ある訃報/名越康文『毎日トクしている人の秘密』/意志から智へ/死の側から自分を見る/運命とは物語のことだったんだ

Posted at 12/03/09 Comment(2)»

【ある訃報】

私が信頼している人は何人かいるけれども、その中でトップクラスというか、とても信頼していた方のひとりである、整体指導の先生が亡くなられた。最近はもうお年を召され、以前に比べてとても丸くなられた感じがあって、そろそろもう生ききられた感じに近いのかなあと実は最近感じてはいたので、驚きはしたけれどもやはりそうだったかというか、来るべき時が来たのだなあという感があった。跡継ぎも育てあげられて、もちろん先生のような神業に近い操法というわけにはいかないけれども誠実で暖かい操法をされていて、よかったなあと思う。本当にいろいろとお世話になった。2001年の9月、あの911の月に、私は急にものが食べられなくなったときににっちもさっちも行かなくなってはじめて操法を受けたのだけど、嘘のようにものが食べられるようになって驚いたことがきっかけだった。1999年に酷いぎっくり腰をやってそれからしばらくカイロプラクティックに通っていたのだけど、そのことがあってからはやめてしまった。それから野口整体の本をいろいろ読んだり、愉気の会・活元の会にも参加し、波はあったけれども操法はほぼ2~3週間に一度、2012年の2月、つまりついこないだまでずっと受け続けた。足掛け12年。その間で一番トラブルになったのが腰で、酷いぎっくり腰だけで3回くらいはやっていると思うけれども、そのたびにすんなりとよくしてもらえた。今までいろいろ教えていただいたことを生かし、「生きる」ということ、自分の身体とよい付き合いをしていけるように、心がけていきたいと思う。長い間ありがとうございました。

野口晴哉先生の言葉に「溌剌と生くるもののみ深い眠りがある。 生ききった者にだけ安らかな死がある。」というものがあるが、先生は本当に生ききられたなあという感がある。そしてその言葉は私の人生の指針の一つでもある。安らかに死ぬために、生ききりたい、すべての生のエネルギーを燃やしつくすまで生ききりたい、と思っている。


【名越康文『毎日トクしている人の秘密』/意志から智へ】

毎日トクしている人の秘密
名越康文
PHP研究所

7日にふらっと出かけて田舎の本屋で買った名越康文『毎日トクしている人の秘密』(PHP、2012)が面白く、何度も読み返したりしながら、先ほど一度読了した。最近、ある方向への力がすごく強く自分の中で働き続けていたのだけど、違う方向、そして本来の自分により近い方向への力をもう一度強めてくれる本だったと思う。ここのところ強かったのは「意志」の方向性だったと思うのだけど、この本が連れて行ってくれた、あるいは思い出させてくれた方向は「智」あるいは「知恵」の方向だった。これは友人につくってもらって日曜日にもらったアメジストを中心としたブレスレットの意味する方向性と同じだ。とにかく意志をもって行動する面白さ、具体的にはとにかく表現する面白さの方向へずっと傾いていたけれども、より深い智に基づいた確かな知の方向への希求のようなものが自分の中で流れになってきたような感じがする。

身体的に見ると、もともと私の緊張しやすい部位は首筋だったのだけど、最近は腹に固いところができやすくなっていて、それが腰に来る大きな原因の一つだったのだけど、先ほど体を触ってみると腹の固さはだいぶ引いていて、首筋に緊張がある懐かしい感じ(いやあんまりそういう緊張はない方が楽なんだけど)になっていた。からだの傾向のようなものがその時の心の方向性のようなものを本当に素直に反映するのが自分の身体の特徴だと前から知ってはいたが本当に正直な身体だよなあと思う。

