唯心論と生命主義

Posted at 12/06/27

【唯心論と生命主義】

少し考えていることがあって、その思考のヒントをもらうために本屋に出かけた。入って最初に「最近話題の本」というコーナーがあり、一番最初に目に入ってきたのがDaiGoという人の本だった。メンタリストと自称し、どうも最近テレビなどで人の心が読めるとか操れるとか言っている人らしい。ネットなどを見ても話題にしている人がいるので確かに話題の人のようだった。少し立ち読みしてみたがどうも私の求めているものとは違うという印象を受け、買うのをやめた。

絶望名人カフカの人生論
フランツ・カフカ
飛鳥新社

書棚を一周し、結局『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社、2011)を買ったのだが、また「話題の本」の書棚に来てDaiGoという人の他の本を手にしてみて、しばらく前に書店で見かけて一瞬で警戒モードに入り、「これは」と感じた本だということを思い出した。もちろん、心が読めるの操れるのという主張は、私たちのように同年輩の人たちがオウム真理教に関わって人生を終わらせたりした世代の人間には一瞬にして警戒感を持たせる内容であることは確かだ。読んでみた内容よりも多分彼の使っているブラフ的な何かにこちらに警戒感を抱かせるものが含まれているのだと思うが。内容を読んでみてもそんなに滅茶苦茶なことを言ってるわけでもない。まあいいたいことは分からないでもないし技術を極めればそのくらいのことはできるんじゃないかなと思うようなことだ。私はそんなに関心はないけれども、こういうものに関心を持ったり取り込まれたりする人はいるだろうなとは思う。ただそうなったときに、その人が不幸になってしまうようならそういうものはよくないと思うのだが、それほどのものは感じなかった。まあ、先に述べたように「イヤな感じ」がするのは確かなのだが、何が「イヤ」なのかはまだはっきりとは分からない。

帰ってからiPhoneで「メンタリスト」を調べてみる。分からない。紙の英和辞典を繰ってみてもmentalistという単語が出て来ない。ネットの英和で調べてみたら、唯心論者、心理主義者、読心術者、占い師、易者などという訳が出てきた。そういえば唯心論て何だっけ、と思って調べてみると、今度は唯心論者の英訳としてspiritualistと出てきた。一周回ったらスピリチュアリズムということだろうか。

唯心論とはもともとは存在論の一つの考え方なのだそうだ。存在というものの根拠が物質にあるのか精神にあるのかについての考え方のうち、物質のみにあると考えるのが唯物論であり、精神から始まると考えるのが観念論だが、そういうものは高校生のころに習った覚えがあるが、そうした二元論はどうも納得できない点があるというか、どちらに考えても自分は救われないなという感じがあったのだけど、私の場合は紆余曲折の結果「生命」という考え方にたどりついて、生命こそが存在の根拠である、みたいな感じになっているのだけど、またそれも一つの考え方として存在論の一つの系譜の中にはあるらしい。ベルクソンとかがそうなのだと思う。しかし唯心論というのはそのどれとも違い、すべては心の存在から始まるという考え方だ。

系譜的にいうとプラトン主義の哲学者プロティノスにはじまるとされる考え方で、彼の思想は普通ネオプラトニズムと称されている。イデア論から始まるがその二元論を克服するために「一者」という存在が万物とは別次元のものとしてあり、すべては一者(ト・ヘン)から流出した理性(ヌース)の働きにより生ずると考えたのだそうだ。そして万物は一者への愛によって一者と同一化することができ、その状態をエクスタシスと称するのだそうだ。

神との同一化が可能とする点でこれは神秘主義と言っていいわけだが、つまりはルネサンス時代にも一斉を風靡したネオプラトニズムの起源であり、また現代に至るさまざまな神秘主義思想、特に非キリスト教的なスピリチュアリズムにはおそらくかなりの影響を与えているものと思われる。「一者」というのはよくいわれる「宇宙意思」とかそういうものに近い感じがする。

