ネットカフェ初体験/「自分は何をやってきた人間なのか」を雄弁に語るもの/自分の中のヨーロッパ回帰

Posted at 12/02/26

【ネットカフェ初体験】

忙しい忙しいと書くのもなんだかはばかられるくらい忙しいのだが、半分は自分で忙しくしているのでまあ仕方ないことではある。昨日はずっと忙しい中何とか仕事を片付けて7時前の特急で上京した。車中はずっと新聞を読んでいたのだけど、新宿で快速に乗り換えたあとiPhoneで『大聖堂のある町で』の6話を読み返していて、1ページ落丁になっていることに気がついた。

何でそんな時になって、と思うがいつも公開前にiPhoneにダウンロードして一通り読んで落ちているページがないことを確認していて、今回もないはずだったのだが、そんなことになってしまった。忙しくて目が節穴になっていたのだろうか。もともとパブーのシステムではこちらの指定どおりにページレイアウトをするためには自分でpdfファイルを作り、それをインポートするという手続きをとらなければならない。(インポートするためには有料会員になる必要がある。)最新のWordであればpdfファイルは作成できるのであとはインポートするだけなのだが、どういうわけかこのインポートの過程でページが抜けることがあるのだ。第2話でも1ページ抜けていることに後で気づいて修正した。

『大聖堂のある町で』は毎週水曜日と土曜日に区切りのいいところで物語を切って、少しずつ公開しているのだが、実は東京に現時点でWord環境がなく、このままでは月曜深夜まで修正できないということになってしまった。日曜日にkiknko'sに行って修正するということも考えたが、そういえば地元の駅の近くにネットカフェがあるということを思い出し、実はネットカフェというものに今まで一度も行ったことがなかったのだが、まあそういうわけで初体験をすることになったわけだ。

受付で会員登録手続きをし、登録料300円と最初の30分の300円を支払ってブースを教えてもらい、移動する。最初はPCのスイッチがどこにあるかとか、ドリンクバーのシステムがどうなってるかとかよくわからないで少しうろうろしたがだんだん飲み込めてきてオレンジジュースを横に置いてUSBメモリを取り出し、中に入っていたファイルから必要な部分をカット&ペーストして新しいWordファイルを作る。私はどちらのPCもすでにWindows7に移行しているが、昨日使ったPCはまだXPで、WordでPDFファイルを作ることが出来なかった。勝手にpdf作成ソフトをダウンロードすることも出来ないようだったのでどうしようかとデスクトップを見ていたらアドビのサイトでオンラインでpdfファイルを作成できるサービスがあることに気がつき、それを使って作成してみた。最初作ったファイルをインポートして該当箇所に挿入してみたらフォントの大きさが違っていることに気づいて作り直し。二度目に作ってみたらなぜか小さい「つ」だけ2ページ目にはみ出してしまい、また作り直し。そんなことを繰り返してようやく出来たときには10分以上超過していて、結局超過料金を200円払ったのだった。

まあしかし近くではビリヤードの音が響いていたり、夜遅かったのに若者が幾人も出入りしていて、この街はいったいどこに若者がいるんだろうと思っていたけど、こういうところにいるんだなと妙に感心した。受付の若者もなんだか世慣れないバイトでマニュアルをさくさくと説明するのに手間取っているのに機械での手続きはあっという間で若者だなあと思ったり。用事を済ませて外に出たときには11時近くになっていたが、まだ若者が外を歩いていてなんだか自分も20代に戻ったような楽しい気分になった。そういうつもりではなかったからマンガとかも読まなかったけど、ああいうところも気分転換にはいいかもしれないなと思った。

帰ってきて懸案になっていた東京の住宅の地震保険の保険証券を探したのだがどうもよくわからない。やはり田舎にもって行ってそこにある気がする。しかしそういう類のものがおいてある引き出しや状差しがあまりにごちゃごちゃなので、一度整理しようとは思った。何年分もの確定申告の資料がごちゃごちゃに引き出しに突っ込んである。・・・ということを思いついて今(日曜の昼)つい整理を始めてしまったのだが、案外探しているものはあるのかもしれないという気がしてきた。乞うご期待。いや、私が期待しているのだけど。


