今年の読書を振り返りながら上橋菜穂子『獣の奏者』の感想を書く
Posted at 11/12/08 PermaLink» Comment(4)» Tweet
【今年の読書を振り返りながら上橋菜穂子『獣の奏者』の感想を書く】
上橋菜穂子『獣の奏者』第2巻読了。もともとはこの作品はここまでで完結していたものだそうで、そういう意味では本来の形のものは読了した。3、4巻は付けたし的なもののようなので、とりあえずここまでで感想を書いてもいいだろうと思う。
獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫) | |
上橋菜穂子 | |
講談社 |
結論からいえば、今年読んだ小説の中で一番良かったと言っていいんじゃないかな。いまかなり落ち込んでいるので言葉を尽くしてほめたたえることができないのが残念なのだが、読み終わってみて作者の書いていることやインタビューなどを読んでみるとデーモンに突き動かされて書いたということが伝わってきて、本当にそれだけのことはある作品なんだなと思う。
ということをふと書いてみて、今年どれだけの小説を読んだのだろうと思ってブログを見なおしてみた。ブログの表題だけ見ただけなので見落としがある可能性もあるが、1月から順番に書くと水島ヒロ(齊藤智裕)『KAGEROU』、村上春樹『ノルウェイの森』『中国行きのスロウボート』『カンガルー日和』(一部)、近藤史恵『サクリファイス』、朝吹真理子『きことわ』、西村賢太『苦役列車』、ジョイス『ダブリナーズ』、サン=テクジュペリ『星の王子さま』、宮部みゆき『ブレイブストーリー』『地下街の雨』(一部)そしてこの上橋菜穂子『獣の奏者』、で以上だった。まだ今年は23日あるからまだ増える可能性はあるが、まあそんなに多いとは言えない。しかし村上春樹、ジョイス、サンテグジュペリをのぞけば他はすべて21世紀の作品で、とにかく同時代のものを読もうという我ながら涙ぐましい努力をしている感はある。今年の上半期の芥川賞は受賞者なしだったが、何か読まないで済んだとほっとしているところさえあったからなあ。
この中で心に深く残ったのは『ダブリン市民』、『星の王子さま』、『ブレイブストーリー』そして『獣の奏者』というところ。いろいろ考えさせられたということでは『ノルウェイの森』『きことわ』『苦役列車』の三冊だが、これは三冊とも1月に読んでいる。『苦役列車』は2月に入っていたかもしれない。
『星の王子さま』は読み方が今まですごく浅かったので、今回読み直してみて初めていいと思った。自分にとってたった一つのバラの大切さ。それに気づくための旅。『ダブリナーズ』はこういう小説っていいなと思った。それではと思って『ユリシーズ』に手を出したけど一発で撃退されたが。『ブレイブストーリー』は現実世界の容赦ない描写にかなり手を焼いたが正直言って勉強になったと思う。『獣の奏者』の感想は本題なのでちゃんと書く。
2011年の読書体験では『切りとれ、あの祈る手を』『神的批評』の二冊は外せないのだが、ちょうど東日本大震災が発生してしまい、混乱の中で読むことになってその意味を十分考えられなかった。しかし、70年代生まれの批評家たちの世界解釈みたいなものを新鮮に感じる部分が多かった。『絶望の国の幸福な若者たち』はなんだか斜に構えすぎててあまり好きになれないな。批評ではないが、『なぜこんなに生きにくいのか』はかなり考えさせられた。
アニメでは何と言っても『魔法少女まどか☆マギカ』と『新世紀エヴァンゲリオン』。というか他には見てない。この二つはDVD。テレビでは『獣の奏者エリン』は一回だけ見て、それが今回読んでみる一つのきっかけにはなった。あと『OnePiece』とか『プリキュア』とか何となく見たことはないわけじゃない。ああそういえば結局『コクリコ坂から』は見なかったな。
