鹿島田真希『冥土めぐり』読了:六道輪廻と愚者による救い
Posted at 12/07/22 PermaLink» Comment(4)» Trackback(1)» Tweet
【鹿島田真希『冥土めぐり』読了:六道輪廻と愚者による救い】
昨日はずっと体調が悪く、夕食もきちんと食べられなかったのだが、7時前の特急で上京。その車中、鹿島田真希『冥土めぐり』(河出書房新社、2012)のうち芥川賞受賞作の同題「冥土めぐり」を読了した。
冥土めぐり | |
鹿島田真希 | |
河出書房新社 |
小説を読んだ感想はだんだん変化していくことがよくある。読んでいる最中、読み終えた直後に得た感じというのは必ずしもここに書くことと同じではない。そしてそのように変化していく過程を持つ感想を与える小説というのは、それだけ味わうことのできる幅を持っている作品だと言えるのかもしれない。今回は、私が読み終えた翌日の午後に感じている感想ということで書いてみたい。
この小説は、全体として六道輪廻みたいな話だなと思う。印象として近いのが映画『旅の終わり』だろうか。しばらく断片的な書き方にしてみよう。先ず断片的に書くことで書いているうちにはっきりとこの小説に対する感想という名の像が結ばれていくのではないかと思う。
面白いか面白くないかということで言えば、正直に言えば思っていたよりは面白かった。この作品が芥川賞を受賞するんだ、というのはなんか感慨がある。芥川賞受賞作っぽくないのだ。それは今回から石原慎太郎と黒井千次が抜けたことと何か関係があるのかもしれないとも思う。
なんというかこの小説は、私の読みたい種類の話に近いのだ。芥川賞受賞作というのは私にとっては異物であることが多く、小川洋子のように割合好きな作家であっても『妊娠カレンダー』は妙に賞狙いっぽくてある種の芥川賞候補作の典型みたいな感じがあった。この「冥土めぐり」はそういう変な定型から外れていて、なんかこういう(私から見れば)素直な作品が受賞するというのは、ストレートに言えばいい傾向だなと思う。
上にも書いたが、これは六道輪廻を描く、みたいなある意味伝統的な定式を持った作品だと思う。逆に言えば前衛性が薄い。私自身、前衛的な作品が嫌いなわけではないが、「芥川賞的な」前衛作品というのはあんまり好きでないことが多い。川上未映子や町田康やモブ・ノリオなどはあまり好きだとは言えない。だからこういうもっと伝統寄りの定型を持った作品が純文学の新人賞の最高峰である芥川賞を受賞したというのはそういうものを読みたい私にとってはよいことだ。まあ鹿島田さんもデビュー14年だから新人賞と言っていいのかどうかは謎ではあるのだけど。
簡単にあらすじを言えば、「裕福だった過去に執着する母と弟」に振り回される主人公の女性が自我の殻を閉じたままいろいろなたまらない経験を続けていくのだが、馬鹿正直な夫と出会って結婚する。主人公の夫にたかろうと考えていた母と弟はたかりがいがないとがっかりするが、さらに夫が病気になって母と弟はたかることが全く不可能になる。主人公は障害者となった夫と生活を続けるが、ひょんなきっかけで夫とともに一族の裕福な過去の象徴である古いリゾートホテルへの旅行に出かけ、過去を回想する過程の中で夫という存在の価値を再認識し、六道輪廻のような世界から脱出していく、という話だ。
六道輪廻と言えば、天人五衰という言葉がある。この作中に出てくる母と弟の像をその言葉で象徴してしまうと上等すぎるような気がするが、まあもともと天人五衰というものはこういうことだったのかなとも思う。元スチュワーデスの母は会社を経営する祖父に連れられて立派なリゾートホテルで着飾って過ごした過去が忘れられない。弟は自分が並はずれた才能があるという幻想の中にいて、金さえあれば留学して大成するのに、という妄想に囚われ続けている。主人公は正反対の地味な性格でパンフレットの折り込みのような仕事をしているうちに区役所勤務の夫と知り合う。
この小説の中で強烈なキャラクターがいるとするなら、それは母と弟だろう。母は少女趣味のピンクの部屋で暮らしながら、自分を「ただで、何度でも」ヨーロッパに連れて行ってくれるような人を求め続けている。二人とも金には貪欲で、主人公がセクハラで仕事を辞めたとき嫌がる主人公を抑えて訴訟を起こし、相手からせしめた金で高級レストランで下品な食事をする。
