スタンバイの思想―いつでも動ける状態の美しさ:『人生がときめく片づけの魔法』

Posted at 12/01/05

ベストセラーになった近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版、2010)だが、この本はいくつか片付けに関して革新的なことが示されていると思うけれども、私が一番影響を受けたのは、「ものを立てて保存する」、特に洋服を長方形にたたんで引き出しに並べるという整理の仕方だ。書類にしても書籍にしても「立てて並べる」ことで手早くアクセスできるということは実行してはいたが、洋服まで立てて並べることに徹底するということは考えたことがなかった。

人生がときめく片づけの魔法
近藤麻理恵
サンマーク出版

そして、それを実際に実行してみると、大変楽しい。引き出しを開けたときに、何枚かのシャツがショップで並んでいるように収納されているのが収納なんだという先入観から、特に感動もなくシャツを何枚も重ねて保存して、上の方のものは着るけど下のものは着ないとか、もう着なくなっているのに何となく取ってあるものとかがたくさんあったりするとかしていて、シャツに関してはほとんど全部つるしておくようになっていたが、長方形にたたんで引き出しに縦にして並べて整理してみると実にコンパクトに、色とりどりの(それは私のシャツがいろいろな色があるからだが)シャツが一覧出来て、自分はこんなシャツを持ってるんだなあと思い、なんだかニヤニヤしてしまう。一覧できると、一覧できるだけで楽しいのだ。そして一覧できるということを可能にするのが「立てて保存する」という考え方なのだ。

そして一覧できるということはすぐにアクセスできるということで、他のものをどけてから目的のものを取り出すという手間がなくなる。たいして持ってないのに探している服が出て来ないという状態が解消される。保存が保存のための保存でなく、使うための保存に変わる。自分が好きで買った洋服のすべてが使いこなせるということ以上のときめきがあるだろうか。

この本のやり方のポイントは、そこにあるのだと思う。ズボンのたたみ方などを確かめるために私は単行本だけでなくiPhoneのアプリも買ったのだけど、いつでも気になるところを読むことができるし動画で確認できるので安心感がある。持っているものすべてがすべて「すぐ使える」ということがこの片付け法の究極の目標であり、今までの保存のための保存が「スタティックな整理」であるとすれば、この「使うための保存」は「ダイナミックな整理」であって、引き出しの中も部屋の中も生き生きとして生命力が溢れているように感じられて来るのだ。

片付けに関しては、というか私はなんに関してもそうなのだけど、強い固定観念というか先入観のようなものがあって、一番の固定観念は「完璧にきれいに片づけなければならない」という固定観念にどうしてもとらわれてしまうところがあった。そして完璧なきれいさとしてイメージされるのがどうしてもスタティックな美になってしまうので、若いころのこじんまりとした部屋でも何かしようとすると均衡が崩れてすぐだらしなくなってしまうような、また無理をして出しにくいところに物がしまってあったりして結局それを使いやすい場所に置くことでどんどん散らかってしまうという悪循環に陥っていた。今では完璧に片づけるということ自体が不可能だとしか思えないくらいものが溢れてしまっているから、いつも片付き方が不完全だという恒常的な不満を持ち続けるようになってしまった。

この本を読んで実際に洋服を長方形に折って立てて保存するということを実行してみて、私が片付けに関して持っていたそういう先入観のようなものが氷解しつつあることを感じている。この本は「一度片付いたら二度と散らからない」ことを標榜していてスタティックな完璧主義なのかと最初勘違いしたところがあるのだけど、考えてみたらわかるように静的に片づけてしまうと100%確実に散らかり、いずれまた大規模な片付けが必要になるという悪循環に陥るわけで、「一度片付いたら二度と散らからない」ということは常に簡単にダイナミックな均衡状態を保持できるようになるということなのだ。いままでは一度片付けてしまうとその部屋にはなるべく入りたくない、入ってものを取り出すと散らかるから、という実に本末転倒な心理状態が現出していたのだけど、すべてのものにすぐにアクセスできる状態が実現すれば、出来るだけ長い時間そこにいたいと思うようになるに違いない。

この本で最も強調されていることはまず「不要なもの」、「持っていてもときめかないもの」を捨てろ、ということなのだけど、実際のところそれはなかなか(少なくとも私にとっては)難しい。それはつまり、何が自分に必要なのかが分かってないからなのだ。以前あまりに膨大にTシャツがあったのでごそっとほとんど捨てたことがあったが、そのあとかなり欠落感に悩まされた。ありすぎるから捨てる、ではだめなのだ。この本では残すものの選び方は、「一つ一つ手に持ってみてときめくものだけを残せ」と言っているのだけど、私がやってみても「ものに対する感性」が鈍っているという問題があるのだろう、どうもその選択に自信が持てないということがあった。それで衣類でもいらないと思うものをとにかくゴミ袋に詰めて、でも捨てられずにそのまま置いてあって、実際その中から救出されたもので急場をしのいだり、やっぱりこれが着たいと思ってそこから取り出したものが何点かある。ここ数カ月、そこから取り出すことはなくなっているのでもう処分してもいいかもしれないのだけど、整理する局面では想像できないけど必要な時になって「そういえばこういう理由でこの服を持っていたんだ」と思うものはあるので、ある程度の時間をおいて処分するという緩さがあってもいいよなと、むしろ「片付けない楽しみ」みたいなものが出てきたりもした。

「やりきること」は時に「使命」ではあるが、「幸せ」ではない。「やりきること」、特に「仕事」としてやりきることには時に無理が伴う。いや、伴わざるを得ないことが多い。どんなことでも喜びを感じながらやることが「幸せ」であって、無理をすることもまた喜びであるのならそれはそれで幸せなのだけど、「完璧にやりきらなくてはいけない」と考えてしまうとそれは強迫観念になってしまうし、やりきれないと挫折感を感じてより幸せから遠ざかってしまう。

また完璧主義という強迫観念に取りつかれてやりきろうとするときは、特に私などの場合はすぐに「手段を選ばずに」とにかくやりきろうとしてしまいがちで、それをやりきるときに他の何かを痛烈に犠牲にしてしまうことがありがちだった。だから「やり遂げた」ときにはいつも犠牲にした何かと達成されたものを天秤にかけてしまうことになってしまい、虚しさの方が先に立つことが多かったのだ。やり遂げればやり遂げるほど自分にダメージが溜まって行く、このやり方は少なくとも長続きはしにくいし、無理に続けていれば早死にするだろう。実際不器用な天才たちはそうして早死にして行ったのではないかと思う。

そして、完璧主義が強迫観念になってしまう、また無意味なことになってしまうのは、特に日常的な「部屋の片付け」などにおいては、原理的に「完成する」ということはあり得ないということによる。片付けというのはスタンバイであって、からだで言えばリラックスした状態であり、リラックスするのは次にスタートするための準備であるから、リラックス自体が目的だという保守的な怠惰な逸楽になってしまう。リラックスはリフレッシュであってもリセットではないのと同じで、片付けは完全なリセットではない。デフォルトへの復帰ではなくて、新たな均衡点でのたたずみにすぎない。リセットすること、デフォルトに復帰することをイメージすると観念的になり、観念にとらわれると観念の自己満足に陥ってしまう。

「立てて保存する」という思想はつまり、「スタンバイの思想」なのだ。「いつでも動ける状態」の美しさ。それを「機能美」と呼びたい気がする。ダイナミックであること、生命力を感じさせることとは、常にスタンバイしている美しさなのだ。

この本の類書と異なる魅力は、そういう思想的な背景に裏付けられていることにあるのだと思う。

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