父の論文集を校正しながら思ったこと

Posted at 12/01/26

一昨年亡くなった父の論文集の校正をしていて、いろいろなことを考えた。

父は昭和9年生まれで小学生で終戦を迎え、新制中学の一回生にあたる。かなり早い時期から人類が幸福で平和になるためにはどうすればいいのかということを考えていたらしい。多分、そういうことを考えた人は、当時は少なくはないと思う。そしてそれぞれ共感できる思想を持ったり、運動に参加して行ったりしたのだと思う。

当時一番人気のある思想はマルクス主義だった。父もかなり共感した部分があったようだが、暴力革命主義の部分にどうしても引っ掛かりを感じたらしく、60年安保闘争に参加した時に国会で暴力的な対立(というか機動隊による排除)の中でぐちゃぐちゃにされて、「こんなのはだめだ」と思ったと後年言っていた。

結局どんな思想を持っても、どんな社会を実現させようと思っても、個々の人間が成熟し、大人にならない限り悲惨な状態は続く、と考えるようになり、大衆の個々がいわば悟りを開いた社会でなければ理想社会は実現しないと考えるようになった。乱暴なまとめだが。そこで行き当たった思想がKJ法創始者川喜田二郎とヤマギシズム運動の提案者山岸巳代蔵の思想だった。彼らのアプローチはそれぞれ違うが、川喜田は地理学という現場から思考の整理法・発想法であるKJ法を創出し、問題構造の全体を俯瞰し理解することと問題解決の手段を発想することを定式化する方向性に道をつけた。また山岸の活動はいわゆるコミューン運動に位置づけられるが、彼は具現化方式、具体的に言えば養鶏業という共同体の経済的自立手段を持っていたため、さまざまな共同体の中である種とびぬけた成功を一時的におさめることができた。

父はKJ法を学びつつ山岸会の運動に(家族ごと)飛び込んで、一時はかなり中心に近い位置で活動したこともあるが、10年弱でその中心からは離れ、実家に帰った。しかし父は理想は持ち続け、山岸会やKJ法に関する著作を書き続け、またKJ法学会などでの発表を続けた。そしてそうした活動に興味を持った若い人たちを集めてさまざまな活動をしたり、教育活動へのKJ法の応用の実践などにも協力というか共同研究的に参加していた。またその両者の思想の根源を探るという意図だろうと思うが、初期仏典の『ダンマパダ』のKJ法を用いた共同研究を行ったりもした。

そういうわけで父の書いた文章は膨大にあるのだが、結局生前は書籍としてまとめ出版するに至らなかったため、父の死後主に母が中心になって論文集を編纂することになり、ようやく校正の段階までたどり着いたわけだ。

そういうわけで私は多感な少年期・青年期(小2~高2)を運動体の中で過ごしたため、さまざまな鬱屈というか屈託を抱え、自分でも正体をとらえきれないさまざまな思いを長い間抱えることになった。

実際のところ、今論文集のゲラを校正していて、久しぶりに父の文章を読んだのだが、父の情熱がまっすぐに伝わってくる。山岸会という運動体は、というか運動体というものは何でもそうだと思うけれども、唱えている主張や高邁な理想と中身というか実態というかその運営状態というものは相当違うものだ。わたしは幼少期にそういう経験をしているために運動体というものは全然信用できないのだけれど、まあ私が感じた鬱屈や屈託というものとは別に、父が燃えていた理想はこういうものだったとか、父がそうした運動体に見ていた理想というものはこういうものだったんだなということを父の筆によって追体験したように思った。

まあ正直、それも今だからということでもある。17歳でそこから離れ、いま49歳だから32年経ってようやくこういう場でも書けるくらいの気持ちになったと言えばいいか。まあ読んでいただいているほとんどの方には理解できないことが多いと思うのだけど、正直言って校正しながら私でなければこの論文は理解できないし、理解できなければ正確な校正もできないなと思うところがたくさんあって、そこはなんだかちょっと悔しいというか、主観的には酷い目にあったのに理解してやれるのは自分だけというのではちょっと勘弁してくれよと思いたくもなる、という感じがした。

