短編が読みたいとき/長い長い集中/人間の物理的な部分

Posted at 12/01/07

【短編が読みたいとき】

どんなときがそうだと断言するのは難しいのだけど、短編が読みたいとき、というのがある。がっつりと長編に取り組むのはかなり意識的なことが多いのだが、もちろん気分として長編を読みたいときもある。しかし短編の場合は、さて読むぞと気構えをして短編を読むことはあまりないのではないかと思う。少なくとも私の場合はない。何となく何か読みたいのだけどあまり長いものはごめんだ、あるいは長編の一部のようなものも重くてあまり読みたくない、というときがある。そういうときには長編の伝記や哲学書ではなくて、短い作品や少ページのマンガ、あるいは気取らないインタビュー本などを読んだりするのがちょうどよかったりする。そしてそういうときに、短編や軽めの本の思いがけない面白さを発見することがある。

私はいま並行して哲学書の東浩紀『一般意志2.0』と長編の伝記『スティーブ・ジョブズ』ⅠⅡ、を読んでいて、そのほかにも笹本恒子『好奇心ガール、今97歳』を読み終わったところで、岡野玲子『陰陽師 玉手匣』1を何度か読み返し、モーニングの連載、つまり長編の一部の『デラシネマ』や諸星大二郎『西遊妖猿伝』のスピンオフ作品『逆旅奇談』、松尾スズキ・すぎむらしんいち『老人賭博』のことを考えたりしていたのだけど、今日は土曜日のせいか少しのんびりして、そういう長いもの、重いものの続きを読んだりそれについて繰り返し考えたりするのが億劫になって、本棚から心の赴くままに手に取ったものを読んでみたらそれが案外面白かった。

うたたね姫 (ビームコミックス)
宮田紘次
エンターブレイン

ひとつは宮田紘次の短編集『うたたね姫』の中の一編「蛇腹」。これは腹の中に蛇を飼っていた女が、それを追い出すためにタバコ好きの先生と寝たら蛇を追い出せて、それ以来ずっとタバコを吸ってるんだよ、という話。宮田の作品はノリが合うものと合わないものがあるのだけど、これは面白かった。それにしても宮田は「ききみみ」とか「うたたね」とかひらがな4文字が好きだなと思ったがそれは蛇腹ではなく蛇足。

【長い長い集中】

小澤征爾さんと、音楽について話をする
小澤征爾・村上春樹
新潮社

もう一冊は買ったまま放置してあった小澤征爾・村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社、2011)。プロの音楽家と音楽を聞きこんでいる鑑賞専門の小説家の対談というか形としては小澤に対する村上のインタビューというものだけど、村上の音楽に対する造詣の深さというのも驚くが、小澤の口調が普段音楽家という人たち、指揮者という人たちがどんな感じで音楽について話しているのかが窺えて、とても面白い。これは短編というのとは違うが、気分としては「軽い」本だ。深く深く、奥へ奥へと創作と探求を続けている二人の、そのことについてくつろいだ気分で語り合っている、そういう本だ。

全6回のインタビューのうちまだ第1回しか読んでいないのだけど、私がイメージとして一番鮮烈に残っているのは「始めに」の中で村上が、無理を押してでも舞台に立ち、指揮棒を振り続ける小澤についてこう書いている部分だ。

「簡単に言ってしまえば、この人はそういうまっとうな考え方を超えた世界で生きている人なのだ。野生の狼が深い森の奥でしか生きられないのと同じように。」

このイメージは鮮烈なのだが、こういうイメージの使い方は時として鼻につくことがあり、そういう「鼻につく感じ」が村上春樹が往々にして敬遠されがちな理由だろう。また村上を好きな人がこういう「臭み」が好きな人が往々にしてあったり(ラーメンのかん水の臭いを好む人がいるのと同じ理由だ)、村上のエピゴーネンの書く小説が臭みえぐみに満ちていることもまた村上の小説が不当に低く評価されている理由になっているように思う。

しかし村上のこの記述がどうしても真摯なものとしかとらえられないのは、村上自身がやはりそうした深い森の奥でしか生きられない狼のようなところがある、ということが感じさせられるからだ。小澤が「楽譜を読む」ことに長い長い集中を持続させ、それ自体を喜びとするのと同じように、村上もまた小説を書くことに長い長い集中を持続させること自体が喜びなのだ。その行為への長い長い集中が、深い深い海へ潜ることを可能にさせていて、たぶん村上とそのエピゴーネンとの本質的な差異はその長さと深さにあるのではないかと思う。長い集中を持続させて深い海に潜ることは紛れもない喜びであるのだけど、それは同時に生命の危険すらものともしない危険な行為でもあるわけで、その微妙なバランスの中でしか生きられないのが真の探究者であり創作者であるのだと思う。その物理的な立ち位置が、村上の言葉が決して洒落ではなく、また臭みでもなく、真摯なものである理由なのだと思う。

短編について書いているうちに長編的なものに取り組む創作者たちのことについて書くことになってしまったが、人にはやはり「短編的なもの」が上手な人と「長編的なもの」にその真価がある人とがあるのだなと思った。それは優劣ではなく、人間のタイプの問題だ。もちろん短編的な人が長編に取り組んだ時の思いがけない深さや、長編的な人が書いた短編の目の覚めるような本質性もまた捨てがたいものではある。

【人間の物理的な部分】

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
東浩紀
講談社

立ち位置の物理性ということについて書いたけれども、これは東浩紀『一般意志2.0』における、欲望や無意識、一般意志といったものの物理性という議論にいまかなり触発されているからだ。普段私がものを考えることの参照枠の一つにしている野口整体の考え方も、そう考えてみると実はそういう意味での物理的な部分に依拠しているところが大きいのだなと思う。人間の物理的な部分について考えてみるとすごく面白いし、かなり深いところまでいけるのではないかという気がしている。村上の小説の強靭さを支えているのは、実はそういう意味での物理性を冷たいまでに見切っている部分なのではないかというふうにも思った。

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