人間の仕事/日本の4、50代の男はなぜかっこよく見えないか/甘い生活/理性七段階/生きる力
Posted at 12/03/26 PermaLink» Tweet
【人間の仕事】
人間には、聖なる事業と俗なる事業があるのではないか、と思った。どんな人間でもその二つを持っている。聖なる事業というのは生きること、そしてそのために必要なすべてのこと、生きるためにやらなければならないこと、やるべきこと。そしてほかの人を生かすためにやること。俗なる事業というのはやりたいこと。自分にとってはアートとか映画だが、好きなこと、楽しむこと、人としてやり遂げたいこと、小説を書くこと、文章を書くこと、自分の作品を書くこと、自分の生きたい世界で生きること。だから聖なる事業も俗なる事業もやり遂げなければならない。それが、これから30年の課題だなと思った。
聖なる事業というと人間性を超越した、神への事業みたいな感じになるけど、まあそれはキリスト教文化圏ではそうなると思うのだけど、私にとっては「生きることそのもの」が「聖なる課題」であるという気がする。そしてそれを成り立たせるための日々の仕事というものも、聖なる課題である生を支える聖なる仕事なのだと思う。
俗なる仕事というのは、自分のやりたいことということ。つまり欲望が志向すること。名誉心とか成功欲とかそういうものも含まれているけど、基本的には満足いくものを作り出し、それを世に送り出して評価されるというプロセスが欲しいということなんだと思う。つまり生きる作る売るの三つの仕事のうちの、作る売る部分をリニューアルないし拡大したいという欲望で、それによってさらに生きることを更新し、より豊かにしていきたいというのが今思っていること。俗なる事業は今まで消費の側面ばかりだったけど、それを何とか生産に回すことでさらに深めていきたいということだといっていいかな。より自分の生きたいような人生を実現していくために、そういう構図をはっきりさせておこうと思ったのだった。
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それを考えたのは、『フェリーニ全作品』を読んだこと、というかこの中の『甘い生活』についての文章を読んだこととそれからフェリーニ自身のこの時期の写真を見たことが大きい。こういうのとか、こういうの。まあとにかくかっこいい。40~50代の男の魅力を全面的に発揮している。太っているとか体型がどうだとか全然関係ない。遠慮なくやりたいことをやっている男の強さなのだ。
【日本の4、50代の男はなぜかっこよく見えないか】
なんというか、日本人の40~50代の男を見て、かっこいいとかこうなりたいとか思ったことが私にはほとんどない。できると思う男は偏屈だし、そうでない男はバカに見える。かっこいいと思われてる男も女から見てのそれだったり、男が惚れるといっても(確かに高倉健とかはかっこよかったけど)私がなりたい方向ではない。桁違いのインテリで桁違いのバイタリティがあり桁違いの創造力があり、そして人生に対して無限の包容力がある、そんな人間を見たことはほとんどない。
まあもちろん、それはそういう人間がいないということと同義ではないだろう。私が知らないところ、メディアに出てこないようなところにそういう人はたくさんいるのかもしれない。人知れず身近にいる人をその魅力で豊かな人生に導いている人が、きっとたくさんいるのだろう。しかし大事なことは、そういう人が表に出て、世の中にメッセージを送ることなんだと思う。
日本が変な国だと思うのは、40歳~50歳の男が顔が見えないことだ。顔が見えないというのは、生き方を見せる人間がいないということだ。みんなそれなりにいろいろなことは言っているしその範囲に関してはなるほどと思う人たちもたくさんいるのだけど、その生き方そのものが何かを語っている、こんな風に生きてみたい、と思う人がいないということが、日本の男を残念にしていると思えてならない。
本当は、40歳~50歳の男なんて、人生の花の時期だと思う。外国映画を見て一番かっこよく見えるのはこの世代の男たちだ。でも日本ではそうなっていない。文化が若者中心になっているということ、女性が牽引しているということ、老年層が仕切っているということ、それぞれに理由があり、40歳~50歳の男たちが一番文化的に貧しい、そういう世代になってしまっている。つまり、この世代の男たちが生きることに精いっぱいすぎるということが問題なんだろう。ないしは生きることに十分に挑戦的でないというのか。
すごく問題だなと思うのは、40歳~50歳代の男の自殺が諸外国に比べて異様に高率であることだ。「普通なら」一番楽しいはずのこの時代が、おそらくは一番詰まらない、辛いだけの時代になっていて、普通ならもっと発散しているはずの男たちの加齢臭がただただ蓄積していくことになってしまっているのだろうと思う。日本の中高年の自殺率が高いのは、日本が「オヤジがかっこよくない国」だからだと思う。
しかしなんというか、雑誌などを見ても「かっこいいオヤジ」を目指した雑誌などは、なんというか最悪で、作り手の妙なナルシズムが異臭を放っていて読むに堪えないものが多い。部分的に参考になるところがなくはないのだけど、全体としてのその「凡庸なナルシズム」は参考にしようがない。非凡なアーチストは確かにナルシスティックな人が多いけど、ナルシスティックであれば非凡であるとはならない言うまでもないけど。
大体、そういう雑誌を電車の中で読んでいて、「お、この人かっこいいな」と思う人がいるだろうか。たぶん買っていても電車の中では読まないだろう。そういう雑誌ではだめなんだと思う。
じゃあ読んでてかっこいい雑誌ってなんだろうと思うと、思いつくのはフィナンシャルタイムズとか英語系の経済誌くらいになってしまって、私のイメージも嫌になるほど凡庸なのだが、読んでるタイトルを見て「この人は侮れない」と思ってしまうとしたら、まあその人の外貌との取り合わせにもよるが戦後の文学とか外国文学になってしまうような気がする。画集とか映画関係の本とかならいい気もするがそれも私の趣味かもしれない。
なんというかとくに現代の出版は読者をバカにしているというかとにかく易しく読みやすくばかりで本を読むという営為が本来持っていたはずの知的な虚栄心みたいなものを満たすものが本当に少ない。まあそれはスポーツタイプの車が若者に売れなくなったというのと軌を一にした問題なんだろうけど、逆に言えば日本の作り手は世代とかを意識しすぎるということが問題なのかもしれないな。
まあいろいろ書いたけど、要するに40代とか50代とかを自分の生きたいように生きるとしたら、用意されているようなものでは全然満足できるはずがないということで、とにかく自分で切り開いていくしかない。仲間的なものもどうも閉じた世界になっているのが多くて、40代50代の男が本来「男の生きがい」に感じるはずの「世界を束ねていく感じ」からどんどん遠くなっている感じがする。一人では何もできない人間がいくら集まったところで大したことはできないということになりかねない。まあそうなっているのが今の日本の政治の現状なんだろうけど。
なんか今日の日記は必死で書いているな。書きたいことを一つ一つ文字に起こしているのだけど、思いとイメージと文字を一致させながら書くのがこんなに大変なんだと久々に感じている。
【甘い生活】
フェリーニの『甘い生活』は、ふわふわした浮草のような稼業や女性関係を楽しみながらこのままではいけない、まずいという感覚も持っていてなんとか地に足の着いた生き方をしたいと思いながらただただ流されていくマルチェロの心象を描いていて、つまりはそういう享楽的な生き方を表面的であり真実でないと感じながら「真実の生」に立ち戻ることができず奇怪な深海魚の死骸に自分自身を見て慄然とする、という話な(だと私は思う)のだけど、だからと言ってフェリーニはこのマルチェロの生き方を必ずしも否定してはいない、少なくとも何か大事なものがそこにあると示唆しているような気がする。
この深海魚のことを思うと、私は『論語』に出てくる獲麟の話を思い出す。瑞獣である麒麟の死骸が見つかるということは、縁起のいい話ではない。つまり孔子の理想は決して叶うものではない、というようなことが暗示されていると取れる。いずれマルチェロの生き方を続けていればこの深海魚のように追いつめられてそのグロテスクな死骸を晒すことに終わるかもしれない。しかし、人間いずれは死ぬのだ。その時に悔いのない生き方をしたといえるのは、いったいどういう生き方なのか。
フェリーニは自分の生き方を反省してこういう映画を作ったわけではないだろう。映画を作り続けるフェリーニの生き方はむしろ、マルチェロの行き当たりばったりの生き方とどこか通じるところがある。深海魚のようにグロテスクな死骸を晒しても、それでも映画を作り続けるんだという意思がむしろそこにあるのではないかという風に今回読んでいて私は思ったし、そして実際フェリーニは最後まで進み切って、いわゆる「地に足の着いた」生き方をしたのでは決して到達できない大きな功績を残して死んだ。
