感情と出来事の関係/努力はすべてを変えられるか/占いの使い方/未来のことはわからない
Posted at 12/06/01 PermaLink» Tweet
【感情と出来ごとの関係】
昨日ツイッター上で感情と出来事の関係のようなことについて少しやりとりをして、なんだか自分の言いたいことが上手く伝えられなかった、というか相手の方の言いたいことをうまくくみ取ろうとして質問をして、どうもするっと滑って捕まえられなかったという感じがあった。自分としては分かっているつもりだったのだけど、質問の仕方が悪くてそういうふうには捕まえられたくないな、というふうに感じさせてしまうものだったんだな、と思う。問いの発し方が乱暴というか、もっと繊細な網を投げるべきだったのだと思うのだけど、なかなかそういうことが上手くできなかった。
とはいえ、私は感情と出来ごとの関係をどうとらえているんだろう、と思った時に、自分はあんまり感情というものを実体的にとらえてなくて、まあいえば現象のようにとらえているなあということは思った。それなら何が人間において実体なんだろう、と考えてみる。というか、人には実体はないというのが仏教の考え方だけど、そうだとしても自分にとって何が一番実体に感じられるかなと思ったら、それは体調なんじゃないかなと思った。感情が体調に影響することはあるし、体調が感情に影響することはあるから、体調をどうにかするために感情をコントロールしようと思うことは多い。穏やかな感情でいられればおおむね穏やかな体調でいられるが、不調になって来ると、特にストレスがかかって来ると感情が体調に影響してくるしもっと悪くなると感情と体調の堂々巡りみたいになることもある。そういうときは心の持ち方と体調を戻すための努力を並行してやることになるが、ドツボにはまるとなかなか抜けにくいというときはある。
そういうときはけっこう占いの力を借りたりする。もともと人の意見があんまり聞けない人なので、人には頭は下げにくいが神社で神様なら頭を下げられるとかいうこともあって、曖昧な託宣をくれる占いというものはわりと助かるなあと思う。私は占いというものは未来を知りたいと思ってやるわけではない。自分の努力を、どういう方向にするのが正しいのか、ということを迷うときにすることがほとんどだ。
【努力はすべてを変えられるか】
と書いてみて思ったが、私はやはり自分の努力ですべてを変えることができる、と信じているところがある。いや、理性的にはもちろん無理だなと思うことはいくらでもあるけど、自分の努力がすべてを変えられると思っているところがあるんだなと思った。若いころ、うまく話せればどんな人間とも話し合うことができる、相手の言うことを理解できる、と友人に言ったらじゃあ人食い人種(放送禁止)も理解できるのか、と言われて三日くらい考えて出来ると思う、と言ったらそれは変人だ、と言われたことがあった。まあ最近では理解できないと思う人はいる、というかもう理解したくない人間がたくさんいるという感じになってきているが、それでもどこかでだれのことだって理解できるんだと思っているところはあるんだということは今考えていて思った。
しかし実際問題として、どんなに頑張ってもこの人と理解し合うには200年くらいかかるんじゃないかということはあるわけで、まあそういう努力は無駄というか、違うところで努力した方がいいわけだから、一度こだわりだしたことを外して違う方向に心を向けたりするのに、占いというのは結構役に立つ。私は基本的に、未来というのは分からないから面白いと思っているんだなと思う。わかることばかりだったらつまらないじゃないかと。でも確かに、世界には自分の分かることの何億倍も何ナユタ倍も分からないことがあるわけで、でもわかろうと思っても分からないことってすごく単純なことでも多い。離婚した妻と話していてオーストラリアはcolonyであってnationではないと言われた時に、つまりはイギリス連邦に属して首長を女王にしているからということが理由だったようだけど、国連に加盟しているし主体的に政治判断をして行動している以上独立国だろうという私の意見とは完全に平行線で、これがアメリカ的教養と日本的教養の根本的な齟齬のうちの一つなんだろうと思ったことがあった。そういう認識って世界観を形作るうえで自分の中ではかなり大きいことなんだなとその時思ったのだけど、こういうことで譲りあえない、理解しあえない人とは一緒にいられないという感じはあった。いや、もちろんそれだけが離婚の原因ではないけれど。
【私にとっての有用な占いの利用法】
書いているうちに話はどんどんずれてきたが、占いというのは本当に役に立つ。未来に何が起こるかということは基本的にそんなに知りたいわけではないので、今の自分がどういうふうに考えたら前向きに頑張れるのか、ということが知りたいだけなのだ。そしてそういうことには、わりとそれに見合った答えが出て来る。占いの種類で言えば、昔は四柱推命とか動物占いとかもその派生物だけど、他には占星術とか、もう動かしようのない誕生日とかをもとにしたもので自分を知ろうとしていたのだが、これは過去とか今とかに関しては当たってると思わなくはなかったけど、どうもそれだけでは自分の求めているものとは違うなと感じていた。頼りにしたのは相性についてとかかな。でもこれも結局は努力次第だなとは思った。占いというものが本当に役に立つなと思うようになったのはやはりネットの友人から教えてもらって易を立てるようになってからで、一時毎日やっていた。易を立ててでた卦の易経やそれを解説したものを読んで、自分の状態やするべき努力の方向性や程度、何をして何をしない方がいいかとかそういうことを考えると、何というか心に澱のようなものが残らずに行動できるということに気がついたのだ。
結局のところ、易経というものは儒教の経典であるということもあって、そんなに滅茶苦茶なことは書いてないのだ。しっかりした考えと深い人間観察に基づいた人間として正しいアドバイスを基本的には書いてあるわけで、そういうものを読んでそれをじっくり解釈しているうちにわりと妥当な結論が出るのは考えてみれば当たり前という感じもする。それがあってからことあるごとに易を立てていたのだけど、どうもだんだんそれに頼り過ぎているような気がして来て、数年前にやめた。しかしやはり、人に相談するとその相談内容についてよく納得できなくても相手の顔を立てないといけないことが起こったりとか、アドバイスをスルーすると相手に顔を合わせづらくなったりするということも侭あったので、人に相談するというのはそう簡単なことではなかったりするのだけど、占いをしてみることでむしろそういう洗練された意見を自分で勝手に汲み取ったりすることもできるし、納得いかなくても誰かに迷惑をかけるわけでもないから自分の意志で決めることができるというところはとてもいいと思った。人に相談するということは、ただ自分の問題を解決するということだけではなく、人に対してそういうアクション、アプローチをするということもあるから、そこで当然人間関係において一歩踏み出しがある、ということが、年を重ねるにつれてわりと軽くはなくなってきたということも一方ではあるわけだ。
最近では実はここ一月ほどタロットカードをやってみているのだけど、まあ易もそうだけどそれを解説してくれているその道の人にもいろいろなタイプがあって、まあそういう心を軽くしてくれる系のアドバイスをするタイプの人の解説みたいなものが助かることが多いし、易よりもイメージに頼る部分が多くてより自分の気持ちと必要にあったアドバイスを引き出せる感じがするなあと思っている。カードもいろいろなタイプの絵があって、私はタロットと言えば『後ろの百太郎』に出て来るような中世ヨーロッパ的なメメントモリ的なおどろおどろしい絵柄のものしか知らなかったのだけど、最近のはとてもきれいで、イラスト的なものもあるし、ヘタウマ系のほのぼのしたものもあったりで、いろいろと気が利いた現代日本的なアレンジが為されている。まあ自分が占いに求めているのはそういうライトな感覚であることは確かなので、そういうものがちょうどいいということは言えるなと思う。
【未来のことは分からない、ということをどう受け止めるか】
未来のことは分からないし、分からないから学習する意味があるんだと思う。学習していると、学習する前よりは、必然的に未来は分かるようになる。子どものころはブランコから飛び降りてその場に立っていたら後ろからブランコに襲われるということを忘れていて後頭部から大量出血したりしたことがあったが、少なくともそういうことはいまでは理解できている。まあ今ではブランコから飛び降りたりしないのでその学習自体は無駄と言えば無駄なのだが、でも世の中に物理法則というものがあって無視はできないとか、それはそれで結構大事なことだ。
まあそういう単純な世の中で認められていることだけでなく、ある種の予感のようなものも繰り返された学習によって鍛えられるということはある。相手が何を言うか全く予測できないで会話するということがかなり怖いことであるのは、普通は相手が何を言うかはある程度予測しながら話しているからだし、自動車のようなあんな巨大な質量のものを動かして平気でいるのは、一度に相当たくさんのことを無意識のうちに予測して判断しながら運転しているからだ。だから無理をすれば予測外のことが起こる確率が上がるから危ないわけで、ある意味私は自動車を運転するようになってから日常生活においても衝動に対して抑制的になっていると思う。
【探究者か啓蒙者か】
何か即物的な例になったけど、私は形而上的なものでも結局即物的なものの延長上にとらえようとしているところがあるんだなと思う。私は探究者か啓蒙者かというとどうしても啓蒙的な考え方をするので、たぶん探究的なパーソナリティーの人には嫌がられるところがある気がする。みんなに分からなければ意味がないと思ってしまうんだな。だからと言って探究的なものが嫌いなわけではないのだけど。でもそれを見た、読んだ途端にそれをブレイクダウンして伝えるにはどうしたらいいだろうと反射的に考え始めていたりするのだ。
探究者というのが砂漠を歩いて何かを見つけようと努力するようなことであるとしたら、啓蒙者というのはそこで見つかった石油を同消費地に運ぶかというロジスティクスを考える人のようなものだと思う。砂漠で何かを見つける努力をしなければ新しい文章は書けないのだけど、どうしてもそれに命をかけてしまうのはやり過ぎだと思うところがあるし、たぶん自分という人間にとってはそれは本当にやり過ぎの部類のことで、安全を確保しながら捜索する捜索隊みたいなことしか無理だろうなと思う。安全を確保しながら創作する創作体。って感じか。
【人間にとって何が大事か】
人間にとって何が大事か、ということを考えていて、正しいか間違っているかが大事な人もいれば、好き嫌い、つまり感情が大事な人もあり、損得が大事な人もあり、勝ち負けが大事な人もあり、生き死にが、言葉を変えていえば真実か偽りかが大事な人もある。もちろん誰にとってもそれだけが一番大事だということはないしバリエーションもさまざまだけど、私はわりと損得が大事なドライな人間ではあると思う。損得というとお金のことみたいだけど、お金というよりは快不快の収支みたいなものか。ベンサムがいう功利主義の、人間は快を最大にし不快を最小にするために行動する、という考え方は正直すごくよくわかる。よくわかるだけになんだかそういうことを是とする自分がちょっと恥ずかしいなと思う感覚もあるのだけど。勝ち負けも自分の中ではかなり大事で、相手との力関係のようなものにはけっこうとらわれるところがある。だから人間関係でちょっとしたことで不快感を持ってしまうので、人とくらべるよりは自分自身との勝負みたいなことに持ち込もうとするときが多い。やると決めたらやれる自分、みたいなものに悦に入っても誰にも迷惑はかけないし人間関係にも不調をきたしたりはしないから、そんなあたりがいいかなと思っている。
何というか私は好き嫌いをもっと大事にして生きたいなと思ってはいるのだけど、どうもそればっかりでは私にはなかなか難しいなと思う。好きなものに囲まれていたら気分がいい、という結局は損得の方向で考えている傾向はあるしなあ。
あとはやはり、何が生存に繋がり、何が死への道なのかといったことについても理解を深めたいと思う。自信と原発事故のときには相当動揺したが、必要以上に安全を強調するのも疑問を感じるし、必要以上に怖がるのもあんまりいいなと思わない。やはりこういうことにもどう対処したらいいかというのはさまざまなことを学習しながら道を見出して行くしかないと思う。放射能があろうとなかろうと私があと100年以内に死ぬことだけは確実なのだし。それまでにどう生きるのが自分にとってベストなのかを考えて実行して行くことの方が自分にとっては関心の持てる問題だ。
何が正しくて何が間違ってるのか、ということも私はけっこう引っ掛かりやすい人間なので、その辺の所ももっと余裕を持って考えられるようになるといいなと思う。やはり結局、どうすればいかに自由に快く伸び伸びと生きられるか、ということが最大の関心であって、すべてのことがそれにつながってきている感じがする。そういうことに接続しにくい問題はもちろんあるのだけど、まあその辺は多少は苦労するが、これからもそうやって生きて行くんだろうなと思う。でまあ、すべての人がそう思って生きてくれたらいいんだけど、まあそういう希いは心の中に留めておくにしくはないんだろうなとは思う。実際問題、いろいろな人間がいるから世の中は豊かで楽しいんだしね。
【最初に戻ってみると】
ああなんだか最初の問題の答えになっているとは思えないけど、いま自分が自分について見つめてみたことを書いてみた。つまり出来事にも感情にもそんなに関心がないということなのかもしれない。
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