何かを守るということ

Posted at 12/07/16

【何かを守るということ】

橘玲『(日本人)』を読了してからブログを書こうと思っていたのだが、なかなか読み終わらないのでブログの方を先に書こうと思う。

世の中には色々な役割がある。私は何かを作りたい、という気持ちもある人間だけど、何かを守りたい、という気持ちもとても強い人間なんだ、と思った。何かを作る、特に何か創作的な文章を書こうとしたときには、何をテーマにするかという話になる。今まで自分が書いたものを振り返ってみて、いまもまたこういうものを書きたいというものを考えてみると、何かを守りたいという気持ちが表れているものが多い。

それは具体的な誰かだったり、もっと大きな何かだったりする。小さな、か弱い、繊細な何かであることが多い。もちろんそれはその時にはそういうものであっても、いつまでもそういうものであるとは限らない。ちいさな女の子はか弱く繊細であるけれども、いつまでもそうとは限らない。強く主張し、自分を貫く強い女の人になるかもしれない。侵略された民族集団が立ち上がり、世界有数の企業家集団を形成するかもしれない。弾圧された文化が世界を変えるかもしれない。しかしそういう何かも、弱い時もあるし弱い部分もある。そういうものを守りたい、という気持ちがあるんだなと思う。

特にそう思うのは、「こころ」に関する部分と「文化」に関する部分だなと思う。いじめの問題について考えてしまうのは、それが「こころ」に関する問題だからだし、読書や絵画について考えるのは、それが「文化」に関する問題だからだろう。

そういういろいろな個々のことに関して取り組んでいる専門家がたくさんいるわけだけど、まあアーチストとかそういう人たちのことだが、そういう人たちが文化行政や文化産業に関しても関わってくることが多い。なかなか難しいなと思うのは、そういう立場に立ってもマネジメントの専門家や行政の専門家となかなか渡り合うのが難しいだろうなと思うことと、そういう人は名目的な責任者の立場に立たされることが多くて、何か問題が起こると矢面に立たされて激しい追及を受けることになるということだ。

高松塚古墳の壁画が剥落した問題の時の文化庁長官は河合隼雄氏で、彼はこの問題でマスコミの前に立ち、こころない悪罵を浴びせかけられ続けた結果、脳血管疾患を起こして亡くなってしまった。臨床心理学会にとっては臨床心理士の認定制度などにおいて彼の政治力を強く必要としていた時にそんなことになってしまったのは痛恨だったようだ。また今回の橋下大阪市長の文楽弾圧問題でも、矢面に立たされた7代目竹本住大夫(91歳)が脳血管疾患を起こしてしまったということがある。それぞれの専門に生きた彼らは非常に繊細な感覚を持っているから、どう考えても無茶振りな新聞記者や政治家の攻撃にあえばひとたまりもなく肉体的に崩壊しても不思議はない。

だから本当はそんな目に合わないように、誰かがその責を負うべきだと思うのだが、そのあたりの構造的問題がなかなかうまくいかないのだろうなと思う。

何か少しでもそういうことでも役に立てることはないかと思っているのだけど、思いから実現までの距離はとんでもなく長い。というか、自分が何をやるべきなのか、何がやれるのか、もっと試行錯誤して行かないといけないなと思っている。

やりたいことは、本当はすごくたくさんあるんだなと思う。思いつめるようなことがないようにしないといけないのだが。

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