まあつまり、あの深海魚は「死」のメタファーなんだ。メメントモリ。死を恐れて後退するのか、死を前提に前に進むのか。いやそれは進めば死、戻れば生というようなことではなく、どんな人生にだって最後に待っているのは死なのだということなのだけど。つまり、ブッダの四門出遊のようなもので、生老病死という人間の定めを踏まえてどこにどうやって進むのかということだろう。俗も徹底すれば聖に通じる、みたいなことがそこに見えると言っていいんじゃないかと思った。
【理性七段階】
もう一つ今日読んで感銘を受けたのが『MOKU』のバックナンバーに載っていた藤本義一の「理性七段階」と題した文章。古雑誌を捨てようと思って玄関に積んであったのをひもで縛ろうとしてポストイットがついているのに気付き、そこだけ読んでみたのだけど、引き込まれて結局その号だけ取っておくことにした。
アメリカの戯曲を分析してみると主人公が人生の運命に立ち向かっていくのにはまず「理性」がなければいけない、ということを教えられたという話。主人公が理性的に生きていこうとして、その純粋さを貫く気持ちが起こると、周りと軋轢が起きて非妥協的になり、そこで周囲と強調できない非協調性が生まれ、壁にぶつかる。そうして妥協できないと孤独になり、さらにそれが進むと絶望になる。その行き詰まりの果てに死と生を考える、というのが名作ドラマの一本のラインとしてある、という話なのだ。
これはまあとてもアメリカ的だけど面白い。『スミス都へ行く』とかはまさにそうだろうし、『第三の男』とかもパターンとしてはこれだ。理性→純粋→非妥協→非協調性→孤独→絶望→死か生というラインは、なんというか「受ける映画の13フェーズ」みたいなマニュアル的な話と通じるところがないではないけどこちらのほうがずっと面白い。つまり書く方にとっては動機に、とっかかりにしやすい。
作劇のパターンとしては肯定的な終わり方を選ぶなら生を選ぶし、悲劇的な終わり方を選ぶなら死を選ぶことになる。まあどっちもありだろうけど実際の人生としては生を選ぶために全力を尽くさなければならない。それを藤本は「死から這い上がるには、逆に理性に向かって歩まなければならない」と表現する。絶望を解き、孤独を解き、非協調性を乗り越え、周りを納得させて理性的な主張を実現する、人間として純粋とに行きたいという心の原点にどうやって這い上がるか。どん底で絶望して死か生かとなった時に死という敗北に屈してはいけないと自分にいい聞かせ、どんな苦闘をしても生を手繰りよせなければならず、そこにドラマの大きなうねりが生じる、というわけだ。私の書いた話でも『ガール』は結局そういう構造で、孤立・絶望からの生への帰還みたいなことをテーマに、そこに事態を展開させるキャラクターとして小さな女の子が現れる、という話なわけだ。
絶望が深まっていく過程を書くのはどうもあんまり好きではないので私の話はあまりそういう話にはならないけど、やはり何かの助けがあってこそ人は困難を乗り越えられる、という話になるわけで、たとえば『アンタッチャブル』ではケヴィン・コスナーのエリオット・ネスを援助するショーン・コネリーのジム・マローンとの友情とか、『風とともに去りぬ』では最後にすべてを失ったスカーレットに福音のように響く父とアシュレーとレットの言葉、「タラ」という言葉によって救われる、その言葉とか、そういう何かが人を生へと導く。そこが自力で解決できるのか援助がいるのかとかいろいろパターンはあるけど、完全に自分だけでやってのけるとドラマ性が少し足りなくなる気がする。
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【生きる力】
人間というのは、生きている以上必ず壁にぶつかったり困難にぶつかったりして、時には絶望的になることもある。だから人間にとって本当に必要なのは、その絶望から這い上がって生を手に入れるために必要な何かだけなんじゃないか、と思った。その何かというのは結局パワーの一種で、友情だったり記憶の中の教えだったり、自分の中の命の力だったり糧としている何かだったりする。それをいかにして手にするか、掴み取るか。
でも最終的にそれを掴み取るのは、自分自身の力があってこそなのだと思う。そしてそれを掴み取る力は、誰でも持っている。そしてそれをこそ「生きる力」というべきなのだと思う。
それこそが「聖なる事業」を成し遂げる「聖なる力」であり、あきらめない力であり、最後までやりきる力であり、戦う力であり、人は死に至る一瞬まで、それを持ち続けるのだろうと思う。手放したように感じられても、生きている以上、必ずその体にその力は帰ってくるのだ。
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