青木幸子『茶柱倶楽部』:眠っていた日本茶への感性が呼び覚まされる/自分の文章を百パーセント読み切る手ごわい読者

Posted at 12/04/23

【青木幸子『茶柱倶楽部』:眠っていた日本茶への感性が呼び覚まされる】

昨日。夕方から友人に会う約束をして、午後のうちに出かけた。

東京は思ったより寒い。一度午前中に出かけて、夕方出るならどのくらいの服装をしたらいいのかを考えようと、あたりを少し歩いた。普段行く明治通り沿いのローソンで昼食の買い物をしていてその時の服装(ハイネックにジャンパー、ユニクロの防風加工のジーンズ)で大体大丈夫かと思い、日曹橋の交差点を曲がって東陽町の方へ歩いていくと、デニーズの隣にまたローソンがあった。こんなところにできたんだなあと思って歩いていくと、今度は免許試験場の入り口にもローソンがあって驚いた。数百メートルの間に三軒のローソン。どの店もそれなりに客が入っていたので商売としては成り立っているようだったが。

月刊 COMIC (コミック) リュウ 2012年 06月号 [雑誌]
徳間書店

話がそっちへ行ったが、もともと午前中に出かけたのはコミックリュウの最新号に鶴田謙二画のブックカバーが付録としてついている、というのを読んだからだ。最近は運動不足だと自覚していることもあって、東陽町駅前の文教堂まで遠回りをして行ってみたのだった。

山口晃作品集
山口晃
東京大学出版会

午後、タンクトップ一枚だけ重ね着して、3時ころに出かけた。東京駅丸の内の丸善でいくつか本を物色して、山口晃作品集を買った。ネットで見たのと少し印象が違うが、主にはこういうもので知られている人らしい。待ち合わせの場所への電車に乗り、考え事をしながらノートにいろいろ書いているうちに目的駅に着いた。まだ少し時間があったので地下街をうろうろしてマンガの専門店に行き、一番ひかれた青木幸子『茶柱倶楽部』1巻(芳文社、2010)を買った。

茶柱倶楽部 1 (芳文社コミックス)
青木幸子
芳文社

これは日本茶に関するマンガだ。薀蓄を披露する系のマンガというのはつい魅かれてしまうところがあって結構買っているのだけど、最近どうも納得がいかないというか、そろそろやめにしようという気持ちになっていたのだけど、このマンガは何か魅かれるところがあり、先ず1巻だけ買ってみることにした。芳文社と言われてもピンとこなかったが、週刊漫画Timesという雑誌に連載されているらしい。ネットでラインアップを見てみると、表紙がコボちゃんの雑誌だということが分かった。中身は面白い、というか、読んでいると日本茶の世界にどんどん引き込まれてしまう。私はお茶と言えば、ざざっと茶葉を急須に入れ、ドバっとお湯を注いで、ごくごく飲む、みたいな飲み方をする方なのだが、こういうのを読んでいるときちんと入れないと罰が当たるなあと思い、書いてある通りに2グラムの茶葉を急須に入れ、沸騰したお湯を3度入れ物を移して70度に温度を下げ、二煎目もおいしくいただくために最後の一滴まで入れる、というようなことをやってみたらいつも飲んでるお茶が別物になった。というか、ものすごくカフェインが濃くなって寝つきが悪いほどになった。本当に入れ方ひとつでお茶というのは全然違うのだなと深く実感。

日本人はコーヒーの入れ方でも紅茶の入れ方でもずいぶん凝るし、両方とも私も好きなのだけど、もう一つきちんと入れようという気持ちにならないでいたのだが、このマンガを読んでお茶はいろいろ入れ方を工夫してみたいなと思った。それにはいろいろ理由があるけど、コーヒーや紅茶に比べてもお茶の味に対して結局は一番敏感なんじゃないかと思ったこと、ダージリンとかセイロンとかコロンビアとかモカとか言っても場所に対する思い入れみたいなものがやはり抽象的になってしまうけど、嬉野とか川根とか奥久慈とか宇治とかいう地名を見ると、やはり文化的な思い入れが生じて、実感がわきやすいということはあると思った。もちろん、この作者の作風にそういう感覚を呼び起こす何かがあるということは絶対にあると思うのだけど。

茶道とか煎茶道を取り上げた本だとかマンガだとかはそれなりには読んだけれども、今までそんなにお茶に対して向き合う気持ちになったことはなかったのだけど、この本は何かそういうお茶に対する原初的な気持ちを目覚めさせるようなものがある気がした。第2巻も買おうと思う。


【自分の文章を百パーセント読み切る手ごわい読者】

友人と会って話をする。クリエイティブな仕事でテンパっていて、話をうまく接ぐ経路が見つからなかったのだけど、話の幅の広い人なので、やがて折り合えるところを見つけたのだが、基本的にテンションが高いので必然的にこちらのテンションも高まり、時折火花も散るのだがそれはそれでなかなか面白かった。適当に話を合わせながらいろいろな話をするのも楽しいけれども、お互いのテンションの高いところでバチバチ火花が飛び交いながら話のできる話題・通路を見つけて、時々足を踏み外しそうになりながらスリリングな話をするというのは面白いし、相手の考えていることが明確なだけに自分との違いもはっきりするし、そうなると相手とは違う自分の特徴とか、茫漠としていた自分の考えていることも形になってきて、なかなか面白い。一致点を見出しながら話すのも楽しいが、ここは違う、ここも違う、というのを明らかにしながらなるほど違う人間は違う感覚を持ち違う考え方と違う目標を持っているのだということを観ていくのは得るものがある。もちろんかなりのテンションを維持する必要があるので疲れることは疲れるのだけど。

世界のトップ・コレクター
宮下夏生
新潮社

その時勧められた『世界のトップコレクター』という本、おもしろそうだと思った。作品を作る人がいるということは買う人がいるということで、その買う人の極北というものを知ることが作る人にとっては重要なんだ、という話をしていて、なるほどそうだなと思う。私は絵に関してだとどうしても作る方より買う方の立場として考えてしまうのだが、文章を書くという立場から考えてみると受け手の極北というか、読み手の極北、つまりもっとも貪欲に自分の書いた文章を吸収しようとしてくれる人、という読み手を想定するのは意味のあることだと思った。

買ってくれる、読んでくれるかどうかがわからないから自分の作品の価値の見積もりを低くして、わかりやすくしようとか安くても買ってくれればいいやとかそもそも金で作品を売るなんて不純だとかそういう余計なことを考えてしまう部分は、やはり私にもなくはない。どんなふうに書いたってきちんと自分の言いたいことを読み切ってくれる人なんていないよなあと思ってしまっているところが私にはあるなとこの文章を書いていて気が付いた。

書くというのはある種の衝動というか、生きているということとイコールであるようなところがあるから書かずにはいられないのだけど、読んでもらう相手に百パーセント自分の言いたいことが届くという想定ではいつの間にか書かなくなっていた。文章というのは人間性が現れるから自分のつまらない部分が伝わると嫌だなという恐れから、つまり自分の中の検閲官に妥協して自主規制してしまうというところが以前は問題だったのだけど、今はあまりそれは考えていない。それは"The Artists' way"の原書版のモーニングページのところを試訳していて思ったことなのだけど。遠慮してないのにどうして自分の文章には自分が百パーセント現れているとは言えないのだろうといぶかしく思っていたのだけど、逆に読み手側を低く?見積もっているというか、どうせ書きたいこと書いても伝わらねーよ、みたいな意識があることに気が付いたのだ。

実際のところ、書いたことすべてが伝わるわけではない、というのは当然のこととしてある。批評というものが、もとの文章が書かれてから何百年たっても新たな読みを発見していく作業であることからもわかるように、どんな文章も百パーセントの内容が百パーセントの人々に伝わるということはありえないのだ。

特にブログの文章など、多くの人が忙しい時間にささっと読み飛ばすことの多いだろう文章を書いていると、時折一生懸命内容を伝えたいと思って書いてもむしろ敬遠されてアクセスが減ったりし、また一生懸命書いたからと言って何か明確な反応があるとは限らないわけで、いつの間にか本当に書きたいことは伝わらないから、自分の書きたいことのうち、こういうことなら面白いと思う人もいるかもしれないな、くらいの感じでしか書かなくなっていて、日々の忙しさにまぎれていくうちに、本当に書きたいことは何かというところまで深く考えなくなってしまっていたと思った。

どういう場所でどういう表現をするかはともかく、常にそこまで掘り下げて書いていないと、ものを書く意味が半減する。この掘り下げ方は、普通の文章を書くときと小説を書くときとでは違うのだけど、普通の文章の掘り下げ方が足りないから小説を書くのに必要な「深度」のようなものが確保できていないのだなということは思った。

これからどういう読者が自分の前に現れるかはわからないのだけど、百パーセント読み切るような読者が現れるということを想定して書かなければ自分の中での真剣勝負はできない。そのことを改めて気が付かさせてくれたということにおいて、コレクターというものの存在について考えることの意味はあると思った。さっそくアマゾンマーケットプレイスで注文。


【やるべきことをやりきる】

創作、文章を書くということそのものも含めて、の原動力というものは人によって違うと改めて思うのだが、その人にとってはその人間全体にかかわることには違いない。その人にとっての主戦場がどこか、ということは人によって違うし、創作に向けてのテンションが上がっている時には人の戦いの話を聞いていても参考になることもあるけど邪魔になることもかなりある。

人は仕事を通して誰かの役に立つわけだけど、どんなふうに役に立つかは人によって違う。人の役に立ちたいと思って釈迦力になってやってもなかなかうまくいかないけど、いつの間にかすっとそのことに対しては自分が特に力を入れてないのに自然に人の役に立っている、というポジションがある。そのことは、なる前はわからなかったりする。よく言われるのは、自分なんかが母親になっていいんだろうかと悩む女の人は多いけど、実際なってみると自分はなんて見当違いのことで悩んでいたんだろうと思う、というようなことだ。すっとそうなってしまう、というポジションが人にはある。なれると思ってなってみたら落ち着きが悪かった、ということはとても多く、私などはそういうことの繰り返しだったけど、最近は割とああこのポジションは自然だなあと思うこともまた多くなってきた。そういう場所にいられるまでいて、退くときにはまたすっと退き、新しい自然なポジションにまたすっと移っていく、そういうことができたらいいと思う。まあまたそうなったらそうなってでストラグルになる可能性はあるのだけど。

まあそのポジションに倦怠を感じてきたら、おそらくはそのポジションでやるべきことをやりきっていないからだろう。ブログを書いていて飽きてくるのは、先に書いたように文章を書くときに百パーセント読み切られる手ごわい読者というものに向かって書いてないからだと思った。人が煩いと感じられたときにはまず自分の元気を奮い起こすべきだ、と野口晴哉先生が書いていたけど、それは倦怠を感じた時も同じだなと思った。おそらくは自分のやるべきことをやりきってはいないのだ。


【ロベール・ドアノー レトロスペクティブ】

ロベール・ドアノーRetrospective
クレヴィス

帰りにもう一度本屋により、ドアノーの写真集を買った。これで何冊目だろうか。重なってる写真もかなりあるが、初めて見る写真もかなり多い。また、今までの自分の持っている写真集はドアノー本人の編集によるもの以外はどうも羅列的な、やや雑多な感のあるものが多かったのだけど、この本はなかなか編集の意図が感じられるというか、写真の配置にリズムがあるし、何度も見た写真も文脈におかれてみると新たな発見があるというか、面白いなと感じさせられるものがあった。カラー写真は初めて見たし、よく見ると結構あざとい(というか構築的な)撮り方をしてるなと思うのもあった。いや、それが悪いという意味ではなく。今まで買ったものは諏訪に置いてあるので、一冊東京に置いておくことにした。


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Title background photography
by Luke Peterson

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