いつの間にか大掃除の季節/桜井章一『運を超えた本当の強さ』を読む/物語の世界を呼吸する

Posted at 11/12/20

【いつの間にか大掃除の季節】

最近は月曜の遅い時間、8時か9時に新宿を出る特急に乗って下郷するのが毎週の例になっている。これならば月曜日は夕食の時間までだいたい使えることになるのだが、昨日は昨日の日記にも書いたがいろいろがはかどらず、日中は昼食の買い物にまいばすけっとへ行ったほかは外出しなかった。前夜は少し興奮して3時半まで夜更かししたのに起きたら8時でこれは時間が有効に使えると思ってうきうきしていたら次々と入ってくるさまざまな面白そうなものに時間を奪われて気がついたら夕方になっていたのだった。年末のテレビは時間泥棒だ。どれも今見なければいけないというものでもないのだけどせっかくやっているんだから見たいと思うくらいには面白そうな番組をやっている。特にBSは。そしてそれを見てしまうとやろうと思っていたことはほとんどできない。本当は、9月の半ばごろに腰痛で挫折した東京の家の片づけを少しだけでもやろうと思っていたのだ。一体いつの続きだと突っ込みを入れたくなるが、一週やらなければ一週間後になってしまうし、体調などもあってようやく仕切り直しをしてもいいかと思ってみるともう大掃除の季節になっていたのだった。

本もなるべく処分したいが、大学指定の業者に送るとその古書代が大学への寄付として扱われるというものがあり、そのくらいは母校に貢献してもいいかと思ったりもする。やはりただ捨てるのは勿体ないし、自分で古書店に持ち込むのも面倒だし、ブックオフに送ると削られちゃうよなあと思うと何となく二の足を踏むので、大学に寄付するくらいが落とし所なのかなといまは思っているのだけどまだもう一つ踏みきれないところがある。結局その本が「いる」のか「いらない」のか自分でもよくわからない本があまりにも多いのだ。しかし段ボール単位でかたづくことを考えるとそれは魅力なので、一度くらいは試してみようかなあと思っている。結局ブログを書いたあとたんすの中を少し整理して、6時半に夕食のうどんをつくり始め、7時半に出発した。

夕食を済ませたので少し時間的な余裕ができて、丸の内の丸善に立ち寄って本や雑誌などを立ち読み。小林よしのり責任編集の雑誌が面白そうではあったのだが取りあえずは買うのをやめた。ただ、福島の山の中で放射能を測定したら山じゅう森じゅうどこも規制値を超えている、という描写はギャグっぽく書いてあったけど全くギャグにするしかないような暗然とする話で、早期に除染して早期に現地に住めるようにするということの現実性は一体どんなものなんだろうと思った。山じゅうの腐葉土を何センチかの深さで除去するのか?木の葉はどうか?枝はどうか?森全体を伐採して禿山にするのか?田圃はどうか?畑はどうか?そしてそれがないと暮らせない人々が早期にそこに帰って来るということの現実性は本当にあるのだろうか。

9時の特急に乗って帰郷。特急の中で『運を超えた本当の強さ』を読む。これは本当に面白い。羽生だからこそ聞きだせる桜井の言葉の本当の意味。また、すでに読んだことがある羽生の言葉も、桜井が「本当はこうじゃないのか」と言うと羽生自身が何かに気づいたりする。静かであるのにぞくぞくする展開。

地元に到着したのが11時半、それから職場の駐車場まで歩いて停めてあった車に乗り、西友まで行ってうどんと麺つゆと乾燥わけぎを買う。それから実家に戻り、テレビを見ながら事務を処理したり洗濯物を畳んだり林檎をかじったりして、ひと段落して入浴。風呂からあがるとだいぶ眠く、テレビを見るとまた興味のある風水の話をしたりしていたが、時間泥棒に別れを告げて自室に戻る。自室で本の整理を少しし、また少し本を読んで寝た。結局2時になっていた。

どういうわけだか夜中に何回も目が覚めてトイレに行く。そのたびに出るのだから仕方がないのだが、乾燥して来ると本当にトイレが近い。最終的に起きたのは7時20分だった。寝床の中でからだを動かしていて、私の身体は神殿だなと思った。40代50代の身体は衰えているわけではない。ただ使い方が悪いだけなのだ。

起床して布団をたたんで着替えてモーニングページ。ステンレスの薬缶の白湯は美味い。8時過ぎまで書き続ける。自宅に行って洗濯機を回し、不在連絡票の入っていた宅急便に電話して、事務的な仕事をいくつか片付け、灯油を給油して、ゴミを作るがあまり量がないので今日は出さないことにした。母から電話で言われたものをいくつか用意して、鯉に餌をやろうとしたら宅急便が来た。準備を終えてから出発。9時半になっていた。