このセクハラ事件の時、主人公に対し母親は訴訟を起こそうと言い、嫌がる娘に「拳でテーブルを叩い」ていう。
「呆れた。どうしてあなたは私のために何もしてくれないの?私はただお金がほしいだけなのに。哀しい。思いやりのない子ね。どうしていつもいつもそんなに親不孝なの?私を愛してくれてないの?娘なのに。」
まったく唖然とするような、吐き気を催すようなセリフなのだが、ある意味全く身も蓋もなく「金が欲しいだけ」であり、金をよこさない娘に「愛してくれてないの?」と愛を強請るこの母親のキャラクターはある意味滑稽であり、六道輪廻図の恐ろしい餓鬼や畜生の絵のどこか滑稽なところと酷似するものを感じた。
こういうものたちに囲まれて育った主人公もどこか壊れているところがあり、その「自分は幸せに縁がない」という感じ方から、夫が障害者になってもその境遇をそのまま受け入れるというある種の運命の好転を受け入れることにもつなる。
最終的に主人公は、わだかまりがないわけではなかった純真な障害者の夫と共に生きていくことを改めて心に据えるのだけど、それは運命に対し常に開いた姿勢でいるある意味「愚者」とも呼べる夫こそが主人公にとっての「救い」になる、という話になる。これが古典的と言わずしてなんと言おうかという感じである。
思い出す作品はいくつかある。たとえば『旅の終わり』。主人公の少女は四国を放浪し、お遍路と同じ道をたどる中である種の地獄めぐりを経験し、そして最後に出会った屑ひろいの男のもとに転がり込む。語りの仕方や話の組み方の構造は違うが、物語の成り立ちは同じだろう。あるいはフェリーニの『道』。何も信じない屈強な芸人のザンパノにとって、本当に救いになるのは知恵遅れの純粋な女、ジェルソミーナであったことを、彼女が死んだ後に気づいて嘆く、という話。
そして『平家物語』の「大原御幸」。平家の滅亡後、大原に籠る建礼門院を後白河法皇が訪ねてくる。清盛の娘であり、高倉天皇の中宮であり、安徳天皇の母であった建礼門院徳子は、法皇に「私は生きながら六道を輪廻した」と語る。天人、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄。彼女の経験は平家の栄華の絶頂から一族の滅亡へと急転する運命にただ翻弄され、いまはただ山奥に隠棲している。そこに現れた後白河法皇を「愚者」というのはまああれなのだが、今回の大河ドラマにも現れているような自分の欲望に忠実でサブカル(今様)好きのアヴァンギャルドな帝王は確かに自分で王と道化の二役を演じているようなものだ。まだ老いてはいない女院の隠棲地を自ら訪れる好色な法皇の、下心がゼロとは言えないところがこの物語の一つの味わいだろう。このことは梅原猛が何かに書いていたが、「冥土めぐり」を読んで思い出したものは、こうしたいずれも現代の古典ともいうべき作品群であったわけだ。
まあ不満もないわけではない。書き出しの部分の主人公の夫に対する視線の冷たさが、だんだん本質的なものでないことは明らかになってくるのだけど、読み終えてから最初の部分を読み返すと違和感がある。生硬な感じがしてしまうのは私だけだろうか。
しかしまあ、今回の作品は私は面白かった。単純に好きかどうかと尋ねられれば、2005年下期の受賞作、絲山秋子「沖で待つ」以来の好きと言える作品かもしれない。「きことわ」とか「終の住処」とか「道化師の蝶」なども感心はするのだけど好きというのとは違う。やはり私は小説芸術というものは半分向こう側の世界が見えるようなものにその存在意義があると感じる方なので、そういう側面のリアルさ、少なくとも自分に感じられるそういうものに近いものに共感を覚えるのだなあと思う。
人は皆地獄を抱えて生きているのだけど、そのことを何でもなく生きられる人もいる。そういう人を敬って言えば「愚者」ということになるのだろう。宮本武蔵にとっての沢庵やアナンダにとってのブッダもまたそういう存在ではあるのだけど、男が書くとそういう「愚者」は「尊者」「勝者」になり、女性が書くとむしろ純粋な「愚者」として立ち現れるのではないかという気がする。どちらがいいかともいえないが、その背後により偉大なるものの光が感じられるという点で、愚者が勝るところもあるのだなと思う。