マンガは昨年末に出た『このマンガがすごい!2011』での男部門の一位諌山創『進撃の巨人』、女部門の一位ヤマシタトモコ『ドントクライガール』『HER』は確かに面白かった。あとは小路啓之『ごっこ』『来世で会いましょう』とり・みき『クレープを二度食えば』『とりったー』、宮田紘次『ききみみ図鑑』『うたたね姫』、玉置勉強『彼女のひとり暮し』、五十嵐大介『海獣の子供』『魔女』『SARU』『リトル・フォレスト』『はなしっぱなし』、駕籠真太郎『夢のおもちゃ工場』、日高トモキチ『パラダイス・ロスト』、ヤマザキマリ『地球恋愛』、玉川重機『草子ブックガイド』、ふみふみこ『女の穴』、青木俊直『くるみのき!』、志水アキ『ニート女と小学二年生』、市川春子『25時のバカンス』まあまだけっこうある。マンガは今年はけっこうよかったな。一番の出会いと言えば五十嵐大介だろう。『このマンガがすごい!2012』の一位は『ブラックジャック創作秘話』と『花のズボラ飯』だそうで、これはなんだかどういうことなんだという気がするがまあ両方読んでないので読んでみようかなとは思う。
なんか簡単に2011年に読んだものとか総括してみたりしたが、読みたいと思ったものが読めた、見たいと思ったもの、見るべきだと思ったものが見られたというのは『ダブリン市民』、『獣の奏者』、『なぜこんなに生きにくいのか』、『新世紀エヴァンゲリオン』、『クレープを二度食えば』、『はなしっぱなし』というところだろうか。今年読んだ作品、鑑賞した作品というのは去年感じたような圧倒的な感じというのがちょっと足りない気がする。それは自分が読み手から書き手へ意識の変化があったということともう一つは震災や原発事故の影響だろう。どんなフィクションよりも圧倒的な力で人々を鷲掴みにしてしまう恐怖の大王。こういう年はフィクションはたいへんだろうなあと思う。っていうか最終的に自分が読みたいもの見たいものとして選択したものを読み返して笑ったが、今年の作品はゼロだ。佳作は多かったけど自分の存在を問い返すような本質的な作品は書かれなかった、いや私は少なくとも読んではない、という感じがする。
まあそういうわけで、『獣の奏者』は自分の中でかなりポイントが高い。もともとは横浜の元町の魔女っぽい女の人の店で話をしたとき、魔女さんが「日本でも本格的なファンタジーを書く人が現れた」という話をしていて出てきた一人が上橋菜穂子だったように思う。確か去年の秋のことなのであまり記憶が定かではないのだけど。それ以来ずっといつかどれかは読んでみようと思っていて、『獣の奏者エリン』のアニメを一回だけみたことが直接のきっかけにはなっていると思う。あ、そうか、そうじゃない、コミカライズされた作品を店頭で見たことだ。そしてうまいことに田舎の書店を二つ回ったらマンガ5巻と小説2巻がそろったのだ。マンガから読み始めて全部読んでから小説に移って全部読んで、アニメとマンガと小説とそれぞれに雰囲気は違うしそれぞれのよさがあるのだが、やはり現時点では小説の圧倒的な力に感動している。
『獣の奏者』の感想を書こう。最初は少し断片的になるけれども。
ファンタジーの一つのパターンは、普通の少女(少年)が異世界に行って戻ってきて普通の少女(少年)に戻るというもので、その典型は『千と千尋の神隠し』だ。私が書いた『本の木の森』という小説もそういうパターンになっている。普通の子供が異世界での体験を得て少し成長してまた普通の子供に戻る、という構造はナルニア物語でもそうだし読んでて安心な構造だ。というか私はこのパターンが一番安心すると言えばいいのだろうか。行ったきりどこへ行ってしまうのか分からない小松左京『青い宇宙の冒険』とかはすごく不安に感じたことを思い出す。
まあしかしそれは予定調和の安心感というか、お約束があってはらはらしたけどハッピーエンド、というパターンの一つであって、『千と千尋』がこのパターンになっているのは宮崎駿の「子どもに絶望を説くな」という哲学の現れであると考えるべきだと思うしナルニアもまたそうだろう。だから『さいごの戦い』のラストが衝撃なのだけど。
本当は子どもは成長して行くから、前と同じ意味での普通の子供には戻らない。不可逆の変化を可逆的にとらえることで欺瞞的なパラダイスを演出していると言えなくもないが、エリンはそういう戻り方はしない。もちろん年齢的にも10代を少しずつ生きて行く成長物語でもあるから、そういう戻り方をしようにもできないわけだけど。
