ニーチェ『悲劇の誕生』を読みながら「自分にしか書けないこと」について考える
Posted at 12/02/10 PermaLink» Tweet
どんな人間でも弱いところやいやなところはある。若い頃はそのことを気にし過ぎるのだけど、あんまり気にし過ぎることはない。人が書いた円には微妙なでこぼこがあるけど、微妙にでこぼこがあるおかげでその線はあたたかくなる。そのでこぼこにこそ、人が生きているということの何かがあるということなのだろう。完全な、というお仕着せにはまりきれないところにこそある生の息吹。そこに精進が積まれて行くと、完全な円ではないのに完全な円以上の円が描けたりする。人柄とか人格とかいうのも同じで、完全な人格を目指してもどこか冷たい、お仕着せの、融通の利かない、というようなものになってしまう。ニーチェが言ってることとカントが言ってることの違いとかは、たとえばそんなところにあるのだろう。
悲劇の誕生 (岩波文庫) | |
フリードリヒ・ニーチェ | |
岩波書店 |
『悲劇の誕生』を読んでいると、ニーチェの言ってることってすごく面白くて、今まで読んできたいろいろな本の、思想的な源流がここにあるのかなと思ったりする。ニーチェは何というか少し気負い過ぎなところがあって、そういう意味である意味完璧主義に陥っている気がするんだけど、でも言っていること自体の持つ可能性というのはすごく広いし大きい気がする。
カントのようなドイツ観念論の伝統、それはソクラテス以来の主知主義と科学と道徳をメインに据えた理性の哲学の延長線上にあるわけだけど、それは例えば孔子や孟子以来の伝統的な儒教哲学にもたとえられる。それに反発して出てきた陽明学が知行合一をいうのは、知=理性だけでなく、実践が知を伴い、知が実践に伴っていなければならないという教えになるわけだけど、これはある意味すごく危険な思想で、正しいと思ったら実行しなければならないという大塩平八郎的なことになってしまう。まあ私の見方かもしれないけど結局実践が知に従属しているように見えるし、極端な信仰を持つカルトや極端な思想を持つセクトが飛んでもないことをやってしまう原理に結び付いてしまう。ある意味原発推進派的な考え方もある種のカルトで、ここで立ち止まってちゃんと議論して将来を決めようみたいなところがない。まあ反原発派もまたある種の陽明学的的なカルトのようにも見える。そういう意味ではどちらもどっこいどっこいだ。
知と実践の乖離をなくすという思想はそういう意味で昔から嫌いで、しかしその思想を奉じている人たちはある意味魅力的な人もそれなりにいた。まあカルトやセクトにはまる人はある意味純情な人が多いし、その思想を実践しているという喜びにキラキラしちゃったりしているので辟易はしてしまうのだけど。若い頃はそういうのがある意味羨ましく、「私も馬鹿になれたらいいのになあ」と思ったりしたこともある。
まあそんなのは不遜な言い方だし、今ではある意味笑い話なのだけど、(ある意味と何回書いているかな。でも何かある意味と書かずにはいられない。読む人読む人で意味づけが変わってしまうかな。いや、あんまり変わらないだろうと思ってそう書いているのだけど)その頃は本気でそう思っていた。そう思うことってないかな?なんていうか、鼻をつまんでまずいものを食べたり、どうにでもなれと思って水中で脱力してみたりしたら、案外食べられたりちゃんと浮いたりすることもある、みたいな感じ。「やけくそ」と「身を捨てる」ことのどちらになるのか分からないまま自分を投げ出してしまうような感じ。でもやっぱり馬鹿にはなれないんだよね私は。信じられないのに信じたことにして行動するのはやっぱり無理だ。
そんなことが何度もあって、知行合一的な考え方というのはずっといやだなと思っていた。ああそうそう、革マル派にオルグされそうになったときも向こうが来るのは同じ論理だったな。ああそういえば英会話教材を押し売りされそうになったときも同じ論理だった。あいつらの使っている論理は何が正義か議論して説得して、相手がしぶしぶでも同意したら行動しなければ本物じゃない的な論理で正義と行動をセットにして売りつけるやり方なんだよな。そういえば宗教の勧誘も似ている。そういうのは嫌いなんだが、相手がちょっと魅力的だったりすると、危ないかなと思っても美味しいところだけかすめ取って危険は切り捨てようと図ったりするような、綱渡り的な冒険に挑んだりしてしまう。まあなかなかおいしいところだけとるというわけにはいかないが、これが釣り針だなと思ったら結局断固としてその場を去る、ということで難を逃れるみたいなことの方が多かった。職場で納得のいかないイヤな仕事を押し付けられそうになったときも無理やりそれを避けたことがあるのだけど、それをやって人間関係を崩壊させてしまって、結局最後まで修復しないうちにばかばかしくなって退職してしまった。日本の職場ってそういうことが多いんじゃないかという気がする。