もちろん過去の同志の人たちの中には部分的にはもっと深い理解ができるという人もいるだろう。しかし実家に戻った以後の父の活動や父の読んだ本(それが著作に反映されているわけだから)について、つまり父のありようのさまざまな角度から「こういうことを書こうとしていたのだろう」「こういうことが表現したかったのだろう」ということが一番見当がつくのは、結局は私なのではないかと思わざるを得ない面がある。大変迷惑なのだが、父と子と言うものはそういうものなのかもしれないと思う。

実際、校正という機会でもなければ(時間が限られているために私も手を出さなければ間に合わないということもあって)まともに父の文章を読んだりしなかっただろうなと思う。しかしそれらを読むことで自分自身の未解決になっていたところが少し腑に落ちたというか、理解が進んだということもあるので、まあよかったんだろうなと思う。人は親を選ぶことができないというのは全く真理で、求めるものが違うのに性質が似ている部分が多いというのは全く疲れることだ。

本にアンダーラインを引くときにどうしてるか、と聞いたとき、一字もずれないように正確に引いている、ある一字にラインを引くかどうかをゆるがせにせず、引きすぎたと思ったら必ず消している、と答えたことを思い出して、校正のときにも論文に引かれているアンダーラインを正確に見なければいけないし、またその引き方にも父の表現があるんだよな、と思ったりした。

理想社会を実現するための思想というのはやはりなかなか地に足がつきにくい考え方で、私が読んでいても後期になればなるほど夢想的というか「そこから話をはじめるか?」と思うような文章が増えているなあと思う。まあ言いたいことは(私なら)わかるんだけど、というような。逆に言えば運動そのものを総括したり批判したり、あるいは人間が変わるときには心の中で何が起こっているのかを武谷三男や市川亀久弥を援用して解明しようとした論文などはけっこう面白い。

特に現代社会論などは西洋史を専攻した私などから見れば不備だらけで、いったい誰を説得しようとしているのか分からないというか、父が学問の現場にいた昭和20年代から現代までの間に形成されてきた学問的常識の基盤のようなものがきちんとできてないために昭和40年ごろの人なら説得できても現代人はなあ、という感じになってしまう。

しかし正直言って、私が90年代に西洋史の大学院に行ってた頃、学会で基調講演を行った70歳くらいの京大の学者の発表を聞いていても、もう現代の西洋史学の流れからは完全にアウトオブデートになっていて、ある意味痛々しいものになっていたから、こういうものは本当に一線でついて行くということはそれだけに専念していないと無理なことなんだなと思う。

逆に言えば学問より現場の実践を重視し、特に幸福社会実現の理論なんていう持ち場のはっきりしない(哲学だけでも社会学だけでも歴史学だけでも工学だけでも法学だけでも医学だけでも宗教学だけでもだめだしでもどれも必要みたいな)ものを追求しようというのは単独でやろうとするには全く無理のあることだなと思う。私は私としてこういうものを読んだらいいのではないかとか、今アカデミズムで問題になっているのはこういうことだとか、いろいろ紹介はしたのだが、どうも何というか学界の空気というもの自体に無頓着で、けっこう俗流というか素人目を引きやすい人に注目してしまっていてそういう人に付き合っていても無駄なんじゃないかなと思うことが多かった。

まあ読み直していて気がついたのは、第二次世界大戦後の世界体制、つまりブレトン=ウッズ体制とか自由貿易の推進によってブロック経済化を防ぎ平和的安定をもたらすという試みについての評価がないということで、マルクスから出発した人の発想というか、現代資本主義体制の評価が思考体系に組み込まれていないのではないかということだった。現代を米ソ冷戦のみでとらえてしまうと冷戦体制崩壊によってすべてが変化した、よくなった(あるいは悪くなった)と思ってしまうのではないかと思う。そうなるとやはり現代社会の理解はかなり薄くなるし、説得力も持ちにくくなる。まあその部分は父にとってはおそらくは枝葉末節の部分だと思っていたのだと思うが、変えるべき対象である現代世界を的確に評価するという視点が不十分であることは否めないと思った。

まあ色々念仏のようなことを書いたが、自分にとって大事なものを確認できた部分もあり、まあ校正だけでも携わってみて良かったと思う。父の論文は正直見るだけでいらいらした時期が長かったから、そういう意味では私自身前に進むことができる部分もあるなあと思ったのだった。

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