幸田露伴『五重塔』感想/人間のデモーニッシュな部分に正面から取り組み描写すること/平清盛・勝利の代償を見た
Posted at 12/06/06 PermaLink» Tweet
【幸田露伴『五重塔』感想】
五重塔 (岩波文庫) | |
幸田露伴 | |
岩波書店 |
幸田露伴『五重塔』(岩波文庫、1927)読了。ラストの嵐の中五重塔の最上階に屹立する場面が有名だったのでそういう話だと思っていたのだが、大工の源太と十兵衛の心理的なやり取りの場面が半分以上を占めていてこんな作品だったのかと驚いた。譲り合う心意気の美しさと「作ること」に賭ける男の一分をめぐる話で、最後まで男の一分を貫く十兵衛の一念がこの話にある意味熱く固いものを飲み込ませられたような読後感を持たせられる。江戸っ子で後輩思いの源太に感謝の念はあれどつくることに関しては一切の妥協を寄せ付けない十兵衛。またそれぞれの女房と二人の間に立つ上人様、源太に同情して十兵衛に襲いかかる清吉、それをとがめ、また逃がしてやる鳶の頭の火の玉鋭次。脇役に至るまで実にキャラクターがはっきりした登場人物たちの中で、十兵衛のある種怪物的な造形がこの作品を単なる大衆小説でない、余人の描き得ない人物像を作り上げたまさに文学たり得させているのだと思う。あるいはセルバンテスのドンキホーテのような、あるいはシェークスピアのハムレットのような、そうした人物として十兵衛は描かれている。
類型的に解釈しようとすればいくらでもできるのだとは思うのだが、しかしここに描かれている十兵衛を露伴以外の筆で再現しようとしても無理だという意味で、ハムレットがハムレットでありドンキホーテがドンキホーテであるように十兵衛は十兵衛なのだと思う。
何が変(ヘン)って、十兵衛という男はつくるということ以外のことには恐ろしく無関心な男なのだ。いくら職人気質だと言って、自分の片耳が飛んだりしたことにそこまで無関心であるのはやっぱり変だと思う。十兵衛が怖いものに「お前が作れ」と言われて作った、この怖いものは十兵衛の息子の猪之の夢にも出て来るが、そういうデモーニッシュなものに憑かれている、だけではなくて、やはりこの十兵衛自体が何か得体のしれない化けものなのだ。(余談だがここは『進撃の巨人』のリヴァイ兵長がエレンのことを「俺にはわかる。コイツは本物の化け物だ。「巨人の力」とは無関係にな。どんなに力で押さえようともどんな檻に閉じ込めようともコイツの意識を服従させることは誰にもできない。」といったせりふを思い出させる。)つまりこのデーモンは、何か外部的な存在なのではなくて、十兵衛の意識せざる本心そのものなのではないか。その心に滅ぼされてもそんなことには何の関心も持てない十兵衛という男はやはりそれ自体がデーモンそのものなのだと思う。
そしてそのデーモンに、結局最も共感しているのが仕事を取られ悔しい思いをしている源太だというのが面白い。女房のお吉も、手下の清吉も、本当の意味で源太を理解していない。まあいえばモーツァルトとサリエリのようなものだ。のっそりのモーツァルトと小粋なサリエリという取り合わせが不思議な感じではあるが、嵐の場面で結局源太が五重塔にやって来るのは、サリエリがモーツァルトの最後に立ちあう『アマデウス』と重なるものがある。
この上人も、最初はどういう意図だかよくわからなかったが、結局は十兵衛のデーモンこそがこの仕事にふさわしいと判断したのだろう。そして十兵衛の仕事を彼自身は露疑わなかったのだが、使い走りに騙された十兵衛が情けなやと五重塔に駆け上ることで嵐のデーモンと被造物、つまり五重塔のデーモンとクリエイター十兵衛のデーモンが三位一体化し、そしてそのまわりを衛星のように回る源太が描かれる。ここに五重塔の世界が完成する。
上人は最後に、五重塔に「十兵衛これをつくり、源太これを成す」と記すが、この意味が最初は分からなかった。しかしよく考えればこれは十兵衛が五重塔をつくったというだけの話ではない。上人の講話に感じ入り自らの功名心を堪えて十兵衛のデーモンに晴れの舞台を与えた源太の話でもあるのだ。源太が譲らなければ、「この」五重塔、十兵衛の作品である五重塔は存在しなかったのである。そういう意味でこの五重塔を「成した」のは源太であった、ということなのではないかと思った。そしてそれは、十兵衛も重々理解していたのである。
あるいはこう考えてもいいかもしれない。「十兵衛が作り、源太が成す」とは、directed by 十兵衛、produced by 源太ということだと。十兵衛はアイデア面での情報提供は一切拒否したが、鳶の鋭次が現場にいることからもわかるように、それを成す材木の仕入れや職人の手配などは有り難く受け入れているのだ。つまりは源太の人脈をフルに使わせてもらっているわけで、「腕も達者、智慧も達者」な源太にその意味では頼りきっているわけだから、そういうお膳立てをみな源太がしたことを上人も十兵衛も十分に分かっていて、後ろに下がってこの事業を支えた源太の美しさを上人も十兵衛も分かっていたということなのだと。
