人生いいことだらけ

Posted at 12/06/30

人間の現実、その人の現実というのはどこにあるんだろうと考えてしまう。小説家の人にとってはその小説の内的世界というのはかなり現実に近いところにあるのだと思うし、その内容を人に説明したりしているのを読むと現実と同じレベルではっきり見えているのだと思う。

昨日おとといは電子書籍をつくってそれを公開したのでブログは書かなかったのだけど、その内容は自分にとってはある種の現実なのだが、欠けたものを読んでみるとやはりある意味現実離れしたことを書いているわけで、自分のとらえている現実というものもまた人から見ての現実とは違うところは大いにあるよなあと思った。

昨夜は脱原発首相官邸デモが相当盛り上がってツイッター上でもいろいろ語られていたが、その中でもその人自身が言う「現実」というものが人によって本当にまちまちで、「現実を見なきゃいけない」という言葉は同じでも全然会話が噛み合わないのはまあそんなもんなのかもしれないなあとも思った。

昨日は昼前に松本に出かけてかなり久しぶりに操法を受け、おかげで夜はよく眠れたのだけど朝は寝過ぎてしまい、起きたら7時前で久しぶりにラジオ体操をさぼってしまった。起きぬけになぜか自分が高校生になっている夢を見て、起きてからしばらく不思議な場面を振り返っていたら、突然自分が高校二年のときのことをいろいろと思いだしたのだった。

私の中学時代は暗かったので、高校に入ったら明るく振る舞うぞ!みたいな決意があって、基本的に高校三年間はとても楽しかった。一年のときは怖い英語の先生が担任で授業のときびびってたり、クラスの友人もわりととんがったのが多くてまとまらないクラスだったりもした(でもそのクラスで今でも付き合いがある友達ができたのだが)のだが、二年のときはわりと緩めの体育の先生が担任で、和気あいあいとした雰囲気のクラスだった。一年のときは女子の数も少なかったのだが、二年のクラスは半数が女子で、だいぶその面でも明るかったのではないかと思う。三年になるとき転向したのだけど、送別会など開いてもらって、その時書いてもらった寄せ書きは今でも探せばあると思う。三年で転校した学校が母校になったわけだけど、ここは旧制中学の伝統を引く進学校で、それぞれのプライドがすごく高いしまたセンス的にとんがった人が多く、とても刺激的だった。女子はクラスに5人しかいなくて急に修道院に流された雰囲気はあったが。

まあそれぞれのクラスがそれぞれに楽しかったのだけど、一番楽しかったのは二年のときだった、ということを今朝思いだしたのだった。中学で坊主頭が強制されていたので高校では髪を伸ばすぞ!と決意して肩まで届く長髪で二年以上過ごしたのだが、長髪ですかした銀縁眼鏡で学生服の生意気な高校生だった。本屋で立ち読みしてたら女子中学生に「あの人かっこいい」とか指さされているのを感じて内心ニヤニヤしたりしたのも笑えるが、とにかくなんだかかっこつけてたことは確かだった。

その高校は過去修学旅行で問題を起こしたらしく宿泊行事は一年で高野山の宿坊に合宿、二年で能登青年の家に合宿というスバラシイメニューだったが、一年のときは壮絶な枕投げ大会、二年のときは体育ジャージと違うジャージを普段着にしていいという規定で上下白のプーマのジャージでやたらとかっこつけたのを思い出した。あのときの写真も探せば出て来るだろうなあ。クラスでそれぞれ出し物をすることになり、私はクラス代表で友だちと3人でアコースティックギターを弾いて『22歳の別れ』をうたったのだった。あれでファンが増えたと囁かれたがバレンタインとか限られた数しかもらってないしあれはウソだったんじゃないかと思う。

そんなことを次々と思いだすと芋づる式に出てきて、文化祭で三年生のバンドがやった『セクシャルバイオレットNo.1』がすごくかっこよかったこととか、合唱コンクールで「ともしびを高く掲げて」という曲が課題曲で8位入賞したこととその練習風景、夏の甲子園予選でやはり3年生のエースが活躍して県大会の決勝まで行き、準決勝と決勝は離れた県庁所在地の球場まで応援に行ったことなどを思いだした。いま思うと本当にいろいろ楽しかったな。

母といろいろ話していていろいろ思ったのだけど。ある状況において常にその状況に満足せず、いろいろな疑問を持ったり、自分の現状に満足せず自分を駆り立てて常にその上のステップを目指すタイプの人がいる一方で、自分の置かれた状況に素直に順応し、それを最大限楽しみ、逆にいえばその状況に何ら疑問を感じず、満足してしまう人もいる、という話をして、考えてみると私はだいたいの状況においては前者なのだけど、でも案外後者になってしまうときもあって、でも後者で自分がフルに楽しんでいるときの方が力が発揮できる、ということもあるんじゃないかと思った。成績的にも多分二年のときにかなり伸びたのではないかと思う。

私はけっこうミーハーで、そういう学園ドラマ的な学校生活がすごく楽しくて、ああいう経験があるから『ストップ!ひばりくん』なんかも好きだったんだろうと思うのだが、何か最近ずっと深刻に自分自身というものを見つめてきた経験から言うと、そういうバカみたいに明るいミーハーなところが自分の中にあるということを思いだしたということにわりとかなり戸惑いも感じたのだった。自分の現実っていったいどこにあるのだろうと。その人にとっての現実って、凄く多重構造なんだと思う。高校時代の友だちと合うとあっという間に高校時代のノリを思いだすし、大学時代、劇団時代、教員時代、それぞれの時代の友だちとあっても同じことだろう。一人で考えているときの自分も自分だし、母と話したり、仕事をしているときの自分も自分なので、現実って全然一つではなく、それを統合しているのは自分自身の存在でしかなく、その一つ一つにきめ細かい脈絡があるわけではないのだった。

特に私は虚構性が強いというか、かっこつけるのが好きなので、自分のかっこつけている部分、つまり表現の部分と、自分が本当に思っている思想の部分、また仕事をしているときの取り組みの姿勢の部分とか、凄くわがままの強い部分もあるし、ものすごく気前のいい部分もあるし、自分という人間もものすごく多重的で全体像を描くのが難しい。

ただやはり、高校時代の自分がどうだったかということを思い出したことは、今の自分にとってはすごく心の弾むことで、物を書いて行く、表現して行く上でも幅が広がり、プラスになるなあと思った。辛い時代もあったけど、楽しい時代もあったというのは、やっぱりすごく大事なことだ。

80年代、20代のときに楽しかったことは思いだしたのだけど、70年代の後半、高校時代も楽しかったということはすごくいいことだったなと思う。いろいろ辛いこともあったけど、楽しいことだってあったのだからと。30代40代はなかなか厳しいものがあったが、まあそんなふうに気楽に考えてみるともちろん楽しいことやいいことだってたくさんなったわけで、そんなことを考えていた方が人生は楽しいし前向きになるし、役に立つ言葉もたくさん思いつくのではないかと思った。

2012年も半分終わりの今日という日に、そんなことを思ったのも何か意味があるんだろうなと思う。『いままでの人生楽しいことばっかりだった!』と叫んでみると、自分の人生が少し見えてくるかもしれない。

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