上橋菜穂子『獣の奏者』を読む

Posted at 11/12/02

【上橋菜穂子『獣の奏者』を読む】

自分のしていることが何であるのか知っているということは、嬉しいことだ。気持ちがほんわりしてくる。こういうことを感じてみて初めて、人は自分のしていることの多くを知らないまま生きていて知らないまま為しているということが理解できる。

獣の奏者(3) (シリウスコミックス)
上橋菜穂子・武本糸会
講談社

『獣の奏者』、コミック版を5巻まで読み終えた。一気だ。これは講談社文庫の小説版の、2巻128ページまでに当たる。小説版は4巻までのようだから、全体の3割程度のところまで進んだのだろうか。面白い。物事を知って行くということがどういうことなのか。学者でもある作者・上橋菜穂子のその知識に対する考え方が私にはとても面白く感じる。主人公であるエリンは天才肌の、動物と交流を持つ能力を持った、というか努力によって身につけた少女。おそらくは母もまた同じような力を持っていたのだろう。動物を操る、人の意思に従わせるということの意味を深く考えようとしている。

エリンに深く関わって来る大人たちは今のところ母と蜂飼い実は教導師のジョウンと王獣学舎の教導師エサル。ジョウンとエサルはうちで思っていることが表現されている。ジョウンは教師としての性格が強いが、エサルは半分は学者として、半分は掟に従う執行者として動物に接し、「真実を知らないまま掟に従う」もどかしさを覚えている。真実を知ることの意味、そのものがテーマのような話で、これは学問に志した者、であればこういうことを言っているのだろうなということを感じられることがあるのではないだろうか。真実を知らないことはもどかしいことだが、真実を知ることは時に恐ろしいことであり、人間には許されていないことでもある、というある種のおののきがここにはよく表現されていて、学者であり続けるために小説家でもあり続けなければならない上橋の感覚が痛いように伝わってくる。しかしそのすべてを越えて真実を知ったときの喜び、そしてそれが誰にも話せない種類のことであることの孤独、たとえば釈迦がピッパラの木の下で悟りを開いたときの陶酔と不安と孤独と不思議に澄んだ気持ちのようなものを知っている人だということが感じられる。そういう意味でこの人は本物なんだなと思う。1962年生まれだから私と同年だ。その感覚を少しでも知ることができたらなあと思う。

私自身のこの感覚の源については今は上手く書けないので、機会を見つけて書きたいと思う。

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