不完全燃焼

Posted at 12/04/02

なんか父の論文のことばっかりやってたらどうも変な感じになってきたので自分のことを書かないとと思う。浅見帆帆子『あなたは絶対!運がいい』に、落ち着かなくなってきたら「よいこと」をしなさい、みたいなことが書いてあったけど、どうも私の場合は逆で、人のためにといろいろ考えてやっているとだんだん自分がおかしくなってくるところがある。ということは、本当に自分がやらなければいけないのは人のためにいろいろやってあげたり動いてあげたりすることなのではなくて、自分自身が自分自身を表現することなのだろうと思う。そうやって自分中から世界を見る枠をしっかり意識している、つまり行動するときよりも見ている時、感じている時、考えている時のほうが落ち着くし、自分が自分を見失わずにいられる。何かやってしまうと、やってしまったことで満足するのだけど、どうも何かが違うという感じが付きまとってきて、本当の自分がやるべきなのはこれではないのではないかという感じがしてならない。しかしだからと言って考えたことは形にしないとやはりよくないわけで、その辺のところをどうバランスを取るかが問題なんだなと思う。考えるのが7で行動するのが3くらいだろうか。考えたことは形にしないとやはり落ち着かないのだけど、でも人のためにと思ってしていることというのはやはり自分にとってはあまりしっかりとした手ごたえがない。自分の頭の上の蠅を結局は追い続けないといけないのだと思うし、人に何かができるとすればその中で自分が得たものを人にも教えたり提供したりすることで人にプラスになるというようなことではないかなと思う。

ということになると私は自分のために生きるのが結局人のためになるということになるがまあアーティストというものは根本的にそういうものなんだろうと思う。自分が自分の経験を何かで表現しなければアーティストではありえないわけだけど、それはまあもちろん職業としてのアーティストではなくて本質としてのアーティストであればいいというだけの話だ。私は私の長男という立場とか周りの人への憧れとかから強い自分になりたいと子供のころから思っていてそれがなんだか自分の夢みたいなものになってしまった面があるのだけど、本当の自分はそういうものではなくて、もっと自分の中に籠って好きなものを見たり聞いたり考えたりしていたい人間なのだ。「したいこと」と「なりたいもの」の分裂の激しさがいつも自分をある場所にとどめさせてしまっていて、「なりたい人間であることの覚悟」も「したいことで生活しているだけの能力」も不十分なままになっている。逆に言えば「なりたい人間であることの能力」はまあそれなりに養ってきてしまったし、「したいことを一生続けたい覚悟」みたいなものは自分の中にあるわけで、なんかどうもその辺が不完全燃焼で終わりそうな一生が見えてきてどうにももやもやしてしまうのだ。
大事なのはしたいことに没頭する時間をちゃんと確保することだなと思う。それが確保できている時は私は迷いが少ない。そして自分のしたいことをする力をもっと磨いていくことなのだなと思う。必要な文章を時に応じて書く、というくらいのことはそれなりにはできるけれども、その文章ひとつでの自立した力を持つ文章を書ける、というところが今の課題なのだなと思う。そのための糸口を何としてでもつかみたいと思う。それは結局、「文章とは何か」という究極の問いの答なんだろうと思う。

なんかそのあたりは、昨日の誉子と修平の問題で言えば修平の問題の方に近いのかなと思ってみたりする。ピアノと自分がつながってる感じ、というのは修平の獲得したものだった。自分自身と文章がつながってる感じ。ちょっとそのテーマについて考えてみようと思う。文は人なり、だし。

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