似ていると思ったのは諸星大二郎の『マッドメン』だ。一方通行ということもそうなのだが、文明社会と伝統社会の混血児的な存在だということ。『マッドメン』のコドワは日本人とニューギニア人の混血だが、エリンは「霧の民」と大公領の職能階級との混血で、両者とも近代社会(大公領や真王領を近代社会というのもアレだが、「霧の民」とくらべてという次元で)も否定するが、伝統社会もまた否定するのだ。エリンは母を見殺しにした父方の祖父を拒絶し、母を掟で縛って死に至らせた母方の祖母の社会も否定する。これはコドワと同じ行動だ。
すごく印象に残るのは、エリンが自分の感情を強く肯定することだ。自分がおかしいと感じたことはおかしいと判断するし、やらなければならないと感じたことはやる。それは伝統でもなければ掟でもなく、自分の外にあるそういう規範に従わない。むやみに波風を立てようとはしないが、いざとなったら外部の規範は拒絶する。そしてそれがために自分もいつくしんで育てた王獣のリランも予測のつかないめくるめく運命に引きずり込んで行く。エリンに比べるとコドワですらまだ役割を担う人形のようなところがあり、一番似ていると感じるのはおがきちか『ランドリオール』のDXなのだが、DXもまた「バクラワ(旋風鳥)の雛」と言われ、必要だと思ったらとんでもないことでもやってしまう可能性を持っている。
エリンは、王獣も闘蛇も野にあるように生きてほしいと思っていて、彼らを利用したくないと思っているし、また自分も権力によって利用されたくないと思っている。誰も利用したくないし、誰にも利用されたくない。そのあたり、ランドリオールのDXや竜胆と共通している。
自分の感情を信じることだけは、エリンは最初から最後まで失わない。ちょっと強すぎるような気もするが、この話はランドリのように緩むところがあまりない。まあランドリは長大な話だから緩む場面では徹底的に緩むわけで、そのあたりは同列では言えないけれども。
悪い人といい人がはっきりしている。これは多分、エリン自身の感情がその判断基準だからだろう。エリンが好きだと思う人はいい人だし、エリンが嫌いだと思う人は悪い人だ。そしてそれは物語の中での善悪の人物配置と一致している。そういう意味ではエリンはちょっと「聡明」すぎる。
私は物語に「自我を越える」ということを求め、そういうものを読みたい、そういうものを書きたいと思っているところがあるが(それもある種の刷り込みかもしれないが)、エリンが信じられないと思ったけど本当はいい人だったとか、下らないと思ったけど本当は価値のあることだったとか言うことがないなあと思う。でもそういう物語の方が、現代では受け入れられ、支持されるのかもしれないなと思った。最後まで自分を信じることが「よいこと」なのだという話の方が。
コドワは日本に代表される近代科学も否定し、「大いなる仮面」に代表されるニューギニアの伝統的な秩序も否定して自分の信じる第三の道を行こうとする。ただ何となく唐突な感じが『マッドメン』の場合はあったのだけど、エリンは最初から闘蛇衆の掟にも動物を利用する人の考えにも野性を眠らせる王獣規範にも霧の民の掟にもましてや政治的な人の思惑にもすべてに否定的で、自分だけを信じている。
そのあたり、現代の情勢というか、近代―脱近代―超近代みたいな弁証法的発展を連想させる。原発も脱原発も否定した第三の道、みたいな。超原発、じゃ何が何だか分からないが。原発に代表される近代科学主義と、それを否定する自然回帰の思想、それに対してその第三の道はある種のポストモダニズムかもしれないが、脱構築にその思想を代表させるとむしろポストモダニズムも脱近代のレベルにとどまっているかもしれない。そのアンチ性よりもさらに統合性を前に出した新たなレベルの構築性を、「自分を信じる」「誰も利用したくないし誰にも利用されたくない」ということを原則に、しかし自分が正しいと思うことのためなら、つまり平和や調和や未来のためなら前者を優先させる、という形で近代も脱近代も乗り越えて行く、というそういう超克が正しいのかどうか、ということを考えさせられるが、これはまあそういうストーリーなのだ。
エリンはどこにでもいるような普通の少女なのではない。特殊ではあるけれども思い入れのできる少女として最初は出て来るが、やがて誰にも真似することのできない圧倒的な存在、ある種の怪物になって行く。しかし、考えてみれば「誰でもないほかならぬ自分」になるということは、ある意味そういう怪物になって行くということなのかもしれないとも思った。
