感覚経験を超えるということ/感覚世界を広げるということ

Posted at 12/03/10

【感覚経験を超えるということ/感覚世界を広げるということ】

昨日から降り出した雪が、朝起きた時には10センチ以上積もっていて、朝食後自室の前の駐車場への通路、実家の前、それから職場の前と三か所の雪かきをした。本当に春のドカ雪という感じで、腕がくたくたになっている。腰もかなり負担をかけたので、整理体操をしておこう。Youtubeで『コネクト』を再生して、iPhoneの外部スピーカーで聴いている。ときどきふと聞きたくなる曲と言えば少し前は『残酷な天使のテーゼ』だったが、最近は『コネクト』になっている。どういう傾向なのかはよく分からないが。

毎日トクしている人の秘密
名越康文
PHP研究所

名越康文『毎日トクしている人の秘密』の感想を書きながら、2章の「幸福へのカギは感覚世界にある」の項に対する引っ掛かりのことを昨日書いたけど、そこのところを考えたりいろいろ思いだしたりしている。

より本質的なところで幸福というものについて考えるには、感覚経験について考えざるを得ない、と名越氏はいう。そして感覚を突き離し、感覚を超えた世界に触れる、ということがポイントになるというわけだけど、ここは少しわかりにくいなと思った。

しかし少し考えていて、自分が野口整体に自分なりに取り組んで、自分の調子の悪いところを愉気したりしてみると、触ってみるまで分からなかったところが痛かったり、固くなっていたり、違和感があったりすることがとても多いのだけど、でも手を話してみたら全然そういうことをまた感じなかったりして、感覚というものは不思議だなというか、まるで自分のものではないような感じがする部分があるということに思い当った。

これは何というかある意味自分の感情というものを突き離してみられるということと多分根が同じことで、自分の感情だけでなく感覚というものも自分の本体とは別のところにあるものだ、という感覚と言ってもいいだろう。たとえば「痛み」というものは、痛くていやだというふうにしか以前は思わなかったけど、今は痛み方にも違いがあるとか、こういう痛みはこういうふうにすればやり過ごせるとかいうことが分かったり、何というか痛みというものを逃れられないものというより現象としてとらえられるようになってきているところがあって、そういうことと少し関係あるのではないかと思ったりした。

そうとらえてみると痛みというのは「感じない」か「感じて耐える」かどちらかしかない、という感じではなくて、グラデーションのように、つまり知覚のバリエーションの一つとして、それを楽しむというところまで行けるかどうかはともかく、(いや軽い痛みだとそういう感じがすることはないことはない)必ずしも耐えなければならないものという感じでもないときがある。

感覚を現象として観察して、それを手がかりに感覚を超えた世界へ行けるのか。それはどういう世界なんだろう。たとえば昔の武士は死の床でも盤座して死を迎えたというが、それは苦しみとか痛みとかいうものを自分の外に放り出しているからこそできたのだろうし、たとえば「心頭滅却すれば火もまた涼し」というけれども、あれも痩せ我慢なのではなく熱いという感覚を外から観察している自分がいるからこそできるのだろう。自分の本体というのは何なのか、それを自分は感情なのかなとか感覚なのかなとか考えていた時期があったのだけど、そういうふうな経験を考えてみると、少なくとも私の本体は感情でも感覚でもないんだなということは思う。また、考え方とかいう次元のものでもないようだ。意識、というのも多分いくつかのレベルがあって、日常レベルでの意識が自分の本体であるのかどうかはまた難しいなと思う。

そういうところまで考えると難しくなるが、名越氏はそういう例を上げつつ、取りあえずいいたいのは「感覚の渦に巻き込まれない」ということが苦しみから逃れるための、つまり他者依存的でない意味での「幸福」の鍵ではないかということだ。そのようにして自分の感覚さえ観察できる、「第三者的な自分」、そうなることはそうたやすいことではないにしても、そういうことがありえるということ自体が救いになるのではないかと名越氏はいっている。そして氏はそういう自己像を武術を通じて築き上げてきた甲野善紀氏に触れることで癒され、救われてきたと言っている。甲野氏は怪我をしたり体調を崩したりしたときのことを嬉々として、「いや本当に痛いんですよね」とか他人事のように語るのだそうだ。何となく読み飛ばしていたのだけど、考えてみれば自分の痛みさえ楽しんでいると言えるわけで、まあそれは確かに一つの境地だと言えるかもしれないなと思う。

つまり、そういうところに立つことができれば、また違った幸福像が見えて来るということなのだ。他者依存的でない、自分自身の感覚さえ観察して楽しむことができる、「人生を楽しむ幸福」がそこにある、というわけだ。

まあこの辺のところは私はおぼろげにわかると言えば分かるし分からないと言えば分からない、境地の深さは人によって違うと思うけれども、自分自身でもわりと深いところまで行ってたかなとあとで思うときもあれば全然入っていけないなあと思うときもある。まあそのための手段はいろいろあって、何かに没頭することもまた一つの手段であるし、またそれを純化させれば滝に打たれるなどの修行の行為もあるだろうし瞑想や座禅もまた一つの手段だろう。上に書いたように野口整体もまた一つのきっかけになりえるものだと思う。ただこの辺のものにはいろいろと個人差があって、私のように身体の感受性の部分からが入って行きやすい人もあれば精神性の部分から入って行く方がいい人もあろうし、武術的な荒行的なものがいい人もあるのだと思う。人によっては15日間ぶっ続けでプログラムを書くときに三昧の境地に達する人もあるかもしれないし、村上春樹などは小説を書いているうちにそっちの方へ行っているとしか思えない文章もある。私は村上が面白いと思うのはそういう部分なのだけど、まあ世の中では必ずしもそうは受け取られていないみたいだけど。ただまあ完全に感覚を超越した世界に行ったことがあるかと言われればそれは分からない。というか少なくとも行っていたとしても自覚したことはない。けっこう私は現実世界に足場のある人間だなあと思うし。

そんなこともあって本棚にたまたまあった古川千勝『実例が証明する超越瞑想TMパワー』(三笠書房、1995)なんて本をぱらぱらと読んでみたりした。20年以上前になるが、その頃の友人でTMに凝っている人たちがいて、興味はあったのだけど自分で勝手にやる(つまり指導を受けないでやる)ということができないということにどうも納得がいかず、というかそういうサークルに触れること自体にちょっと警戒感もあって手を出さなかったのだけど、こういう方法もまああるなとは思った。文字やシンボルを念じるというところはレイキにも似ているし、多分もともとは念仏とか真言とかも同じようなものだったのではないかという気がするが、いろいろ興味深くはある。

私は基本的にやはり他者に依存する幸福より、一人で清々しく感じる自由の方が好きだというところがどうしてもあるので、基本的によっぽどのことがない限りあるサークルに入るということはほとんどない。どうしてもそういうところは自己充足的なというか円環構造が閉じてしまう感じがする。ただ集団幻想はあんまりなくても対幻想はそう簡単には消えないけど。名越氏は日本人はどうしても所属したいという欲望から逃れられない、みたいなことを言うのだが、私はどうもよっぽどのことがない限り所属したいという感じがなく、所属しているということ自体が何だかある種の冗談みたいな感じで面白がってしまうようなところがある。面白がっているうちはいいのだけど、だいたい飽きるし、どこかに行きたくなってしまうけど、日本的組織というのは足抜けが難しく、女性と別れるときでもないのに修羅場になったりするから最初から入ること自体に警戒するということなんだと思う。

まあ話が脱線したが、つまり感覚を離れたところに行くことができるということは、より長いスパンでものを感じたり考えたりすることができることにつながる、のだという。つまり現世的な蟻の視点ではなく、鳥の視点で空から自分やそれを取り巻く状況を鳥瞰できるということだろうか。まあこの辺になるとあまり具体的なイメージがないのでよくわからないところもある。ただ私自身、人と話していてその人がどういう人なんだろうということを常に考えながら話しているから、その人のことをいろいろな角度から、またいろいろな距離から無意識のうちに見ているということはある。そうやっておくとこの人にはこういうことを言ってあげた方がいいなということが自然に浮かんでくる、と言えばいいのだろうか。ただやはり感覚につきすぎているところがあるんだろうなと思うのは、その人が辛いだろうなと感じることをいうことはそう簡単ではない、ということだ。そういうときも感覚から離れることができたら――それがいいことなのかどうかがどうもまだ自分には確信が持てないのだけど――厳しいけれどもより本質的な意見、というのが言えるようになるだろう。まあ以前よりはそういう方向へ行っているのではないかという気はするけど。

甲野善紀氏はふと「日本の照葉樹林が危機にあって、それを残すためには日本人が滅亡するしかないんだとしたら、私はそちらに同意してしまうかもしれない」というようなことを言ったりするのだそうだ。それは何千年単位の考え方から来ているような気がする。また野口裕之氏は震災直後の物情騒然とした中でいつもと寸分変わらぬたたずまいを持っておられたのだという。それは名越氏によると野口氏が整体という技法を通じて人間にとって身体とは何かという問題を人類史的な課題にまで深めて取り組んでいるから、原発事故でも千年万年の単位の中での一つの事件と位置付けているからそうそう動じないのだ、と受け取っている。

感覚から離れたところに自分を置けるということは、ただ感覚に縛られないというだけではなくて、その感覚自体を研ぎ澄まし、押し広げ、まあ私の言葉でいえば広大な視野をもつことにつながる、のではないかと名越氏はいう。ブッダの視野は何億光年のかなた、みたいなことをどこかで読んだ覚えがあるが、そんな感じかなと思った。力量というのは育てるものではなく、感覚の視野を広げていくことである日突然できるようになるものだ、みたいなことを書いているのだけど、なかなかこのあたりの感覚は難しいけどそういうものだなとは思う。人間には力量というものは確かにあって、フレキシブルに伸ばせていけるポテンシャルを感じさせる人もいれば、死ぬまでこのままだろうなと思う人もいる。それは確かに、いろいろな意味で「視野」を広げようとしているかどうか、ということは大きいだろう。

ここまでで第2章の真ん中くらいまでの話。後半はさらに話を進めて、それでは感覚を養うためにはどんなことをしたらいいか、というような話に入っていく。具体的方法論。たとえばこの世ならざる風景(たとえば墓場とか、夜の街とか)に触れること、「やばい」と感じるところに近づかない、気持ち悪いと感じるところに近づかない、そういう感覚を大事にするということ、「言葉にすると嘘になる」、そういう微妙な感覚、本当に大事なことは言葉にならないという感覚を大事にすること、場の持つ力を重視する、聖地は一センチたりとも移動しない、ということを知ること、集中することで直感力を育て、仏教で言う大円境智という理想に近づくこと、ということを言っている。ある意味ナイーブでセンシティブな感じはするが、自分自身にとってはある意味当たり前というか当たり前なんだけどおろそかにしがちではあるなあと思うようなことが並んでいる。まあこのあたりのことはまたあとで考えよう。っていうか、こういうふうに書きだしてみるとやはりこの本、相当な本だなあ。見かけの「人生慰め本」みたいな雰囲気と全然違って、何というか「智」が詰まっている。もともとは氏のメルマガを題材にしているようなのだけど、甲野善紀氏のメルマガは私も取っているけど名越氏のは取ってなかった。でもこれは多分本で読んだからいろいろ感じられたのであって、なかなか収穫の多い本だなと思う。感想はまだまだ続きそうだ。

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