鉱脈に近づく/大学の経営戦略の成否と功罪:倉部史記『看板学部と看板倒れ学部』

Posted at 12/07/14

【鉱脈に近づく】

また新しい作品を書き始めた。このところ書いては中断、書いては中断ということを繰り返しているうちに、少しずつ本当に自分が書きたいものに近づいている感じがする。というか近づいているといいなあと思うのだが、最初に五里霧中で書き始めた作品に比べると、だいぶ見通しが立ちやすい作品になってきた。本当は最後まで完成させたいのだが、今はまず本当に書きたいと自信を持って言える作品をつかむことが第一だと思っている。本当に書きたいもの、という鉱脈を探し当てればあとはいくらでも書ける、という予感のようなものがあり、今はそれに向かって試行錯誤していると言えばいいだろうか。途中までの作品もそれはそれで自分は好きなのだが、今無理に最後まで書くよりもまず鉱脈を見つけることの方が先だという感じになっている。それでも自分の中のいろいろなところを掘り起こせることは面白い。

ここのところ自分の中身を自分自身に向かってだがとにかく晒すことばかりをやってきたのだけど、ようやく他の本がまともに読めるような感覚が出てきた。そこから何を自分が吸収するかということを考えて。つまり、自分の芯の形成がようやくほぼ終わり、そこから自分のやりたいことをやるための方法論を取り入れたいという感覚が出てきたという感じだ。自分の芯といっても本当の意味では芯は中空なんだと思うが、自分の中の恐怖をはじめとするさまざまな感情、自分が変わっているとか特殊であるという衒いや気負いのようなものに自分の根拠を求めない、と言えばいいのだろうか。もっと自分は自由で柔軟な存在なんだと思うし、そうでなければいけないのだと思う。からだもこころも。その中で自分の視野をさらに広げつつ、人間の可能性を広げるような試みを追いかけていければいいなと思う。


【大学の経営戦略の成否と功罪:倉部史記『看板学部と看板倒れ学部』】

看板学部と看板倒れ学部 - 大学教育は玉石混交 (中公新書ラクレ)
倉部史記
中央公論新社

いま読んでいる本は二冊で、倉部史記『看板学部と看板倒れ学部』(中公新書ラクレ、2012)と昨日も書いた橘玲『(日本人)』(幻冬舎、2012)。両方とも面白いし、自分の知らなかった知見がたくさん出てきて読みがいがあり、また両方とも自分自身にとっていろいろな意味で役に立つ本だと思う。

『看板学部と看板倒れ学部』は現代の大学経営戦略とそれが現実に引き起こしているミスマッチなどを描き出していて、読んでいて非常に面白い。私は80年代に5年間学部に通い、90年代に3年間大学院に通ったので、自分では大学についてはけっこう知っているつもりになっていたのだ。けれども、それからすでにかなり大きな変化が起こっているのだということがまざまざと分かった。この本は何というか、「大学経営学」の入門編みたいなものだと思った。著者もまたいくつもの大学で学び続け、いくつかの大学の大学職員や経営に関わってきたという経歴の人で、大学という存在というか対象というか、についての造詣が深い。実際問題、最近の大学は入試も学部内容も研究対象も外から見ていてもわけがわからなくなってきているのだが、そのあたりをどこに注意して見直して行ったらいいのかということにも納得できる内容になっている。

看板学部というのは二つ意味があって、中央大学の法学部のような伝統のある学部、秋田大学工学資源学部(鉱山学部を改称)のような古くからのオンリーワンの学部で研究内容・教育内容が他の追随を許さない水準にあるという場合が一つであり、もう一つは慶応大学SFCに代表される、新しいチャレンジングな試みをしている学部群のことだ。前者に関しても知らない部分もあり、改めて勉強になったのだけど、後者に関しては、つまり大学教育というものの現代の潮流、コンテンポラリーなあり方についてはあまりキャッチアップ出来てなかったなあという感想を強く持った。

しかし慶応大学SFC、総合政策学部と環境情報学部などが成功した後、猫も杓子もそれをまねて四文字学部を創設し、教員の確保も十分にできずに看板倒れの学部がたくさん出て来る一つの原因にもなったという話は面白かった。

しかしそこに新しい大学教育のいくつかの潮流がはっきりと見えて来ることは確かだ。現在の不況のなかで理系・国公立志向の高まりが強く意識されるけれども、大学はその中で何を目指し、また産業界は何を求めているかということが興味深い。

起爆剤となったSFCが本当にユニークな方針を持っているということもきちんと理解したことは初めてだったかもしれない。

「SFCは社会の様々な問題を発見し解決していく過程で、学生一人一人が学問を編成するという「知の再編成」を掲げました。学生は1・2年次から自分の研究テーマを見つけて研究活動に励み、その解決のために必要な「知」を自分で取捨選択する、というカリキュラムと環境を用意したのです。つまり、基礎から積み上げ、採集成果物として研究を仕上げる一般的な大学とは、カリキュラムの順序が逆なのです。語学やコンピュータのスキルも、SFCではこうした研究を進めるための「ツール」として位置づけられました。」

これはすごい革命的なことだと思うし、文字通りに取れば夢の大学という感じが私などにはしてしまう。しかし実際問題としてSFCの卒業生に必ずしも好感を持てるとは限らないなあというところもあって、まだ自分の中で評価が難しい部分があるのだけど、自分がその環境を得られたら本当に夢のような学生時代だったのではないかと思うところはある。ただこの二学部でしたいことがあったかということは微妙だが。そしてAO入試というシステムがこのSFCでの学びを前提として作られたシステムだということもよく分かった。SFCのようなシステムではいわゆる受験秀才では全く何もできない、歯が立たないだろうということは容易に想像できる。本当にチャレンジングな意欲と能力を持つ学生であればこそやっていけるシステムであり、それにAOという仕組みは極めて整合的だと思った。

そしていわゆるAO入試の実施校が減っているのは、教育の仕方自体が従来と同じなのに入試だけ変えてもダメだということに他ならない。従来型の教育を行うならばやはり受験秀才の方が成果を出しやすいわけで、それに気がついて撤退して行く大学は多いだろうと思う。

あと二つ、大学教育の新しい流れとしてあるのがリベラルアーツ教育と国際系学部ということになる。その二つは重なることも多いし、その元祖のような国際基督教大学がまさにそうなのだけど、いちおう分けて考えた方が分かりやすい。国際系学部というのはまさに英語「で」教育を行うとか、留学を義務付けるとかいう大学・学部のことで、これは企業にとっても高校生にとっても高校教員にとっても分かりやすいアプローチだろう。秋田の公立国際教養大学が旧帝大並の偏差値になっているということからもその人気のほどがうかがえる。確かに英語で学べる力をつけるというのはかなりの強みであることは確かだし、留学生も受け入れやすく、また留学の義務付けは、日本以外の厳しい環境に適応する精神の強靭さを養うという点で企業からも歓迎されるものであることは分かりやすい。スキルと根性の両方がつくという点で、こうした大学が人気であるのはある意味頼もしいと言えないことはない。きちんと日本人としての自覚を養う仕組みがあるのかという心配はあるけれども、

もう一つのリベラルアーツ教育については、中世ヨーロッパの大学の自由七科の教育とか、自分が経験した教養学部の教育、それに旧制高校の教養主義の風土のようなものからしか類推ができなかったのだけど、リベラルアーツと言ってもまずはアメリカの大学のやり方の取り入れなんだということを押さえなければならないということなのだ。ハーバードはメイフラワー号の移住からわずか16年後に設立されているのだけど、それは彼らピューリタンが新天地の開拓に向かうときにあらゆる問題を総合的に判断し、幅広い分野で議論し決断できる優れた識見を持ったリーダーを必要とし、そのために自由七科を参考に大学教育が行われた、という起源がその教育を今もなお規定しているわけだ。

そしてリベラルアーツの学習にはアメリカ的な合理的な仕組みが随所に盛り込まれ、主専攻・副専攻などを認定する仕組みがありながらきちんと体系的に学べるように出来ていて、その基礎としてEnglish101、英語表現を徹底的に仕込むという課程があるのだそうだ。確かにそのあたりは合理的に出来ていて、その精神が上手く取り込めれば成果を上げられるだろう。ただ日本では、日本語表現を鍛えるというような課程はまだ作られてはいないようだが。(実際、本当に必要な課程はこれかもしれないのだけど)

アメリカの教育の特徴は授業は知識を吸収する場ではなく、大量の読書課題をこなしたあとに価値観の異なる他者と意見を交わしながら理解を深めていく場であると考えられていることだそうで、これがその通りに実行されたらものすごくハードではあると思う。私も読みたい本は片っ端から読んだけれども、書く授業に臨む前に専門書を500ページ読破してから臨むみたいな授業であったらたとえ日本語の本でもそう簡単ではない。まして英語だったらと思うと。しかしそれをやりきれば半端でない力がつくだろうなとは思うけれども。

専門から教養への回帰という文系学部の展開は、企業の求める人材が「主体性・コミュニケーション能力・実行力・チームワーク・課題解決能力」というところに転換してきたということがあるのだという。これは説得力があると思った。確かに弁護士や会計士などの一部の特殊な専門職をのぞいて、企業が求めているのは深い専門知識では必ずしもないだろう。それならば常にリーダーとなり、あるいはフォロワーに回って問題解決に取り組んでいくチームを構成することができる人材が求められるというのは大変わかりやすい。そしてそうした要求とリーダー養成が本来の目的であったリベラルアーツ教育が親和性が高いというのも大変納得のいく話だと思う。

まだ第4章133ページまでしか読んでいないが、今までのところでも大変収穫があった本だった。

橘玲『(日本人)』についても書きたいのだが、またあらためて書こうと思う。

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