ああ何か話がずれたけど、ニーチェの言う「生の哲学」というのは本当に魅力的で、生が知に制限されてはならない、ということがその主眼なんだよな。むしろニーチェは知が優位の西欧哲学の伝統をひっ繰り返して、生が衰えたからこそ知に頼る弱さが生まれ、知が生を蝕むようになってしまったのだと言っているわけだ。だからこそ知――キリスト教が主にやり玉に挙がっているわけだが――は「生」に対し、恨みを持ち、復讐心に燃えている、という。それを「没落への意志」と言っているわけだけど、まあなんというかこういうのついニーチェがキリスト教に対しそういう敵愾心、復讐心を持っていて、それが投影されているように見えてしまうのがいけないというか、つい滑稽な感じがして、まあそのあたりが肩に力が入っているように見えるのかもしれないなと思う。
とはいえ面白いと思うのは、生が衰えたからこそ知がのさばってきた、という考え方で、これは何となく自分史的に考えてもそんな感じがする。元気のいいときはあんまり知のことは考えてない。でも何かを突破しなければならないときを含めて生がぎりぎりの状況におかれているときには、知に頼ろうとする傾向はある。というか強い。考えて何とかしようとしている、と言えばいいか。考えて何とかなることなんて、まあ日常生活にはいっぱいあるが、本当に大事なことに関してはあんまりない気がする。考えても何ともならず、心とかがどこか理性の分からないところで検討した結果がポンと出されて、全くデルフィの神託みたいなものなのだが、ああそういうことだなあと思ったりするわけだ。
では衰えてないときは生はどのように活動するのか、と考えたのがこの『悲劇の誕生』なのだが、要するにペシミスティックな悲劇芸術はむしろ生の横溢から、快感から、力から、健康から、充実から生まれたのではないかというテーゼを提出しているわけで、これはなるほどと思う。普通はペシミスティックになるのは世をはかなんでいるからだと考えるわけだけど、大きな悲劇が書かれた三大悲劇詩人の時代はまさにギリシャの「坂の上の雲」の時代であって、ユーミンで言えば『14番目の月』、欠けたることもなしと思へば、という時代なのだ。この時代に素晴らしい悲劇が書かれたということは悲劇は決してセンチでペシミスティックな頽廃ではない、というニーチェの主張はなるほどと思うわけで、アポロン的な明朗さの裏にはディオニソス的な情念があったという話につながっていく。
つまりこの話は、「天才は努力を発明する」みたいな話で、有り余る生のエネルギーがつぎ込まれた芸術こそが悲劇なのであり、それは生の祝福に他ならないと言っているわけだ。そして生きることは決して単なる幸福ではなく苦しみなのであって、(この辺は仏教と同じことを言っているが諦念にはいかない)その充実と過剰の苦しみ、自分の中にひしめいているさまざまな対立の悩みから自分を解放する手段が世界を創造すること、すなわち芸術なのだ、というわけだ。
仏教だと人生は苦だという真理を述べたあとでそれを克服するためにはその真理を知り、それを滅し、正しい生き方をしろ、という話になるわけだけど、ニーチェさんは「創造せよ!」と咆哮しているわけで、まあ私にはそっちの方が面白いし楽しい。物事を判断するときに、面白いし楽しい方が正しいんだという、いうならば生理的なテーゼを支持しているわけなのだけど、正直言って正しい生き方をしているだけでは私は絶対救済されないなと思うから、まあそんなもんだろうと思っている。
何というか最近、「自分のやるべきことと」か、「自分にしかできないこと、自分にしか書けないこと」について考えるようになっていて、つまりたとえば「自分の使命」みたいなことなわけだけど、それは一体何なんだろうと考えたりしている。
というのは、書くときにはなるべくポジティブなことを書こうというのがものを書く上での私の方針みたいになっていたわけだけど、何というか最近行き詰ってきたというか、特に創作の上でポジティブなことを書くことにすごく限界を感じ始めたというか、書いていても面白くないしだいたいストーリー的にも思いつかず、支離滅裂なものになってしまったりする。そうすると「自分にしかできないこと」というのはポジティブなことをポジティブに書くことではないなと思ってちょっと嫌になっていたのだった。自分にしか書けないものとは、ネガティブなものなのではないのだろうかと。
そういうことを昨日考えていて、ツイッターでも「俺でなければ書けないものなんて書きたくないな」なんて言ってみたりしたのだが、そう言ってみてからそれはどういう意味なんだろうということを考え始めたのだった。つまり、上に書いたように自分は、自分にしか書けないものというのは、何かしらネガティブなものなんだ、というふうに感じているということなんだなということになる。そう考えてみると思い当たるフシがたくさんあるというか、私は人のネガティブな面というのがものすごく目につく人なのだ。つまり人のイヤなところ、弱いところがすぐ見えてしまってイヤになるというか、なんだか粗探しをしているような気がしてしまうのだ。人のネガティブな面が見えずにあっけらかんと気楽に付き合える人って羨ましいと思ってしまうし、まあそれは前に書いた「バカになれたらいいのに」的な感じに繋がる。っていうかこういう話になってようやく今日の書きだしに戻ってきたわけだけど。
つまりまあ「私にしかできないこと」、つまり自分の使命というのは、人のネガティブな面とか、イヤな面とか、弱い面とか、そういうことを書くことなんじゃないかと思うという話なのだ。なんか考えただけでもめんどくさいし気が滅入る話なのだけど、今朝考えていて、まあそうならそうで仕方がない、と一度腹を括ってみた。
でもまあ考えてみると、人のネガティブな面がわかるということは、それをどうやったらポジティブに持っていけるかということを考えられるということだし、まあ実際無意識のうちにいつもそんなことばかり考えているわけで、そういう解決法付きであれば、ネガティブであればあるだけ、酷ければ酷いほど、その書く内容は誰かしらの救いになるということではある。まあ人にものを教えるというのはそういうことなのかもしれない。人はネガティブな面があるからそれを変えよう、それを克服しよう、それをポジティブにしようと思うわけだから、ネガティブな面がなければ成長などしないわけだ。人の成長に関わる仕事をしたり、成長に関わることを書くのだとしたら、人のネガティブな面についてもしっかり書けなければならない。
人が、書かれた人、描写された人間について読んで、「自分と同じだ」と思うのはどういうところかというと、ポジティブな面よりもむしろネガティブな面だろうし、またネガティブな個所をどう乗り越えようとしているか、あるいは過去どうやって乗り越えたか、というようなところに共感を覚えるのだと思う。またネガティブな面についても、ここは気にしなくていいんだとか、ここは取り組むべきなんだとか、そういうことがわかるだけでも何かその文章を読んだ意味があるということになるだろう。まあそんなふうに考えてみると、人のネガティブな面について書くということは、決してネガティブなことではない。ネガティブを克服するための契機を与えるという意味で、ポジティブそのものなことになる。
人のネガティブな面を書くと言うと文学的リアリズムみたいな話になる、というか田山花袋『蒲団』みたいなねちねちした自然主義的リアリズムが反射的に思い起こされるわけだけど、まあ私の書きたいネガティブというのはそういうものではないなと思う。やっぱり基本美しかったりきれいだったり力強かったりたくましかったりするものを書きたいと思うし、そういうものが作れないと生きている価値がないなと思う。
ああ、だいぶはっきりしてきたな。まあ、今までそういうことにトライ出来なかったのは、人のネガティブなことを書こうとすると下手をするとその毒にやられてしまうということを恐れていたからなのだけど、まあそれこそ虎穴に入らずんば虎児を得ずということで、危険を十分に警戒しながら毒を軽快させる解毒剤をつくっていくべきだろう。体力も時間も要りそうだが、そう言った方向で考えて行くというものなのかなと思ってみたりしたわけだ。
つまりまあ、『悲劇の誕生』を読んで、そういう一見ネガティブなペシミズムをもった『悲劇』は生が横溢した時代にこそ書かれたものだということを読んで、たぶん自分もまたネガティブの泥沼から脱してだいぶ力を回復してきたからこそそういうことを考えるようになったんだろうなと思ったということなわけだ。
ということで今日の一席はここまで。明日0時にブクログのパブ―で『大聖堂のある街で』第2話「リカ」を公開の予定。こちらをチェックしてね。
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