【人間のデモーニッシュな部分に正面から取り組み描写すること】
この話は、きらびやかな江戸情緒の人情話の中に、つくらずにはいられない人間のデーモンを降臨させたらどうなるかというある意味異様に前衛的な小説だったということもできる。日清戦争直前に書かれた、ある意味明治という時代のデーモンを象徴するような作品だということもできるだろう。
「枡組もたるきわりもおれがする日にはおれの勝手、何処から何処まで一寸たりとも人のさしずは決して受けぬ、善いも悪いも一人でしょって立つ」というくだりが言葉として私は一番好きだと思った。一言でいえば、痺れる。ものをつくる人間の心意気をここまで言い切った文言を私は知らないのではないかと思った。
こういうものをつくる人間のデーモンを描いたという意味で、舞台は江戸ではあるけれど、露伴は白樺派や小林秀雄に続く流れを作ったと言えるのではないか。十兵衛の言い状を読んでいると、何となく本居宣長を思い出すところがある。
小林秀雄の流れをくむ批評家・評論家は、先だって亡くなった吉田秀和を最後にして、この世からなくなってしまった。白洲正子が繰り返し取り上げられているのも、今そうしたやむにやまれぬ人間のデーモンを取り上げようという批評家が姿を消したように思われるからではないかと思う。
物を作る際にはいつの世にも変わらず、作るように突き動かす何かが人間の心の中に生じる。それは必ず生じる。だからそれは描かれ続けなければならないと思う。それは巨大な衝動であり、巨大な意志でもあろう。
私にしても、何かをしているときに、これをしているのは、これをしたいと思っているのは運命だ、と感じるときがある。その運命の流れに乗っているとき、思いがけずすらすらと言葉は出て来るし、形になって行く。
今でもたとえば横尾忠則はそういう発言をするし、マンガなど読んでいても特に棋士などがそういう発言をすることがあるのだけど、そういう言葉を正面から取り上げて評価することから、今の批評家はおおむね逃げているような気がする。
しかしインスピレーションだとかデーモンだとかいうものは明らかにあるし、それがなければ作品に魂は籠らないだろう。そういうことを言うと印象批評であるとかオカルトであるとかスピリチュアルであるとかカルト的であるとかそういうことを言われることを批評家たちは、あるいは作家たちも過剰に恐れているような気がする。そしてそれに言及を避けているうちに、若いクリエイターたたちがそういうものに対する感性を失い、より日本のアートシーンが退化して行ってしまうのではないかという気がする。
少なくとも私は自分の中のそういうものには向きあって行きたいと思っているし、他のアーチストの中のそれにも――正面からぶつかったら死んでしまいそうだから身をかわしながらだが――言及し描写し十全にそれが働くように批評活動ができたらいいと思っている。
【平清盛・勝利の代償を見た】
日曜日に見そこなった『平清盛』「勝利の代償」の回を録画で見た。楽しみにしていたのだが、『五重塔』のインパクトが強く、それに比べるとやや物足りないという感がしてしまってもったいなかった。このドラマ、脇役たちの個性の光りように比べて、やはり清盛自身が軟弱すぎてそこが面白くない。頼長の死――オウムの飛来――忠実の我が子を思う述懐という展開はなかなか良くできているし、頼長の屋敷跡で日記を読み、政敵の死を悼む信西の場面もよい。阿部サダヲという役者はこのドラマで初めて見たのだが、力のある役者だなと思う。少し可愛い感じがしてしまうのがもったいないのだが。
美福門院にあなたの天下もすぐ終わると告げられ「朕は生きているぞ」と悶絶しながら笑い転げる後白河天皇=松田翔太もなかなか権力闘争そのものにぞくぞくするほどの生き甲斐を感じる変態性欲者ならぬ変態権力欲者をよく表現していると思う。役者として未成熟な部分はあるけど、それも時分の花だろう。
この貴族たちの怪物ぶりに比べてなんだか武士たちがまともで弱々しい感じがしてしまうのが残念だ。三男宗盛が弱々しく泣きわめくのはまたこれからの伏線としてあるのだろうなと思うが、どうも源氏も平家もなんだかなよなよしてるなあ。
これから一族の処刑という試練をどう踏み越えていくかが源氏と平家それぞれの課題として浮上するわけだけど、源氏がこのあとも肉親同士の血で血を洗う争いが続いて行くのに対し、平家は一門のものをみな出世させて貴族化させていくのは清盛の性分だという解釈なのかなと最近見ていてそんな感じがする。一門が煌びやかに反映すればするほどその滅亡はむごく美しい。深キョンは安徳天皇を抱いて入水するのだろうか。そんな先々のこともあれこれ想像したりする。
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