主人公の母のようなタイプの人間が、小説の中でしか見たことがないという人がいれば、その人は全く幸せな人だろう。私は教員時代、生徒の保護者でこういうタイプの人間を何人か見てきたが、何とも救いようがない思いにとらわれた。そういう意味でこういう描写はそういう人たちを思い出していやになってしまう部分もあるのだけど、一方では描かれた像を読むと彼らの滑稽な点もまた見えてきて、ある意味愛すべき?キャラクターだと見えないわけでもない、くらいには見えてくる。実際に付き合うのは御免蒙りたいけれども。
そしてもっと大きく見れば、過去の栄光を忘れられないこの親子は現代の日本社会そのもののようにも見えてくる。不況期、低成長期を迎えてもう20年にもなるのに、いまだに高度成長や場合によってはバブルの夢を捨てられない人たち。そういうカリカチュアとしてもこの親子は描かれているのではないかと思った。
生きるということ、運命ということをそのまま丸ごと受け入れられる、夫のような存在。「――海のことなら、小さいころから知ってるよ。満ち引きがあるんだ。潮だよ。」自分の生活について理不尽だとか、矛盾だとか愚痴をこぼす主人公に夫は、「そんな言い方したって、わからないや、」と言われそうだと思う。この人は特別の人なんだ。きっと彼にとっては、すべては満ち引きなんだ。
多分これって、石原慎太郎は嫌いなフレーズである気がする。いまだにオリンピックのようなバブルの夢を追う政治家でもある作家にとって、こういう運命の受け止め方は敗北主義にしか取れないだろう。
しかし現実の夢や希望というものは、そういうものをいったん受け入れる中でしか、あらゆる運命を怖がらずに受け入れ、それをつぶさに見る中でしか本当の自分は見えてこないのではないか、と思う。別に等身大である必要はないのだけど、バブルである必要もない。個人にしても日本にしても、復活するとしたならそういうあたりからゆっくりと立ち上っていくのではないかと思った。
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from soramove at 12/08/26
書籍「冥土めぐり」★★★ 鹿島田 真希著 , 河出書房新社、2012/7/7 ( 156ページ , 1,470 円) <リンク:
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CommentData » Posted by ゆりか at 12/08/04
はじめまして。私は今日、この本を読みました。皆どういう感想を持ったのかなと思って探している内に、このブログにたどりついたところです。
面白い感想ですね。バブルの話とか、なるほど~と目から鱗が落ちたように思いました。おまけに文章が上手なので、コメントを書くにも気がひけます。
それでですね、駄文の恥を偲びつつ、少しお伺いしたいと思ったことがありまして。
私は、この主人公が母親に対して思う気持ちって、ちょっと大げさなんじゃないかな・・?と思ったりしました。うんざりする気持ちっていうのはわかるけど、かといってそこまで、自分自身を幸せに遠い存在だと追い込めるものかな?と。
実際にそういう親を見た、とありますが、子供はやっぱり委縮していたようでしたか?もし、ご回答いただけたらと思いまして。何だかんだ言っても、フィクションだからな・・・と思いつつ、何とものどに小骨がひっかかった感じがしているんです。
お忙しいところ申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
CommentData » Posted by kous37 at 12/08/04
>ゆりかさん
コメントありがとうございます。
そうですねー。主人公の母親に対しての思いにリアリティが感じられない、ということでしょうか。
ちょっと微妙な言い方になりますが、まずこういう母親や弟を実際に見たり話をしたりしたときどう思うかと言えば、多分主人公に近い感情を私は持つと思います。まあ私だったらもっと強く拒絶するとは思いますが。
ただ実際、知っている例で言えば、そういう親がいても子供は案外強く生きているということがありますね。ぐれて道をそれたり、1年不登校になってまた復活してちゃんと卒業したり、まちまちですが。逆に言えば私は、そういう親なのによくけなげに頑張ってるな、という感想を持ってました。私がその立場ならもっと強く、激しく親を憎むだろうと思いましたので。
だから方向性は違うけど、そういう反応をする主人公のことは共感を覚えました。でも実際には、ゆりかさんや私の知っている子供たちのようになんとなくスルーしていくことも多いのかもしれないな、とは感想を読ませていただいて思いました。
そのあたりのところどう受け取るか、多分人それぞれなのだとは思いますが、私などは「親というものはこうあってほしい」という気持ちが強い方なので、そのあたりで主人公に共感するのだと思います。そういうのがあまりなければもっとおおらかに接することができるのかもしれませんね。
お返事になっているかどうかわかりませんが。
CommentData » Posted by ゆりか at 12/08/05
丁寧なお返事をありがとうございました。自分のコメントを見ると、余裕がなくいっぱいいっぱいの文章で、ホント恥ずかしいです。色々考えていただいてありがとうございます。
この「冥土めぐり」は、テレビの番組で紹介されていたのを見て、興味を持って読んだものでした。特に、著者の鹿島田さんがこの話を書くのに10回も書きなおしたとか、実際に御主人が車いすに乗っている方だとか、「冥土」というものの著者の考え方とか、そういう話を聞いて面白そうだなと思ったんです。
それで、やっぱりこの作品の、車いすに乗ることになった夫の話は、「リアルだな・・」って重さを覚えました。でも、それに対して母親と弟との話は、ちょっと軽いような感じを受けた訳です・・・。確かに、こういう主人公のような、自分の感情を殺しちゃう人もいるだろうけど、そうじゃない、親を捨てるケースとかもあるだろうに?と思ったところに、kous37様のブログ記事を読みまして、実際の子供の様子を伺ってみたいと思った次第です。それで、そういう環境で育った子供は全てが親に踏みつけにされている訳でもないということを聞いて、なんとなくほっとしました。お陰さまで、この作品に対しても、気持ちの余裕ができました。
それで余裕を持った目で、改めて作品の全体を考えると、車いすに乗ることになった夫を際立たせるためには、やはり主人公はこういう人の方がいいんだろうな、と思いました。もしこれが、親を捨て、たくましく人生を歩むような主人公だったら、この夫の良さはまるで浮かび上がらないなぁと。テレビの番組で鹿島田さんも、自身の「夫を描きたかった」言ってたんですけど、なるほどこの作品は、“この夫の良さ”を描き出すものなんだな、と腑に落ちました。
それにしても、今回のブログ記事のようにバブルの話を彷彿とさせたり、障害者の精神の強さを考えさせられたり、夫婦愛を考えさせられたり、親や兄弟との関係性を考えさせられたり、なんだか妙に感情移入させられてしまって、実に色々な切り口で見ることのできる作品だったな・・・と思いました。
お返事、ありがとうございました。kous37様のそのほかのブログ記事も少し読ませていただきましたが、文章が上手ですね。うらやましいです。これからも興味深い感想やブログ記事を楽しみにしています。
CommentData » Posted by kous37 at 12/08/06
>ゆりかさん
ご丁寧な返信ありがとうございました。^^
夫というのは、確かに書き方の難しい人だなと思います。その補助線として母や弟のようなあり方の人を書くというのはいいかもしれません。そして何かが引き出されていく主人公、その引き出していく行き方を書きたかったのかもしれないなと思いました。
まあある意味母と弟の二人、それに主人公も、負の側面を担わされすぎている感じはしなくもないですが、そのあたりが生き生きとしているのですから、それは作者の手腕なんでしょうね。
ほかの記事も読んでいただいたそうでありがとうございます。とにかく量だけはありますので、お心に残ったり何かの役に立ったりする記事が少しでもあればと思います。^^