその絶望を直視したくなかったのだと思う。直視して、そしてその次の日に平気な顔をして出勤する自信が皆無だったからだ。だから何もかも、そういうことを考えそうなものは完全に拒絶していた。そうだなあ、そういう状況も思いだしてくる。私は結局そういう状況を自分の意地だけで乗り切った、というかもちろん周りで援助してくれる人はいないわけではなかったけれども、自分のその時の感じとしてはそういう援助も溺れる者のつかむ藁であって、誰のどういう援助であったのかとかは十分認識できていなかったりしたのだった。
それではそうした絶望をこの作中で体現しているキャラクターは誰かと言えば、そんなことは言わなくてもわかると言われるかもしれないが、私はそれがはじめて「サン」であることを認識した。つまり私は「サン」というキャラクターについて、そこまで深く見られていなかったのだ。
私にとってこの話はあくまでアシタカの話であって、タタリ神と戦ったために呪いを受けエミシの村を追放され、新たな生きる場所を求めていく、そこで自分の運命と戦い、乗り越えていくという話の主旋律の方に立って見ていた。もちろん自然を壊して行くことによって必然的に人間に科せられるタタリ、のろいと言ったものを引きうけていかなければならない状況や、一度滅んだ太古の森=シシ神は二度と蘇らないという絶望、しかし本当の豊かさ失われたけどそれから後でも生きていかなければならない生命たちによって第二第三の森が作られて行くといったテーマも読んではいたけれども、「サンの絶望の深さ」というところは全然読めていなかったなと思う。
なぜサンがここまで人間を拒絶するのか。なぜアシタカだけは受け入れるのか。すべてが終わった後でもなぜ人と生きようとはしないのか。サンという存在はいままで自分には見えて来ないもので、そこに何を見るべきなのかについて考えて来なかった。というのは、おそらくは、見なかったというよりは私の中の何かが「見るな」といった、目を逸らさせていたのではないかと思えてきたのだった。
私がブログだけでなく、何か文章を書くとき心がけていることがあるのだけど、それは何かについての感想を書いたりするときは、なるべく自分のいのちの深いところで受け止めたことを書こうということだ。決して観念操作になりそうなことを書きたいとは思わない。その作品の目指すものがそういうものであったらそういうところに付き合うけれども、より深いところで受け止めたものを書くというのが私の書き方で、まあそうでなければ自分が文章を書く意味はないと思っている。誰でもそういうふうに考えているわけではないのだということは最近分かってきたし、作品についてはなるべく作品の世界の中でのことについて書く、という方針もそれはそれでわかるしきちんと自他の区別がついていてそれはそれでいいなあとちょっと感心したりもしたのだけど、私にとって何か作品を見るということは自分の内面世界に何かの事件が起こるということなので、それが自分の中にある何かと戦うものである場合は戦わなければならないし、受け入れられないものであれば全力で排除しなければならない。しかしそのように戦う中で受け入れる、つまり痛みを伴いながら何かを得る、ということが自分にとっての作品鑑賞であって、そこにしか自分の新しい価値を生み出す、見出すことができないように思われる。
まあだからおそらくは独善的になったり一方的になったりもしているだろうし、自分にとって受け入れられない作品については全然読めなかったりもする。村上春樹などはけっこうそういう作家なのだが受け入れられずに読み続けることによって自分の中の深いところでの鈴の共振みたいなものを感じることがあり、いやいやながら読み続けているのだが、村上はそういうイヤな感じと気持ちを引かれる感じのブレンドが絶妙な人であって、まあだからあれだけ売れるのだろうなとは思う。
まあ宮崎の作るものはアニメなので、そこに多くの救いがある。きれいな場面があればそれだけでほっとするしため息もつく。シシ神の泉の場面など、もうどうしようもなく素敵なのだが、ああいうのがあったら本当にこのあちこち故障のある体を直しに行きたいものだとか、ビジュアルな力、オーディオの力によって見るものを追い詰め過ぎないところがある。
だからサンにしても、私はそういう「癒し」を為す人がなぜそれだけ頑ななのか、という方向に考えてしまったのだけど、むしろ頑なな人間がなぜアシタカを癒そうとしたのか、と考えるべきだったのだな、と今では思う。
もともとこの映画は「ティーンエイジャー向け」だと宮崎は言っていて、その意味は「この映画が精神的に健康で丈夫な人のためのものではないですから、自分が十分に痛みを持っている人たちには、あれだけのアシタカとサンの描写で十分に彼らの痛みが通じると思ったからです」と言っている。この言葉も実に衝撃的で、言われてみてはじめてこの映画全体にそこはかとなく漂っている「病のオーラ」みたいなものがそういうことだったのかと思わされた。宮崎は他のところでこの映画について「ひたすらスタッフを食いつぶして行く映画」であると言っているけれども、ある意味そういう病のオーラに照準を合わせることの無理やりさみたいなことを言っているんだなということも初めて合点が行った。