まず銀行へ行って昨日移し損ねた通帳間のお金の移動。結局振り込むことになり、他行振込になったので手数料が525円もかかった。それからお歳暮の届け先に寄ってみたがまた留守で、さてどうしようかと。まあそれで雑事は終わりなので国道沿いのファミマに寄って暖かい飲み物を一つ買って気合を入れ直し、母の病院まで車を飛ばす。

母はまた調子がいいの悪いのと言っていた。ソーシャルワーカーと少し話をし、11時半ごろ病院を出る。病院食の配膳がはじまっていて、揚げ物にかけられたソースの匂いがプーンとして、コロッケかメンチカツが食べたくなった。国道の交差点にあるスーパーに立ち寄ってメンチとカニクリームコロッケとポテトサラダとついでに佃煮昆布を買った。あとはそのまま高速を飛ばして帰ればいい、と思ったがガソリンがかなり減っているので地元に戻ってからいつもいくGSに回る。湖畔の道を通ったら工事中で片側交互通行。しまった。先週もやってたのに忘れていた。信号待ちの間みずうみを眺める。

家に戻ったら1時を過ぎていて、それからほうれん草を煮たりうどんを茹でたり。でもうどんは充実する。なぜだろう。

【桜井章一『運を超えた本当の強さ』を読む】

運を超えた本当の強さ 自分を研ぎ澄ます56の法則
桜井章一
日本実業出版社

『運を超えた本当の強さ』。随所で啓発される。いまのところ一番は、指四本をなるべく離さないで使うということ。これはやってみると離しているときより遥かにからだに力がわく。からだの芯、体の軸ができる感じがする。そしてその時に重要なのが、手も足も小指だ。小指がからだの動きの軸というか、司令塔になっていることが分かった。それは甲野善紀がどこかで書いていたことだが。

そのほかツイッターで書いた感想の補足。「細かく分けると命を失う」専門化・細分化はどこかで歯止めをかけないといけない。人間は全体的・トータルなものだから、トータルな存在としての自分を見失ってしまうと生きられなくなる。このところの私の不振は、小さなところに集中しすぎて全体が見失われてしまったことにあるのだろうと思った。

「私は間口を広げようとし過ぎていた」自分に興味がないことは興味がないと言い切る桜井のことばは小気味がよい。小説を書こうと思ってから小説とは何ぞやと言うことにけっこうとらわれてしまい、小説は心理のあやを書くものだと言われるとそうか心理のあやかと思って一生懸命書いてみたり、せりふより地の文だと言われるとそうか地の文かと思って書いてみたり、やはり小説と言えば芥川賞だろうかと芥川賞作品を片端から読んでみたり。行き詰ってるときには人の意見を聞くのもよいときもあるが、いつも聞いているだけでは自分の感覚から行動への流れが遮断され、源泉が枯渇してしまう。興味を持った時に珍しいことに手を出すのはいいけれども、興味がなくなったらさっさと撤退した方がいいし、人に言われて手を出してみたものも一通りやってみて本当に面白いと思わなかったらさっさと撤退した方がいい。「心理より真理」これは桜井の言葉だが、私のやろうとしていることに関しても言えるのかもしれないと思った。小説は心理を書かないといけない、ということにこだわり過ぎていた気がする。心理より真理を書く小説があってもいいはずだ。

羽生は将棋を差していないと汚れてくる感じがある、と言っているのだが、私もものを書いていないと自分が汚れて来るような感じがする。ほおっておくとダムに土砂が溜まってしまうのを、懸命に浚渫しているのに近いところが、私のモーニングページとかブログとかにはある。「勝負とは人智を超えたところに身を置くこと」対人関係というのはみなそういうところがある。「子どもになれるのが本当の大人。」子どものふりをするのではなく、子どものままなのでもなく。大人なのに、子どもになれる。そのかっこよさ。「価値観の一番目は存在、二番目は行動」全く私の思っていることそのままでぽかんとしてしまう。なんだそれでいいのかという。なんか余計なことを考えすぎてる。

【物語の世界を呼吸する】

獣の奏者(5) (講談社青い鳥文庫)
上橋菜穂子
講談社

『獣の奏者』探究編を少し読み始めた。久々に物語。物語の設定を読みとり、距離感をつかみながら物語の中に入って行く感じが懐かしい。感じていた不安が消える。好むと好まざるとに関わらず、私は物語の世界を呼吸している。

人の格好しか見ない人がいる。格好は結果であって出発点ではない。しかし格好こそが出発点であるという人もいるのだ。だからそういう人の言葉は結果としてそうなっているのだなと受け止めるべきで、それに左右されない方がいい、と思った。

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