読みながらなるほどと思ったのだが、私といわゆるスピリチュアリストの違いだ。私も単純な唯物論的な思考に与する気はないのだけど、だからと言ってスピリチュアリストとは感じ方考え方が違うのはなぜなんだろうなあと思っていた。それはつまりは万物の根源が「精神=こころ」だと感じているか「生命=いのち」だと感じているかの違いなんだろうなと思った。私の感じだと、こころというのも生命の派生物、生命が言葉を持った状態みたいな感覚なのだけど、スピリチュアリストは言葉を持ったこころ自体の方が本元であると感じているのだろうなと思う。多分その違いは微妙だけどかなり決定的な違いで、いずれにしても色も匂いもない種類のことだから、いままで自分自身がその違いについて説明することができなくてどうも不完全燃焼的な感じを持っていたのだけど、明らかに違うんだなということを思った。唯物論者から見ればどっちも何を言ってるんだかと思うんだろうなとは思うけれども。

そこの大事にするものの違いが、おそらく先ほど書いたDaiGoという人のやっていることに感じた違和感に通じていて、こころがわかるとか操作できるとかいうことに関して、どうも生命に対する冒涜のようなものをそこに感じたのだろうと思う。

そこはすごく微妙だ。基本的に私「こころを操る」技術のような操作的なものが好きでないことは確かだ。生命の根源的な自由を麻痺させたり剥奪したりするものという感じがする。どんな人でも相手に操作的なものを感じると基本的に拒絶に入るのが私のデフォルトだ。特に善意を装った、ないしは善意の中に無意識に含まれた操作性のようなものが一番警戒心を呼び起こす。この人の操作性は相当あからさまに示されているから、それが作戦なのだろうし、一見危険だけど本当はそうでもないんだよ、だいじょうぶだよ、という見せ方をしているんだろうなと思う。

まああんまりよくわからないのにストーリーを膨らませ過ぎるのもよくないのでこのくらいにしておくが、私が読んでみた範囲ではなんだろう、この人はヒーラーみたいなことをしたいのか、世の中にメッセージを伝えたいのか、タレントになりたいのか、はたまた「教祖」になりたいのか、よくわからない。おそらくはこの人自体がまだ発展途上で、自分でもそんなにはっきりしてないのかもしれない。宗教家にしてもスピリチュアリストにしても完成してから出て来るのが普通だからこういう成長過程そのものを見せてくれる人というのは多分珍しい存在なんだと思う。今後もっと練れて来ると違った味を打ち出してくるかもしれないのだけど、まあたぶん私のように違和感を感じる人がいるくらいの方がインパクトがあってよいということもまた真実なんだろうと思う。

「こころ」は言葉を持っているが、「いのち」は言葉を持ってないわけで、その点がなかなか分かりにくい。「物質」を物理的にまた化学的に探って行くのと同じように、「生命」については学んだり調べたりして行くしかないと思うのだけど、自分なりにその三者の関係を言葉にしていけるといいのではないかと思った。

蛇足ながら、

年長けてまた越ゆべしと思ひしやいのちなりけりさやの中山

という西行の歌を思い出した。

明恵が唯心論、西行が生命主義、みたいな感じが個人的にはするが、まあこれはまだ思いつきの戯言に過ぎない。唯物論は誰だろう。

『絶望名人カフカの人生論』についての感想は、また。

***

書き忘れていたが、昨日帰郷する前に東京駅の丸善で小倉広『やりきる技術』(日本経済新聞社、2012)という本を買ったのだった。「やりきる」の内容を「始める」「続ける」「やり直す」に分け、またその方法論を「心」の面と「行動」の面から対策を立てるというコンセプトで、いろいろ示唆的だった。まだ50ページほどしか読んでないが、参考になる本だという印象を受けた。

やりきる技術―最高のパフォーマンスを生み出す仕事のきほん
小倉広
日本経済新聞出版社

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday