ぼくらはだから常に未来に目を向けるのだ

Posted at 12/03/04

【ぼくらはだから常に未来に目を向けるのだ】

今日は一日本棚の整理。だいぶ形になってきた。もう根本的に本が多すぎるので、雑誌類は取っておきたいと思うもの意外は捨てる、読みそうもないマンガ類は近々ブックオフに売ってしまう、位の強制手段を取らんといかんなあと思っている。ただ、打ってもいいやと思うマンガの判断基準がそのときによって揺れ動いてしまうんだな。『!』はいいやと思ったのだけど、『丁』と『ん』はちょっと迷っている。両方とも新しい単行本を買う気はないんだけど、持ってるのを処分するかどうかというのは迷うところ。小林よしのりも『』は処分しようと思うのだけど、『』はどこまで取っておくか。最近のスペシャルものはもうあんまり読まないだろうなと思うしなあ。でも『戦争論』は多分まだ読むときがある。やはり彼の作品でも重要と思う作品とそうでない作品はあるなあと思う。

エーゴン・シーレ 日記と手紙
白水社

本棚を整理しているうちに読んでないけどあれ面白そう、と思う本もいくつか出てきたり。今日見つけたのは『エーゴン・シーレ日記と手紙』(白水社、1991)。21年前に買って読んでない。でもこういう本って時々あって、今になって読む気になったりすることはある。妹への手紙が印象深い。1914年11月23日の手紙だ。

 ゲルティ
 ぼくらは世界がかつて見た一番暴力的な時代に生きているんだ。――ぼくらはありとあらゆる不自由になれてしまった――何十万という人間が哀れにも破滅していく――誰もが自分の運命を、生きながらあるいは死につつ耐えなければならない――ぼくらは残酷になり恐怖を失っている。――1914年以前のことは別世界のことなんだ、――ぼくらはだから常に未来に目を向けるのだ――希望のない人間は死んでいく人間の仲間だ――ぼくらは生命をもたらすすべてのことに耐える用意がなければならない。
 嵐のあとに太陽が輝くように、ぼくらもまた太陽を体験するだろう。この幸福をぼくはお前の兄として望んでいる。
               エーゴン・シーレ

 第一次世界大戦が始まってヨーロッパが恐怖に晒されている時代の手紙だが、1914年を2011年に変えたら今でも通用しそうな文章だ。今日石巻市の大川小の合同慰霊祭で子どもたちの写真が何十枚も並べられている祭壇の映像を見てそのむごたらしさに涙を流さずにはいられなかった。誰もが自分の運命を、生きながらあるいは死につつ耐えなければならない。津波はともかく、原発事故の影響から逃れ得る人間はいない。不協和音といたずらな恐怖、煽動。なんという時代だろうと思う。人類は何度も、こんな状況に直面してきたんだなと思う。

N響アワーでストラビンスキーの『春の祭典』をやっていた。あんまり分析して聞いたことがなかったけど、4分の11拍子で太鼓が叩かれるところとか、変拍子が次々と変わっていくところとか、解説を聞いておくと面白く聞けるんだなと思う。最初のメロディーがファゴットで、木管や金管の役割が重要だということ、また案外ミニマムな音の繰り返しで構成されているということも言われてみたらなるほどと思った。初めて聞いた人たちはわけが分からなかっただろうなあ。

東京で今使ってるPCはもともとMS Officeがインストールされてないものを買ったので、わりといろいろ困ることもあるのだが、どうしようか迷っていて、『一太郎2012承』のDL版を導入するという裏技?も考えたのだが、今のところ思いとどまっている。ただ興味深いのは一太郎がePubに対応しているということで、つまりは作成したファイルをそのままパブーにアップロードできるということなわけだ。これがメリットというほどのことになるのかいまいちよく分からないが、なんとなくペンディング。

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