この本は、人生で一番辛いのは何か、という考察から始まり、それは「不安」ではないか、と言っている。自分は不幸だと言っている人が必ずしも不幸ではないけれども、不安というのはリアルなものだ、ということだ。そして現代では「不安」という感情エネルギーを起動力にして動機づけられる行動が多く、それは問題だ、と言っている。そしてその不安というのは怒りの一種である、という話がなるほど、と思った。怒りというのは仏教用語では瞋(しん)というけれども、不安もまたこの「瞋」の一種なのだそうだ。これはなるほどと思う。怒りに我を忘れるのと不安や嫌悪感に我を忘れるのは結局は同じことなのだ。そして不安は未来を思い煩うことによって起こるわけだから、未来をあれこれと妄想することなく、「今ここ」に集中することがそれに振り回されない方法だ、というのもまあその通りだと思う。


【死の側から自分を見る】

不安は消して行けばいい、と名越氏は断定する。その方法とは、死の世界からこちら側を見る、死者と対話するということにある、つまりある種の宗教的な世界を自分の中に持つことではないかという。そういうことは最近あまりちゃんと考えたことがなかったので、わりと虚を突かれたというか読みづらく感じるところがあった。まあ私は先に書いたように最近は意志の世界に生きていたので、孔子的な「今だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」みたいな感覚で、「鬼神に事(つか)えず、怪力乱神を語らず」という意識が自分の中にかなり強くあったのだ。しかしつかえながら何度か読み返し、考えているうちに、自分の中にもそういうものに近しい回路があったことを思い出した。それは手塚治虫『ブッダ』の中で、ブッダが墓場での思索を好んだ、ということを書いてあるくだりがあり、その不思議な静謐感を思い出したのだ。ああ、これか、という感じだ。「死を思え=メメント・モリ」と西欧中世の言葉も言っているのは同じことだろう。

いろいろなことがあって、2009年の父の死はすごく自分には受け入れ難くて、それが身体的変調、何度目かの強度のぎっくり腰に結びついたりしていたのだが、それは逆にいえばもともと自分には冷淡なところがあるという感じがあって、自分の中の感情を敢えてフル回転させていた時期があって、そういうものと重なった観があるからだなと思う。今でも私はふと自分の感情や感覚についてものすごく客観的になっているときがあり、ある意味バスの中から曇りガラス越しに停留所で全身で怒っている人を見ているような感じがするときがあるのだ。そういう自分の性質は、たとえば演劇で演技をしているときなどはわりと役に立ったりはしたけど、どうもあんまりまともじゃないという印象を持っていて、もっと普通の人っぽく感情と付き合いたいと思っていたのだ。まあ今思うとそれはそれで不自然だったなとも思うけれども、まあいい経験だったなとも思う。

いずれにしても、自分の感覚や感情と「自分」とがあんまり近づきすぎているのはあまりいいことだとは限らない。どんなに感情が盛んな時であっても冷静に行動できるというのは大事なことだ。でも昔から感情に振り回されてみたいという欲望というか衝動というのはあるんだよなあ。ろくなことにならないということは分かっているのに。そういうことを無意識に求めてか感情的に厄介な女性と付き合ったりする傾向が昔はあった。そういうことはもうやめにしたいと思ってはいるのだけど。

ああ話がずれた。死の方向から自分を見る、ということの大切さ、まあ結局それが先ほどから言っている『智』というものだと思う。どんな人間でも生きて、そしていつか死ぬ。それを避け得た人間はいなかったし、これからもいない。だから生と死に関する哲学というか思想と言うか信仰でもいいがそういうものをもたなければならないし、持つことが『智』なのだと思う。私の考えはその点すごく生に傾いていて、つまりさっき書いたような「生のエネルギーを使いきるまで生ききって、使い切ったときにふっと死ぬ」ことが目標なのだが、もっと死の世界からの見方のようなものが必要かもしれないなとこの本を読みながら思った。


【運命とは物語のことだったんだ】

人生は常に「舞台」であり、自分にとっての「本番」は未来ではなく、常に「今ここ」だ、と言うのもとても分かりやすい喩えだ。そして私たちは舞台の上で「物語」を紡いでいかなければならない。そして「物語」と言うのは、常に「不条理なこと」、つまり自分が思いもよらないこと、自分の意志に完全に反することが起こるのだ。つまり人生には不条理なことが往々にして起こるけれども、それがあるからこそ人生は物語になるのだ、と言うことを言っているわけだ。これも何というかすごく納得できるというか、要するに究極に前向きな考え方だと思う。

この本の中には名越氏の交流のある人々、たとえば甲野善紀氏や野口裕之氏がたびたび出て来るが、甲野氏の言うことのうちあまりピンとこなかったことの中のいくつかがこの本を読んでいて「こういうことかな」と少し理解できた気になったことがあった。甲野善紀と言う人はブログやメルマガやツイッターに書かれたことを読んでいると、何か思いがけないことがあるとそのことの意味を一生懸命考え、解釈し、そして前に進んで行く。大きな忘れ物をしたり電車に乗り遅れたり体調が思いがけず崩れたりしたようなとき、彼はもちろんそれに対処しながらだが、そういうときは自分の専門の武術の術理上の大きな発見があったときなどすごく「得をした」ときらしく、そういうときはいいことばかりでなくそう言った凶事が起こることでバランスを取っている、「税金を払っている」と言う言い方をしたりする。そういう感じと言うのは私もけっこうリアルに感じるときがあって、ああこの失敗はおこすべくして起こしているんだなと思ってまあ仕方ないかと片付けられることがあって、その辺はある意味甲野氏の考え方を取り入れてはいるのだが、何かが起こってもどんどん意味づけをして自分の物語をどんどん豊かにして行っているということなんだなあとこの本を読んで改めて思った。

甲野氏の人生観としてたびたび氏が書いているのが「運命は完全に決まっていて、なおかつ人間は完全に自由である」という言葉がある。運命が決まっているなら人間に自由はないだろう、一方人間が自由ならば運命などないはずだ、という矛盾を若いころ徹底的に突き詰めて、そういう結論を大悟したという話はよく読んではいたのだが、それが具体的にどういうことを意味しているのかはよくわからなかった。

しかし上のように考えてみると、つまり甲野氏が不条理を受け入れ、それを物語に組み込んで行くというのが「運命」を読みこんで行く作業であり、そうでありつつ術理の研究に没頭したり講演や対談、著作やさまざまな実践、多くの氏が素晴らしいと思う人との交流などで日本中を、時には世界中を自由に駆け巡っているという氏の生き方そのものが、その言葉が表現している内容なのだ、と思う。決まっている運命が何なのか、それを傍観して「ああこれが運命なんだ」と思ったり嘆いたりするような運命との付き合い方ではなく、「いったい俺の運命はどういうことなんだ?!」と常に自問自答しつつそれと積極的に格闘して行く、彼にとっての運命とはそういうものなのだ。そう考えてみると運命というものはとてもダイナミズムに満ちた、本当の意味で「物語」と言い替えられるようなものであるわけだ。

今までのところで4章構成の第1章「不安を減らせば楽になる」の感想。(笑)これは長くなりそうだ。取りあえず一度更新します。

"ある訃報/名越康文『毎日トクしている人の秘密』/意志から智へ/死の側から自分を見る/運命とは物語のことだったんだ"へのコメント

CommentData » Posted by むなかた at 12/03/21

非常におもしろかったです。
『毎日トクしている人の秘密』を読んでみたくなり、アマゾンで注文しました。
私も、不具合があると、自由が丘の野口整体の整体師の方の施術を受けに行きます。
自分でも野口整体の技術を身につけたいと思っています。

CommentData » Posted by kous37 at 12/03/21

>むなかたさん
ありがとうございます。

不安が怒りの一種だ、というのは言われてみればなるほどと思いますよね。まあ応用問題ですが。こういう問題も自分の年齢や社会の状況に応じて、いろいろな面からとらえ直して行くと新しい発見があったりして面白いです。

名越さんは基本的に面白いですが、特にこの本はいいなと思います。むなかたさんも多分面白く思われるのではないかと思いますよ。

"ある訃報/名越康文『毎日トクしている人の秘密』/意志から智へ/死の側から自分を見る/運命とは物語のことだったんだ"へコメントを投稿

上の情報を保存する場合はチェック

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday