人が物語を好むのは、人が心の中に闇を抱えて生きているからだ

Posted at 12/02/01

【人が物語を好むのは、人が心の中に闇を抱えて生きているからだ】

C・S・ルイスの秘密の国
アン・アーノット
すぐ書房

アン・アーノット『C.S.ルイスの秘密の国』(すぐ書房、1978)読了。前言撤回。面白い本だった。どうも最近日本では、最初のつかみばかりで読ませてしまう本ばかりが売れてしまうせいか、読んでいるうちにだんだん面白くなってくる本というのは読むのが大変になっている感じがする。この本もまさにそういう感じで、最初は本当にもう読むのをやめようかと思ったのだが、アマゾンの内容紹介で

「ナルニア国ものがたり」の作者ルイスは、幼いころ母を亡くし、妻の死を嘆くだけの父には見放され牢獄のような少年期を過ごした。そういう中で束の間の喜びを味わい、学者・作家としての人生を見つけた貴重な時期を描く。

とあったのを読み、「牢獄のような少年期」とか「つかの間の喜び」という言葉を読んで、私の少年時代と通じるものがあるのではないかという気がむらむらとして来て結局読むのを再開した。そしてある意味、その予想は当たっていた。

何度も書いているけれども、主に中学生時代、私は鬱屈した少年期を過ごしていて、本当に牢獄の中にいる気持ちで毎日を過ごしていた。ルイスにとってはそれが母の死後送り込まれた寄宿学校での生活の時期に当たるようで、そのあたりの「生活の闇」が心の中に織り込まれて「心の闇」になってしまうその感じが、すごく実感としてよく分かった。そしてそういう生活の中で『美しいもの』に出会う。私はこの時期に音楽や美術の魅力に出会い、歴史やファンタジーに沈潜する楽しみを覚えたけれども、ルイスは「はげしい雷雨、校舎のまわりに渦まく霧、こおりつくような霜と雪の厳冬。背の高い窓のまえに立って、ぞっとするほど美しい満月を、呪文にかけられたように見守ったことも、いくたびかありました。」というような自然の美しさの中にかけがえのない美、喜び=ジョイを見出して行く。そしてその「喜び」がどこから来るのかについて何十年も考え続け、ついには「神」を見出すことになる、というストーリーがある。

私がこれを読んで思ったことは、こういう激しい美しさに出会うためには、こういう牢獄のような闇を知らなければならないのではないかということで、私が『ナルニア』の世界をこの上なく素晴らしいものと感じていたのも、このルイスの「心の闇」に私の「心の闇」が反射して共鳴して乱反射したのではないかと感じたのだった。

もう少し話を進めると、人が物語を面白いと思うのは、人が心に闇を抱えているからなのではないかと思ったのだ。人が光を感じられるのは、心に闇を持っているからではないか。人が美を感じられるのは、心に牢獄を抱えているからではないか。光の中に人が生きているとしたら、光は当たり前のものであって、特に喜びにはならないかもしれない。喜びがあるのは、人が生きる辛さを抱えているからで、物語が面白いのは砂を噛むような日常を知っているからではないかということになる。

もっと言えば、人が神を感じられるのは、人が地獄を心の中に抱えているからなのではないか、というふうに言ってもいいのだが、まあとりあえずそこまでは言わない。

そういうわけで、私の中の美しいものを感じた時を振り返ってみると、やはり自分自身が辛いときに出会ったものの美しさは、刺すような強さと激しさを持っている。とくにそれが少年期の感受性と合致すると無限の大きさを持つ。雨の激しさ、太陽の強さ、野犬の凶暴さ、暮れていく森の底しれぬ怖さ。そういうものの大きさ、激しさ、強さ、崇高さのようなものは、心の闇の部分と共鳴して増幅し、心に刻みつけられたように思う。

心が闇であるが故に神を感じられるのだとしたら、神はそのために人の心に闇を作ったのかもしれない。とかなんとか。

美を知るためには、人間的な苦悩が必要だ、みたいなことは『ピアノの森』にも描かれているのだけど、美にしろ喜びにしろすべての美しいもの、素晴らしいものは闇の中にある人間の神への契機である、みたいな感じでルイスはとらえているのかなと思えたし、それはすごくわかる部分があるなと思った。

もう一つ、神は人格神なのか非人格的な存在なのか、という問題についても考えさせられた。まあ色々な経験から、特定の宗教で言う神がいるかについてはよくわからないが、神みたいなものがいるのではないかと私は思っていて、でもそれがどういうものなのかについては、不思議なことにいままで特に深く考えようと思ったことがなかった。しかしまあルイスはそういうことについてすごく真剣に考えていて、それを読んでいるうちに、自分自身もいろいろ考えるようになっていた。

人格神というのはどうも考えにくいから、神と言ってもどちらかというと「原理」や「法則」みたいなもので人格はないんじゃないかと思っていたのだけど、宇宙に何かの方向性があるとしたら(エントロピーの法則とかでもいいんだけどあんまり科学的なことを持ちだすとニセ科学っぽくなってあんまり感じがよくない)それは意志と表現することができ、そう表現できるとしたらそこに人格のようなものが感じられる、というふうに考えると神は人格があると考えることもできる。まあ光のように粒子でもあり波でもある、みたいな感じでとらえてもいいのかなと思ったり。「粒子=人格、波=法」則的な感じで。

ルイスは福音書を読んで、北欧やギリシャやケルトの神話とくらべたりしているうちにキリスト教の神にリアリティを感じ、自分の思考の中に神の意志の反映を観たりするようになったという経緯は、今までそういう「回心」について書かれたものを私が読んできた中で一番リアリティを感じた。そうしていままで無上のものに感じていた美=ジョイ(喜び)というものも神を指し示す「道しるべ」に過ぎなかったと感じるようになって、関心を失っていくという感じもよく分かった。つまり「美」というのは「月をさす指」に過ぎないという禅が言葉について言っていることと同じことをルイスも言っているわけだ。

こういうことを私にとって分かりやすく言ってくれている本というのはいままでほとんど読んだことがないので、読んでいるうちにどんどん面白くなってきたのだった。

こういうことを考えながら『ナルニア国ものがたり』シリーズを思い起こしてみると、本当はすごく複雑な陰影に富んだ、また一方で光に満ちた物語なのだということが改めて感じられる。そしてそれを面白いと感じた私自身もまた、こうした複雑な陰影に富んだ光に飛んだ世界をよりよく感じられるようになったんだなあと思ったのだった。

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