ふつうはこの物語にあるように、その怪物性をさまざまな掟で縛ることでその怪物性を弱め、力を殺いで行くのだけど、自分の信念に従ってその怪物性を順調に育てて行けば、ものすごい怪物に成長することも可能なのだ。そしてそのイメージが託されているのが『王獣』という存在なのかもしれない。
普段はおとなしく、神々しいまでに美しい王獣は、闘蛇を操り、血に飢えたように殺戮し、その肉を食い散らす圧倒的な猛々しさをも持っている。王獣というのは、人の性の象徴であり、人の持つ可能性、統御しきれない、良くも悪くも人の持つ可能性の凄まじさのようなものを表現した存在なのではないか。そういう意味では、ツァラトゥストゥラの獅子のような、掟に縛られるのをやめた時の人間のすさまじい力と同値なのかもしれない。上橋は、今までのファンタジーにはない(少なくとも私は知らない)新しいタイプの物語を書いたのではないかと思う。
すごく感じるのは上橋が「利用したくないしされたくない」ということを強く感じているということで、それがかなわないと感じているときのエリンの「冷え冷えとした思い」というのもまたよくわかるものだけど、この冷え冷えした思いに私は浸かりすぎているなと思った。
ファンタジーだからこそ持つ力というか、ファンタジーだからこそ表現されるものとしての人間の持つポテンシャルのようなものってあるよなと思う。そういう意味では考えてみればツァラトゥストゥラもある種のファンタジーなんだなと思った。
私の『本の木の森』も自分のわがままみたいな本能的な気持ちがすべてを突き動かして行くという話で、最後にはそれを全肯定している。そしてそれはつまりその思いを否定し縛ろうとする力、それを象徴する存在である「飢えの小人たち」を焼き殺してしまうことになり、私は書いていてそのことに強い畏怖を感じたのだけど、『獣の奏者』にもやはりそういう畏怖みたいなものがあって、わかるなと思った。たとえ物語の上でもこれをやっていいのかという自問自答みたいなものはある。そしてやるからにはそれは徹底しなければいけないわけで、その強い意志が場面の凄惨さを生みだすことになるわけだ。いざとなったら凄惨な場面を書く覚悟のようなものがやはり作家には必要なんだと思うし、案外そういうのって男よりも女の作家の方が度胸がある気がする。まあ『まど☆マギ』みたいに平気でポンと出すことが男性作家の場合にはあるけれども、女性作家の場合は行くところまで行ってから出す(そこまでは基本ためらいやたしなみがあるからだろう)からそこにある種の強い開き直りがあるわけで、そこにさらに衝撃性を強める要素があるような気がする。
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"今年の読書を振り返りながら上橋菜穂子『獣の奏者』の感想を書く"へのコメント
CommentData » Posted by nemuta at 12/02/20
初めまして。
書かれた感想を読んで、肯いてしまうところが多々ありました。
私も、『獣の奏者』はとても好きな物語です。
でも、何か釈然としないものも感じていたんです。
その正体をずっと知りたいと欲していました。
他の皆さんの感想を拝見すると、軒並み、素晴らしい、
これに感動出来ない人はおかしい、などなど・・。
でも主様の
私は物語に「自我を越える」ということを求め、そういうものを読みたい、そういうものを書きたいと思っているところがあるが(それもある種の刷り込みかもしれないが)、エリンが信じられないと思ったけど本当はいい人だったとか、下らないと思ったけど本当は価値のあることだったとか言うことがないなあと思う。でもそういう物語の方が、現代では受け入れられ、支持されるのかもしれないなと思った。最後まで自分を信じることが「よいこと」なのだという話の方が。
という部分を読んで、少し納得しました。
自分の感じていた違和感というのは、ここに起因するのかな、と。
多分、私もそういう、大きな視点の物語を読みたいと思っていて、
(私も刷り込みなのかもしれません(笑))エリンの余りの自分の感情への信頼に、正直「怖さ」を感じていました。でも、確かに、今はそういう話の方が、受け入れられるのかもしれません。
もう3、4巻は読まれたでしょうか?
また主様の、3、4巻を読まれた感想を、是非読んでみたいと思います。
CommentData » Posted by kous37 at 12/02/20
>nemutaさん
はじめまして。感想ありがとうございます。このあたりの微妙なところ、分かっていただいて嬉しいです。^^
3、4巻は「刹那」まで含めてもう読み終わってます。感想は12月24日あたりのブログでおおむねは書いているのですが、凄く忙しいころでしたのでちょっと断片的になってますね。何か最後にエリンが間違いに気づくところとか、よかったなとは思いました。でも上橋さんって本当に学者だな、という気がしますね。(笑)やっぱり知るということが凄く大きな価値なんだなこの人には、と思いました。分からないことはないんだけどなあ、とは思いますけども。
またいろいろコメントくださると嬉しいです。どうぞごゆっくり(このブログに)ご滞在ください。^^
CommentData » Posted by nemuta at 12/02/20
お返事ありがとうございました。
もう既に3、4巻の感想を書かれていたのですね!
早速見させていただきましたが、またまた、肯いてしまいました。
上橋さんは学者だな、と、私もとても感じます。
そして、この『獣の奏者』は上橋作品の中でも、
特に、彼女の「学者」としての理想や、拠り所となる考え方が
かなり前面に出されていますよね。
私も、kous37様の仰る通り、上橋さんの基本的な姿勢に、
全面的にうなずけない立場にいます。
私も、その姿勢はわかることはわかるのです。
でも、全てを「伝える」、そして「知る」ということが本当に「正しい」のか。
それは、難しいところだと思います。
ただ、この作品はそれを差し引いても、魅力ある作品だと思うし、
上橋菜穂子という作家の力量をひしひしと感じます。
盲目的な礼讃でもなく、排他的な批判でもなく、あくまで中立の立場で
感想を書かれているのが、私にとってとても助かりました。
何となく、自分の、この作品に対する考えが整理できたと思います。
(実はずーっと悩んでいたんです。この違和感は何なんだろうって。
他の人はすごい感動しているのに、どうして自分は違和感を感じているのだろうと。)
またこれからも、kous37様の書かれるブログを楽しみにしていますね。
CommentData » Posted by kous37 at 12/02/20
>nemutaさん
ありがとうございます。
>実はずーっと悩んでいたんです。この違和感は何なんだろうって。
他の人はすごい感動しているのに、どうして自分は違和感を感じているのだろうと。
そういうことってありますよね。でも基本的には、やはり自分の正直な感想を素直に客観的に冷静に整理しておくのは大事なことだと思います。私もそういう目的でこのブログを書いているようなところがあります。書かないとはっきりしないことも多いですし、書かないと忘れてしまいますから。(買い手も忘れてしまってることの方が多くてあとで自分の感想を読み直して新鮮だったりもしますが。笑)
どの作品にどんな感想を持ってもいいんだと思います。読み間違えてることが分かったらあとで読み直したり考え直したりしてまた感動しなおすこともありますし。確かに最近は、というか特にネットは絶賛/酷評の一面的な感想を読まされることが多いですよね。でも本当に本気なのか、どこまで読み込んでいるのか、疑問符がつくことが多いと思いますよ。
出版・編集やフォロワー的な立場の人は批判的なことは書きません(むしろ提灯持ちみたいなことばかり書く)し、2チャンネル的な人たちは誉めたら負けみたいな感じで酷評しまくってますから、まあそういうものだと思って、その中にチラッとのぞく本音みたいなものが少し見えると面白いかなという感じで読んでます。
私は自分の中にある感想、というか違和感なら違和感、感動なら感動、微妙に気になったこと、見落としがちだけどいいなこれは、と思ったことなど、「書いておきたいなあ」と思ったことを書くようにしています。そのへんで、同じものをみたり感じたりして「そうそう!」といっていただければ嬉しいですし、「それは気がつかなかった!」といっていただければ「えっへん」と思いますし(笑)、「こういうのもあるよね」といっていただければ素直に「そうか!」と思います。せっかく物語や小説を読むんだから、たくさんのものをそこから得たいと思いますもんね。
どうぞ今後ともよろしくお願いします。