『坂の上の雲』のことなど/フィクションと生きることの本質/『獣の奏者』と「知ること」の意味
Posted at 11/12/24 PermaLink» Tweet
【『坂の上の雲』のことなど】
今朝はマイナス7.5度まで冷え込んだ。今シーズン初めて部屋の水道が凍結し、朝から水が出ない。トイレの水は出るので、手洗い用の吐水口から薬缶に水を汲んでストーブにかけた。10時の気温がまだマイナス3.5度。日が出ているのでそんなに寒いとは感じないが、ガソリンスタンドの人たちがひどく寒そうにしていたので、ずっと外にいたら辛い寒さだろうと思う。
昨夜は少し早く仕事を切り上げられた。昨日は天皇誕生日、今日は耶蘇降誕前夜祭。耶蘇教徒でもない私は特に何もすることはないが、年末も近く特別番組が多くなって普段見ているニュース番組が中止になったりすると普段通りの生活ができずに手持無沙汰になって困る。しかし昨晩はそれを逆用した。9時半に帰宅して豚肉とほうれん草を炒めて夕食を準備し、NHKのニュースを見ながら夕食を食べて、そのあとは撮ってあったけどまだ見ていなかった『坂の上の雲』の12月11日放送分、203高地の壮絶な争奪戦のビデオを見た。戦闘のありさまが延々と描写され、息をつけないような展開。参謀の無能と指揮官の鷹揚が加わるといかに兵が無駄死にさせられるか、という司馬遼太郎の血を吐くような思いが込められた展開だと思った。
日本側の将兵の描写はともかく、ロシア側の将兵やエキストラの数も膨大になると思うが、彼らは自分たちが負けた戦争の描写のために自らが演技することにどんな思いを持っているのだろうと考えながら見ていた。私が『硫黄島』とかの映画を見たくないのは日本が負けた戦いなど見たくないからだし、自分が役者でもその映画にオファーされても多分断るだろうなと思う。もちろん歴史絵巻として彼らの歴史観を正当化するものでなければ考えて承諾することもあるかもしれないが、やはり気分のいいものではないだろうと思う。
戦闘場面もそうだが、印象に残ったのは児玉源太郎が乃木稀典を訪ねて指揮権の一時的譲渡を求める場面。乃木は従容として、西南戦争以来、自分の一命は児玉に預けている、と答える、その腹の大きさ。柄本明と高橋英樹というミスマッチにも思える組み合わせが、そこはかとない情緒を漂わせていてこれが明治の戦争だったんだなあと思う。まあ、キャスティングで危ぶまれるところはけっこうあったが、高橋英樹の児玉源太郎というのはイメージがわかないなあと思っていたのだけど、多分実際の児玉とは全然違う(当たり前だが)にしても「高橋英樹の児玉源太郎」は演じられていたなあと思う。さてあとは日本海海戦と、終戦その後が残るのみ。25日放送、またビデオで見ることになるかもしれないが。
昨日は仕事は事務的なことをけっこうやったために、肩の凝りがどうも残っていて、寝床に入って『獣の奏者』の続きを読んでいたのだがいつの間にか寝てしまっていて、蛍光灯がつけっぱなしだった。6時ごろ一度消灯して二度寝して、起きたのは8時ごろ。最近二度寝しないと頭の疲れがちゃんと取れない。
【フィクションと生きることの本質】
朝起きるとき、感じることはさまざまだ。不思議な幸福感に包まれて目が覚めるときもあるし、ものすごい焦燥感に包まれて目が覚めるときもある。静かな気持ちで目覚めるときもあるし、どんよりとした不安感の中で目が覚めることもある。それはどういうことなのか直接的にはよくわからない。不安感の中で目が覚めても日中は元気な時もあるし、幸福感に包まれて目が覚めても一日なんだか調子がずれたままになってしまうこともある。若い頃は、目が覚めたときにとなりに女性がいればたいがいはそれでハッピーだったわけだけど、最近はそういうことがないのでまあ勝手にいろいろな感情が向こうからやって来るんだろうなあと思う。
今日は起きたとき、何だか幸福というより興奮していて、頭の中にストーリーがあってそれを進めて行こうという感じになっていた。自分が興奮するような設定というのは冷静になって考えてみるととてもストーリーになるようなものではない、というか意味が分からない話なのであれなんだが、はっと気付いたのだけど、こころの中にそういうフィクション、ストーリーがあるときというのは目覚めの時だけでなく普段のときも「空しくない」のだ。何か目標を持って取り組んでいるときはもちろんその目標に向けてのストーリーを心の中に持っているからそれが励みになってこころは充足しているわけだが、そうでないときはどうしても虚ろになっている。しかし、そういうときでもフィクションが心の中にあれば、こころはむなしくならないのだ。
ただ、フィクションとか目標とかがあるときの心の充足というのは目覚めたときに感じる不思議な幸福感とは違い、何か生々しい。その生々しさが好きな時もあればあまり好きでないときもある。これは心のありようとか体調とかの問題なのだろう。こころが一番美しさを感じることができるときは、自分が絶体絶命のような場所に追い詰められているときだ。死と生の境目にあるようなとき、世界はこの上もなく美しく感じられる。そういうときは今まで何度かあった。しかし、その美しさを感じるために自分を絶体絶命のところに追い詰めたいかといわれるとそれは違うんじゃないかという気がする。そういう意味では私は詩人ではないんだなあと思う。味わうだけでなく、それを作品にしなければそれに見合わないと思うし、その美しさを詩にせずにはいられないときもあったのだけど、今ではどこかその可能性については醒めているところがあって、どんなに美しさに出会えても自分は本当に一部しか、あるいはまったく表現することなどできないんだ、という思いがあったりする。だからそのために自分を絶体絶命の思いのところまで追い詰める、という気にはなれない。何というか詩人というより節約家である。
まあそれはともかく、生きる上で、フィクションというのは「生きる目標」のようなものに置き換えうるものだなと思う。逆にいえば、「生きる目標」のある人に、それに向かって努力し前進を続けている人に、フィクションというものはそういう意味では必要はない。フィクションというのはそういう意味では、生きる根幹、「生きる目標」みたいなものがない人のためのものだということもできる。癒しとしてのフィクションとかそういうものは別にしての話だが。
フィクションと目標は生きる上ではおそらく等価なのだ。だから「生きる目標」もともすればフィクションに近づく。革命とかオウムのいう解脱とか、手軽に飛びつきたくなる目標でありフィクションであるが、そういう安手の目標=フィクションがどれだけの不幸を世界にもたらしたかを考えると、フィクション=いわゆる「大きな物語」の人間にとっての意味をもっと真剣に評価しなければならないと思う。
視覚のアート化が美術であり、聴覚のアート化が音楽、嗅覚のアート化が香水や香道であり味覚のアート化が料理やワインであるとすれば、「生きる目標の組み立て方」や「生きることに手ごたえ」のようなものを言語を媒介にしてアート化したものが小説だと言える。まあ最近、生きることにけっこう倦んでいるのでなかなかそれをアート化するパワーが出て来ないんだろうなと思うけど、自分自身の生き方を整えて行くこと、つまり生活のアート化によって倦み疲れたものを研磨して行く過程の中で、少しずつ、生きるということの本質を小説という形で書いて行けばいいんだろうと思う。
【『獣の奏者』と「知ること」の価値】
獣の奏者 (4)完結編 | |
上橋菜穂子 | |
講談社 |
『獣の奏者』は完結編、8章の最後まで読んだ。残りは第9章「狂乱」だけだ。この小説を通底するテーマは一体何か、あまり意識しないで読んでいたが、つまりは「知る」ということの絶対肯定にある、と思った。それは学者としての上橋の、というか学者である以前に知りたいと思いしらねばならないと思うそういう人間としての上橋の心根を極限にまで引き延ばしたものだと思う。人には知らない方がいいこともあるとか、知ることによって地獄の釜の蓋を開けてしまう、とか知らせずに掟に従わせることが必要だとか、そういうついつい頷きたくなる言説というのはときどきあるが、伝統社会だけでなく現代社会でも往々にしてありがちなそういう言説に上橋は疑問を感じて、エリンにそのタブーを打ち破って行く役割を担わせた。第8章、息子のジェシに「私は命を捨てたりしない」というところに、その決意のほどが語られている。タブーを破る責任を、死を持って償うのではなく、タブーを破らざるを得ないならばタブーを破ったときに何が起こり、それはなぜなのかを知り、伝えることが責任なのだという覚悟。「知ること」の圧倒的な肯定であり、賛歌である。
私はそれにこころの底から賛同するわけではないにしても、言いたいことはよくわかる。私は実際のところ、知るのは好きだけど、頭で知ること、理解することによって逆に分からなくなってしまうこともあると思っているので、頭で知ることにそんなに絶対的な価値をおけない。もっと直観というか、全身的に察知したり感得したりすることに憧れがある。つまりそれは状況の中で生きるということだろうか。ただそのどちらが自分に「向いている」かというとそれは分からない。そのせめぎ合いの中に常に自分がいるんだなということは思う。知と、察知力と、感情と、自分にとってそれぞれがどういう意味を持っているのかを常に考えてきたのだけど、まあ察知力が一番ミステリアスだから魅力的だということはあるから、これから自分がどういうバランスでそのようなものたちに付き合って行くべきなのかというのは難しいなと思う。
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