15世紀、すなわち戦国時代に日本の歴史の転換点があったということはよくいわれているけれども、宮崎はそれを産業的な飛躍ととらえ、そのために「経済成長と同時にひどく無思想な、理想のない行動をたくさんするようになった」、すなわち「現代の日本への批判」でもありつつ「人間という生き物、存在をもっと深く考えなければいけない」が、ただの批判からは何も新しいものが生まれて来ないですから、新しい感覚をつくりだすことを考えるべき」だと述べていて、そういう意味ではそうした新しい感覚の提案としてこの映画を作ったのだということを示唆している。
それはつまり人間の業というものを前提とした生き方、自然を滅ぼしてしまうことで自らも傷を負いながら自然から搾取しながらでなければ人間は生きられないのだ、ということを踏まえたうえでどう生きるか、という問いかけと言えばいいだろうかと思う。アシタカが作中で「鎮まれ、鎮まりたまえ」と何度もいう、その日本的な自然観を表現したいというのもその一部だろう。
「コントロールできなくなった憎悪をどうやったらコントロールできるか」というテーマもここで示されているのだけど、これについてはあまり考えてないのでまたの機会にしたいが、しかしこれは同時多発テロ以降より一層重要になってきたテーマであって、まだまだ多くの表現者が取り組まなければならないものではないかと思う。
「サンは自然を代表しているのではなくて、人間の冒している行為に対する怒りと憎しみを持っている。つまり今現代に生きている人間が人間に対して感じている疑問を代表しているんです」というのも言われてみてなるほどと思った。
サンは人間を否定している。醜いものだと思っている。生きる意味がないと思っている。しかしアシタカはたとえそうであっても、人は生きなければならないと言っている。生きろ、と言っている。
人は生きなければならない。たとえ美しくても。確かに醜くても。善人であっても。悪人であっても。生きて。そして死んでいく。人が生きるということの大変さは、生きるということそのものの中にある。
「サンとアシタカは、実は私たちのまわりにいるたくさんの子どもたちの中で精一杯生きているのです。ですから大人たちには分からなかったけど、アシタカがサンに「生きろ」と言った時に、「生きよう」と心に決めた子どもたちがずいぶんいたんです。そういう手紙をたくさんもらいました。」
宮崎は子どもたちの中にサンとアシタカの姿を見、そしてそれを描いた、のだという。私の場合、この年まで生きて来たということはある時点で「生きるんだ」と思ったからなわけだけど、確かに十代、特にその前半でこの映画を見ていたら同じような感想を持ったかもしれないなと思った。それはわかるのだけど、制作者としてこれをどう受け止めたらいいかということを考えていると、考えているうちに寝落ちしてしまい、夢の中で何かのキャラクターがストーリーを生みだしたりしているのだけど、目が覚めたらどこかに行ってしまったりする。私の書くべきストーリーは、そういうところにこそあるのかもしれないとここを読んで思った。『ガール』という作品を書いたときは全く向こうからキャラクターがやってきてひとりでにストーリーが出来てしまったが、このストーリーと宮崎の言葉を考えているとそういう作品が生まれて来る漆黒の、しかし充実した闇に向かって降りていく、そういう道筋が見えて来る気がする。
そのほか面白いところはたくさんあったが、だいぶ長尺になったのでこのくらいにしておこう。最後にあと二つだけ書こう。暴力的な描写について尋ねられた宮崎は、「子どもたちの内面に確実に存在している暴力」に触れないことには「子どもたちに説得力を持たない」し、「バイオレンスを楽しむ映画ではない」から、「ぼくは自信を持って言います。「もののけ姫」を見て子供たちが真似をして人を傷つけることは絶対にないと。」と言っていて、まあそりゃそうだなと思った。宮崎映画での暴力は人間の業として以外は描かれていない。その業を引きうけるために暴力をふるいたい、と思うような子どもは、もはや子供ではないだろうと思う。
そして監督に影響を与えたものは何ですか、という問いに対し、『雪の女王』や『白蛇伝』を上げているが、これは他の所でも何度か出て来る。「(ディズニーよりも)そういう作品の方がはるかにインパクトがありました。それは人間の心や思いを描いていたからです。ぼくはこれらの作品に感動して、人間の心を描くにはアニメーションが一番表現手段として力を発揮するだろうと思ってこの世界に入ったんです。」宮崎にとっていかにアニメという表現手段が絶対的なものなのか、ということをこれを読んで強く思った。そしてこうしたインタビューなどで実に饒舌な彼がなぜアニメ制作をやめず、文字を書く作家にならないのかということにも心の底から合点が行った。彼にはアニメしかなく、アニメを彼が生きているのだと。それは我々及び我々以下の世代のおたくがアニメしかないというのとは全く違った次元なのだ。これからはおたく以外の人がアニメの世界に入り、アニメの世界を担っていかなければならないなと思う。そうした可能性を考えていると楽しい。
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