【「自分は何をやってきた人間なのか」を雄弁に語るもの】

東ゴート興亡史―東西ローマのはざまにて(中公文庫BIBLIO)
中央公論新社

夜、寝る前にちょっと本の整理を始めてしまったのだけど、ジャンルごとに分けて行こうと思ってそういえば私はヨーロッパ中世前期に関する本をけっこう持っているよなあと思いながらちょっと悦に入ったりしていてた。『アッチラとフン族』『西ゴート族の遺産』『東ゴート興亡史』『ヴァンダル興亡史』『クローヴィス』『メロヴィング王朝史話』なんてところが並んでいると嬉しくなってくる。塩野七生『ローマ人の物語』のゲルマン族の侵入のあたりを読んでいるとげっそりしてくるのだが、なんというか前世は蛮族だったんじゃないかという気もした。あるいは心を痛める側のガロ=ローマ人だったのだろうか。

ついでにどんどん本をジャンル別に固めだしたら、「ヨーロッパの歴史」関係が膨大に出てきてどんどん山になった。そのとき初めて私は西洋史専攻だったことを思い出してなんだか可笑しくなってしまった。なーにをやってるんだか。まあ私の知識というのは上に書いたような概説書が中心のあさい知識が多いのだけど、そのかわり妙に幅は広いというものだなと思う。それから日本史関係の本も山のようにある。特に近代史。考えてみたら短大で日本近代史の講義をしたときに山のように買ったのだった。そういえば今日は2・26。その前夜に起こった永田鉄山暗殺事件。永田は郷里の出身で曽祖父と一つ違いで同じ小学校に行っている。永田は戦前に暗殺されたが曽祖父は私が4年生くらいのころまで生きていたので、歴史上の登場人物も実は自分との接点がありえたのだと思うと不思議な感じがするが、そのあと永田の近辺を調べた時期があって、皇道派と統制派の対立など昭和戦前史の本もけっこうあるのだった。

考えてみたら当たり前だが、人生のある時期に強く関心を持ったり調べようと思った範囲の本はたくさんある。まあ、大学生になって自由に自分で本を買えるようになってからのことだけど。教養のころ興味を持っていた西欧中世史・日本中世史の本もけっこうあるし、特に日本中世史は後になってからもなんとなくの興味が続いたので、新しい本が出たら買ったりして今谷明とかそのときそのときの気鋭の学者の著作などはけっこう持っている。

それから仕事が大変だったころによく読んでいた小林よしのり関係の本や、仕事をやめたころに熱中していた白洲正子の本、学生時代に打ち込んだ芝居関係の本や身体論関係の本、ミニシアターめぐりみたいにして観まくったヨーロッパ映画のパンフレットや本、それからネットを始めるきっかけになった詩の関係の本。友人の影響で読み始めた個人ビジネスの本など、やはりそのときそのときで自分が深く知ろうとし、関わろうとした痕跡がこれらの本には溢れていて、蔵書というものは自分が何をやってきたのか一番雄弁に語っているのだなと思った。


【自分の中のヨーロッパ回帰】

日本にノーベル賞が来る理由 (朝日新書)
伊東乾
朝日新聞出版

まあしかし、『日本にノーベル賞が来る理由』を読んでからはじまっていた自分の中のヨーロッパ回帰(いや、関心が、という次元だが)がトランストロンメルを読んでから相当強まっていて、やはりヨーロッパの知識人階級とある程度の共通認識を持つことがこれからの日本人にとって重要だと思うようになって来ている。それは、彼らはノーベル賞を誰に出すかという決定権を握るなどの形で世界の進路を決める主導権をいまだに握っているからなのだが、まあつまり自分の中での「グローバルな視点」というのはわりとその辺のインテリとさしで話を出来ること、にあるんだなと思ったからだった。まあ語学はあれなので彼らに日本語しゃべってもらわないといけないけど。

