好きな作品について書くということは、自分がどんな人間かを書くということだ

Posted at 12/04/01

【好きな作品について書くということは、自分がどんな人間かを書くということだ】

ピアノの森(21) (モーニング KC)
一色まこと
講談社

また『ピアノの森』、雨宮修平のピアノについて考えてみる。修平は有名ピアニストの一人息子で、子供のころからピアノの練習を義務付けられてきて、それが好きではなかったのだけど、カイに出会って感動して、自分もカイに勝てるようなピアニストになりたいと一念発起する。一方でカイのピアノに心から感動し、勝つことなどできないと思っている自分もいて、いつか自分もカイのように人を感動させるピアニストになりたいという願いを阿字野に打ち明ける。修平の願いはそういう意味で「人に勝つピアノ」を弾きたいという願いと「人を感動させるピアノ」を弾きたいというアンビバレントな二つの願いが共存し、それが修平を苦しませることになる。

「人に勝つピアノ」を追求するために徹底的に練習して、技術的には全く誰にも負けることがないピアノを弾けるようになっても、常に自分には何かが足りないという自覚を持ち、ピアノ教師たちからも「完璧だけどどこか物足りないというピアノは、根本において間違っているのだよ」と指摘を受ける。

カイのピアノを聞いて衝撃を受けた修平は、自分には完璧なピアノが弾けるけど、「完璧を超えたピアノ」があるという思いから離れられない。ピアノを弾けなくなった修平はカイに会いに来て、カイの教えている子供にピアノを弾かされて、自分がどんなにピアノを弾きたがっているか、つまりピアノを愛しているかということに気づき、自分のプライドをかなぐり捨てて再びピアノの感動を味わうことができるようになって、復活する。

しかしカイがショパンコンクールに出るということを聞いた修平は衝撃を受け、「カイに勝つ」という目標を思い出して再び必死に完璧なピアノを目指す。そのためにまた「足りないもの」を指摘し続けられるが、「コンクールで勝つためには完璧なピアノでなければ」ととにかく必死で仕上げていき、そのためになりふり構わなくなった修平は光生らほかの留学生から嫌な奴だと見られるようになる。コンクールでカイと再会しても敵愾心にかられた修平はカイと自然な会話をすることができない。そして優勝候補・アダムスキがその素晴らしい演奏にもかかわらず一次予選で落選したことにショックを受け、トイレに行くと、そこに居合わせたアダムスキと向かい合わざるを得なくなる。そこで修平はアダムスキに自分の苦悩を打ち明ける。完璧なピアノを目指して練習を重ねてきたのにもうこれ以上行けないと。アダムスキはそれを笑い飛ばし、努力なんて誰でもしている、そんな張りつめたピアノ誰が聞きたいものか、ピアノは楽器にすぎず表現しているのは自分自身なんだ、と修平を諭す。修平は初めてそこで「自分の足りなかったもの」に気付く。それは「自分のピアノ、自分だけのピアノを弾く」ということだった。

修平は二次予選で今までと全く違ったピアノを弾く。ピアノと自分がつながっているような感じ。阿字野に言われた「君はもっと自分のピアノが好きになった方がいい」というアドバイス。自分のピアノを聞く、というピアノ教師のアドバイス。初めてのめり込んで弾いたそのピアノは、のめり込みすぎてミスが多く、結局二次予選は敗退するが、修平自身にとっては満足のいくもので、将来の輝きを感じさせるものだった。

最新号でも修平は、カイを探してワジェンキ公園にタクシーで乗り付け、カイに「さすがお坊っちゃん」とからかわれているが、修平は「どうせ何をやってもお坊っちゃんといわれるんだからお坊っちゃんを利用してやればいいんだと思ったら楽になった」と言ってカイに「うんそのおかげで助かってる」と言われている。ここでも修平は自己肯定ができるようになっていて、つまり彼の病はそこにあったのだということがわかる。

創作も再現芸術も元をたどれば感動から始まる。誰かのピアノを聞いて感動したからピアノを弾きたくなるのだし、誰かの絵に取りつかれて絵が描きたくなるのは当然だろう。あるいは小説もそうだし映画もそうだ。演劇でもマンガでもみんなそうだろう。

だからその分野を志した人は基礎を学ぶとともに感動した創作や演奏を模倣したくなる。カイも修平も、一度聞いた阿字野の演奏を忘れられない。それはパン・ウェイもそうだ。しかしそれはあくまで阿字野の、他者の演奏であって自分自身のたましいから出た演奏ではない。カイは阿字野自身に「もうこのテープは聞くな」と言われ、修平も聞くことをピアノ教師に禁じられ、オリジナルを目指しての戦いが始まる。カイは小学生の時点でもともと自分が森で弾いていたピアノこそが自分のオリジナル、たましいのピアノなのだということに気が付き、そこから阿字野に基礎とテクニックを叩き込まれていくが、修平は自分自身に自信が持てなかったために「完璧な演奏」にこだわり、自分自身を見ようとしない時期がずっと続いた。パン・ウェイは徹底的に阿字野の演奏を模倣し、それを完璧に自分のものにして、技術的にはそれを超えていく。そしてそれはすでにオリジナルの域に達していると人をして感嘆せしめる。ここには模倣とオリジナルをめぐる演奏家の苦悩とそれを乗り越えていくさまざまな過程が描かれていて、それが読む人を感動させるのだと思う。

こうして書いてみると、このマンガは実にオーソドックスなアートをめぐる普遍的なテーマを取り上げているのだということがよくわかる。自分の心に響く作品というのは、自分が抱えている問題にシンクロする部分があるから響くのだ。そして多くの人の心に響くということは、それだけ普遍的なテーマをとりあげ、また普遍に達するほど深く掘り下げているからに他ならない。自分はやはりアーチストとして認められ、また人を感動させるような作品を書きたいと思っているから、この作品がとても心に響くのだろう。ここ数日書いている二分法で言えば、「本当の自分」が求めているのはそういうことなのだ。

Landreaall 7 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)
おがきちか
一迅社

もう一つ自分が好きな作品を上げると『ランドリオール』になるわけだけど、これはむしろ人を引っ張っていく人間の心構えというか、権力嫌いで自由が好きなDXが夢を実現する本当のリーダーシップを身に着けていく、みたいな、言葉で書くとなんだかひたすら怪しいが、まあそういうところに魅かれていて、それは『ナルニア』に感じた魅力と通じている。ファンタジーというものは向こう側の世界での王権とかある種の理想的な権力・統治機構が出てくるものともっと完全に無政府状態のものとがあるとは思うが、私が好きなのはどうも前者で、私はそういうものからいろいろな「なりたい自分」の要素を受け取ってきたのだと思う。私は「馬と少年」に出てくるリューン王の「激しい攻め戦ではいつも先頭に立ち、必死の逃げ戦ではいつもしんがりをつとめ、そして国内に飢饉があれば国民のだれよりも貧しい食べ物を食べながらも、だれよりもりっぱな衣服を着てだれよりも大声で笑ってみせる、これが王というものじゃ」という言葉がとても好きで、初めて読んだ小学生の時からいつまでも忘れられなかった。それができるかどうかは別として、そういう自分であれるといいなと、ときどきあきらめたりもしながらも、いつも思ってきたのだった。

馬と少年 (カラー版 ナルニア国物語 5)
C・S・ルイス
岩波書店

書いてみるとなるほど、好きな作品について書くということは結局自分を語るということになるんだなと思った。結局自分はこういう人間だと、告白していることになるようだ。

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