佐野眞一『あんぽん』を読んで孫正義にシンパシーを覚える
Posted at 12/01/18 PermaLink» Tweet
孫正義の伝記、佐野眞一『あんぽん』(小学館、2012)読了。いろいろな意味で大変面白かった。
あんぽん 孫正義伝 | |
佐野眞一 | |
小学館 |
孫という人は元在日朝鮮人であるということは知っていたが、あの明るい前向きなキャラクターからわりと恵まれた育ちだったのではないかと思っていたのだが、実はかなりすさまじい環境の中で育ってきたのだということが最初に印象に残った点だった。「(孫のいとこである)大竹仁鉄によれば、孫正義は朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ立て小屋の中で、膝まで水に浸かりながら、必死で勉強していたという。」このフレーズは衝撃力がある。情報革命の牽引役であり、日本最高の金持ちであり、今や脱原発の旗手でもある孫正義の出発点がこういうところにあったというのはすごいことなのだが、そうでいながらこれだけのことを実現してきた、そのこと自体に彼の比類のないパーソナリティーがあるのだと思った。そういう意味で、このフレーズほど彼の人となりを説明する言葉はないと思った。
彼の明るい、ガッツはあるが決して粗野でない物腰からは想像できない、在日が語られるときによく出て来る梁石日『血と骨』的な血と暴力的なエピソードには事欠かないのだが、著者でありインタビュアーである佐野眞一はいわゆる団塊世代的な感性からそれをすごく面白がっていて、またそういうエピソードを好んで収集しているように思われる。インタビューで聞きだした話がどこまで本当なのか眉唾的なところもあるが、随所で矛盾するそれぞれの人の証言が事態の立体性を表していて、何というか手法としてそんなに好きなわけではないのだけど、この題材にはこういうやり方でやっても対処できる、というか題材そのものが面白過ぎる感じがあった。
著者の佐野の思想というか世界観がときどき語られているのだけど、それにもあんまり賛成できないところは多いが、最初は孫の「いかがわしさ」を強調していた彼の筆致がだんだん彼を取り巻く人々の底のしれない魅力のようなものにとらえられて行く感じが読んでいて面白いと思った。このドキュメンタリーのもう一人の主人公は明らかに孫の父親である安本三憲で、彼の突出したパーソナリティーがこのドキュメンタリーにアクティブでアグレッシブでバイオレンスな雰囲気を与えている。最後まで孫の母親はインタビューに応じなかったようだが、それもまたリアリティーが加わって興味深い。
19世紀終わりの韓国から20世紀の在日朝鮮人の置かれた状況をたどる筆致はわりとすんなりとは言って来る。私は在日朝鮮人のものをそんなに読んだことがあるわけではないが、『ユンボギの日記』だとか『にあんちゃん』だとかは小学校のときに読んでいたし、同和教育の副読本『にんげん』などは誰に言われることもなく読み耽っていたので(だからと言って人権意識が発達したわけでもない、どちらかというと赤裸々な人間を描いた物語としてそういうものを読んでいたのだと思う)大阪の話が多いなと思っていたのだがいまWikipediaで見ると大阪府教育委員会が採用しているということを知ってそうだったのかと今更思っていたりする。
まあそういうバックグラウンドもあることもあって、そういういわゆる「劣悪な環境」の話は私はすんなり読めたが、苦手な人は苦手かもしれないなと思う。私にとってそういう環境というのは「事実」に過ぎなくて、悲劇であるとか呪詛であるとかのことばとあまり結びつかない。しかしまあそういう事実を知らなかった人には衝撃的・悲劇的に読めるだろうし、実際そういう環境にいた人には思い出したくもない描写に読めるだろう。その中でまっすぐに伸びて親の経済的成功とともに進学校に進み、高校を中退してアメリカに留学して情報革命の旗手となるというシンデレラストーリーをつき進んだ彼を、作者の佐野がそういう過去があるからこそ未来をのみ見つめて進んでいる、と見ているのはなるほどなと思うところはあった。
しかしその「過去を振り返らず未来をのみ語る」という姿勢が孫という人の「いかがわしさ・胡散臭さ」の原因だ、ということも言っているわけで、まあそれはそれで言いたいことはわかる。ジョブズもそうだが、孫も「普通の幸福な」子ども時代を送ってはいないし、もとより双葉より芳しい栴檀(つまり天才児)であって普通の子供ではなかった。最近ネットでの成功者の経歴を読んでいると、けっこう多くの人がそういう類型に当てはまることに気づいた。しかしその中でもジョブズと孫は飛びぬけているわけで、ジョブズは死ぬまで、孫はいまのところずっと、堀江貴文などとは違いトップを走り続けている。やはり根本的に前向きで明るいキャラクターというか、堀江のようにどこかに影があり、斜に構えたところがあるキャラクターでないところが強さなのかなと思う。ジョブズの伝記の半端でないニューエージぶりも面白かったが(まだジョブズの伝記は上巻終わりごろのピクサーのところなのだが)、孫は親戚中半端でない人ばかりでそのあたりが明るい方向に集中すると彼のようなキャラクターになるのかなと感じさせられた。
韓国の氏族制で言えば彼は一直孫氏(ないしは安東孫氏)というそうで、彼が日本名「安本」という制だったのも「安東」からとられているというのを聞いてなるほどと思った。そういう韓国の社会制度のようなものも少しは知ってはいたがその内実のようなものが垣間見られて面白かった。いまでも孫正義は彼ら一族の誇りであり、ぜひ「里帰り」してほしいと熱望されている。それに対して孫も彼の父親もまあ冷たい反応なのだが、そのあたりは氏族制を維持してきたことに誇りを感じる在韓韓国人と、自分の力一つで叩き上げた在日韓国人の氏族に関する意識の違いなのかなというふうに思ったりした。気風も文化も一致せず、在日韓国人は韓国で差別されることが多いというのはどうしてなんだろうと思っていたが、この本を読んで何となくわかる気がした。
いろいろな意味でこの本はとても面白かったし、孫正義という人間そのものにすごくシンパシーを覚える部分があったし、ずっとその活動を追って行くと面白そうだと思うところもあった。やはり自分にとってこの本は、「朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ立て小屋の中で、膝まで水に浸かりながら、必死で勉強していた」少年のイメージに熱いものを感じずにはいられないという本なんだなと思う。
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