それから本を整理しながらチラッと読んだ本で思ったのだけど、ヨーロッパの死生観の古層にはケルトや地中海がある、というのはそれはそうだなと思った。そちらのほうにかなり傾倒している友人がいるのでいろいろ話を聞いたりしているのだが、私はそういうものと自分がそんなに接続している感じはしないが興味はある。

ところで自分の死生観の古層にあるのはなんだろうと考えてみたのだが、どうもいろいろだ。少なくとも意識的には「人は自分の持っているエネルギーを使い切るまで生きるのが自然」という考え方を取っているのだけど。

悲しみのゴンドラ 増補版
トランストロンメル
思潮社

トランストロンメルについてもいいたいことはけっこうあって、なんというかこの人は本当にヨーロッパ知識人の生きてきたシビアなところをちゃんと作品にしてきている感じがする。『悲しみのゴンドラ』は冷戦終結後の世界がどう見えるかということが基盤にあって、「ふたつの都」なんて詩はまさにそのまんまだと思うのだが、日本の詩人の解釈はそれを個人的な問題としてとらえていて、まあそうでないとは言い切れないけど、読むほうとしてはもっと世界を見て書いていると読むべきなんじゃないかと思った。

引喩という形式をはじめて知った、というか実際にはそういう名前がこの修辞についているということを知らなかっただけで実際には使っていたりするわけだけど、本当に深い教養を前提として見える世界の広がりを述べる詩や作品を展開しているのはいいなあと思うし羨ましい。日本ではそういうのはなかなかペダンティック・衒学的であると思われて知識をひけらかしている感じに解釈されることが多いので。まあわりかし私はそういう指摘を受けやすいこともあってそういうのを避けてるところもあったのだけど、そういうことも恐れずにやっていけばいいんじゃないかなというふうには思った。

それにしても歴史の論文というのは本当にいろいろ調べて調べたことを書くのがメインで、それに対する解釈は調べたことからあんまり浮き上がったことが書けないという意味で論説文というよりは説明文という感じになることが多いわけだけど、ブログのような文章は言いたいことが書けるので説明文よりは論説文に近くなるのだけど、そういえば小説というものも実際のところ描写という名の説明がたくさんあるわけで、実は説明文なんだなと思った。その表現の工夫すべきところが普通の説明文の簡素な明瞭さとかと必ずしも同じではないというだけで。実際、論説文より説明文の方が読むのも書くのも大変なのだけど、小説を読んだり書いたりする大変さというのは要するにそういうことなんだなと思った。

というのはトランストロンメルの詩が本当に説明文みたいだなと思ったからで、基本的に何を言っているのかとても明瞭で、ただ何か意見を表明しているというより何を言いたいか、いや何を書きたい(表現したい)かが分かるといえばいいのか、日本人の詩だとその辺が不明瞭なのだけど、すごく明瞭な印象がある。何か日本の作家の作品を読んでいても(表現すべきもの)がどんどん袋小路に入ってしまってよく分からなくなっている感じがあるのだけど、もっと明瞭に表現していくという方向性があってもいいなと思ったのだった。それもある意味ヨーロッパ回帰というべきなんだろうか。

昼ごはんを買いに出たついでにウチの裏のヤマダ電機に立ち寄ってiPhone用のアクティブスピーカー(マクセル)を買った。郷里ではJBLのを使っているのだけど、東京でもiPhoneの音源を聞きたいなと思っていたので。スピーカー黒にしないでもいいのになと思った。デザイン的にはもう一つ納得が行かないものがある。ステレオ効果はこの方があるとは思うのだけど。

maxell ipod iphone対応 アクティブスピーカー ホワイト MXSP-1200.WH
日立マクセル

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by Luke Peterson

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