一歩退いたところで世の中や自分を見る

Posted at 11/12/26

一歩退いたところで世の中や自分を見る、ということがついできなくなっていることが多い。そういう前にのめりこみすぎの自分、を気がつかせてくれたり自分と前景の間に空気を入れて、風を吹かせてくれたりする文章が時々ある。きょうは内田樹氏のブログのこの文章『劇化する政治過程・カオス化する社会』と、こちらの整体指導の方の文章だ。腰を使うためには肩回りの動きをよくすることが重要だ、ということは以前から理解してはいたが、鎖骨の下を動かすと腰が自然に伸びて低い姿勢をとらなくてもひざのばねが利くようになる、という話が面白かった。私はこういう話が好きなのだけど、考えてみたら『獣の奏者』でエリンやエサルが動物の生態に関心を持って追究していくというのも似たような心性なのかもしれないなと思った。生態を知ることでその背後にあるもっと大きな世界についての視点を持てるというか、そういう無意識の期待があるんだなと思う。どんな角度から見てもなかなかとらえきれない人間というものを、整体的な体の見方をすることでしっかりとらえられるんじゃないかと言う期待が、私の整体に対する関心の中にはあるんだろうなと思う。だから時々、そういう文章に出会ってそういう見方を見ると人間への疑問に思いつめていた思いがふっと解けて、風が吹くような感じがするのだろう。

内田樹の文章も似たようなところがある。ラフスケッチ的な、あまり賛成していいのかどうか分からないビジョンを語るときもあるけど、今日のエントリなどは国民が何を期待しているのかを鮮やかに切り取って見せてくれたように思う。確かに小泉政権時代以来、国民は鮮やかな、劇的な変化、劇的な展開を期待している。野田という人はそういうものとは最も遠い人だろう。八ッ場ダムの工事再開とか消費税引き上げとか政治の糞詰まりを加速させるような政治判断はやっぱりないだろうと思うけど、福島の事故収束宣言とかアレはむしろ外国向けのポーズなんだろうけど、まあ国民が『望んでいる』ものではない。まあその流れから言えば彼はスケープゴートになるために首相になったようなもので、むしろパフォーマンス好きの前原あたりが首相になったほうがまだ国民は納得してたんじゃないかという気はする。

文章というものは誰のために書くんだろう、ということをふと考えたのだけど、文章というものは結局後に続く世代、自分より若い世代の人たちのために書くのだなと思った。そう考えてみると、自分より若い人が書いたものがなかなか理解できないのはある意味当然なのだと思う。それは自分に向けて書かれたものではないから。そう考えてみると、自分のために書かれた文章は多く故人の書いたものになってくるし、せいぜい同世代の人の書いたものということになる。下の世代がさらに下の世代のために書いたものなど、理解できたところでそれが自分に持つ意味はやはりもともと希薄だから、さらに下の世代のためにものを書くときの参考くらいにしかならないだろう。

そうでないものがあるとしたら、やはり世の中の真理、不易流行の不易について書かれた文章ということになる。ジャーナリスティックというよりは、本当の意味でのアカデミックなもの。まあ今のアカデミズムの生産物の中にどれだけそういうものがあるかは分からないが。そういうものの中には自分よりずっと若い人が書いたものの中にもはっとするものがある。

『獣の奏者外伝・刹那』を読み続けている。

獣の奏者 外伝 刹那
上橋菜穂子
講談社

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