エヴァンゲリオンに終わり、エヴァンゲリオンに始まる

Posted at 11/11/24

【エヴァンゲリオンに終わり、エヴァンゲリオンに始まる】

雨上がり。少し風がある。気温は高い。雲の切れ間に、青空がのぞいてきた。晩秋、あるいは初冬の朝の、少し薄暗い空。6時過ぎに目を覚ましてモーニングページを書き、職場に出て資源ごみを処理してきた。その頃にはまだ少し雨が降っていた。そのあとセブンイレブンに回ってモーニングを買って帰ってきて、少しモーニングを読んでから朝食。いま自室に戻ってモーニングを少し読んで、ブログを書き始めた。

劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に [DVD]
キングレコード

昨日は病院へ行ってから妹を迎えに出、駅から病院へ乗せて行って自分はコンビニで少し小休止し、それからツタヤへ行ってエヴァンゲリオンの7,8巻を返して「Air/まごころを、君に」(劇場公開版、ビデオフォーマット版25・26話に相当)と「Death(True)2」(劇場公開版、ビデオフォーマット版24話までのコラージュ的総集編)を借り、それから平安堂へ行って本を少し物色。エヴァンゲリオンをいちおう(つまりオンエア版のみだが)見終わってみると、読める本、読める雑誌、読めるマンガがずいぶん増えた、という感触を書棚の間を回りながら感じた。すべての道はエヴァンゲリオンに通ず、というかエヴァンゲリオンを源にして作られているものが現在、いかに多いかということを実感として感じた。

そしてこれは今、ビデオフォーマット版・劇場版を含めて全部見終わっての感想なのだけど、同じくらいたくさんのものがエヴァンゲリオンに流れ込み、そしてまたそれを源として多くのものが作られている。そういう意味ではエヴァンゲリオンはすべての終わりでありすべての始まり。『新世紀エヴァンゲリオン』の「新世紀」は英語でNeon Genesisと表現されているが、まさに新たなる創世記なんだなと思う。そういえば劇場版のラストはアダムとエヴァを思わせるものだった。

まあ結局しかし何も買わず、そのままステーションパークまで行ってiPhoneの保護シートを買って帰った。あ、このあたりは昨日も書いてたな。

昼食後、25話を途中まで見る。時間がなくて最後までは見られなかった。一度病院へ行って、それから仕事に出る。3時半から9時半まで仕事だった。比較的暇で、事務仕事の方も順調に片付いた。9時過ぎには帰ることができて、ニュースウォッチ9で立川談志の訃報を見ることができた。夕食を食べながらNW9を見て、終わってから25話の続き、それからラストまで見る。……うーん、微妙。(笑)こうやってみてみると、オンエア版がああいう自己啓発セミナー的になったのが分からなくないなあと思う。あれはあれで奇妙だが、劇場版のように物語の構造を一つ一つ片付けて大団円に行っても、これでいいのかという感じはぬぐえない。まあSFってそういうラストはよくあるのだけど、SFのそういう感ともまた違う。すごくセカイ系的になっていて、というかこれもまたエヴァンゲリオンを源に発したものなんだなと思う。SFでは少年の心情が宇宙のあり様に反映するというような設定は珍しくないのだけど、それがセカイ系という一つのジャンルを生むような影響力を持ったのはエヴァンゲリオンを経由したからなんだと思う。

見終わった後、微妙な感情を抱えながらすぐ「DEATH(TRUE)2」を見始めた。これも総集編とは言いながら、ストーリーは全然わからない。これはオンエア版ないしビデオフォーマット版で24話までちゃんと見た人にしか分からない作りになっているが、見た人にとっては見にくいわけでもない。キャラクター別の編集になっていて、そのキャラクターがどういう歩みを作中しているかということを振り返ることができるからだ。そしてどの場面、どのキャラクターが自分の好みなのか、極私的な、たぶん淫靡な楽しみに耽ることができる。というかこの作りはそれを推奨しているように感じられる。シンジとアスカ、レイとカヲルが弦楽四重奏を奏でるというつくりはいいけれどもフォースチルドレンだったトウジがその中に入れなくてちょっと可哀想。一人で渡り廊下に腰をおろして合奏を聞いているトウジの姿は、哀愁だ。

総集編を見て私は、自分が23話でレイの正体が開かされ、LCMの水槽の中で無数のレイのダミーが漂う場面がもの凄く、はっきりいってたまらなく好きだ、ということを再確認した。もの凄くかっこいい。何であの場面がそんなにいいのか分からないのだが。マッドサイエンティストの素質でもあるのか。博士の異常な愛情だな。

キャラクターとしては、カヲルというキャラクターにものすごく強く魅かれる。これは既に書いたけれども、自分のすべてを理解してくれる同性の友人。子どものころからそういう存在を私は強く欲していて、でも得られなかったという強い思いがあって、そしてそれが故にものすごくリアルにその存在を感じてしまう、ところがある。シンジのカヲルへの思いが、すごく自分の中に投影してきて、何か興奮を感じてしまう。

何というか自分の好みの話しになってきたのでついでに書いてしまうと、ネルフの司令部の若手女性、伊吹マヤが萌えを感じる。あの潔癖症、そして赤木リツコへの強い憧れ。リツコは自分が汚れていることを自覚している強い女性で、それゆえにケガレへの強い恐れを抱いているマヤの憧れでもあるのだろう。そこに百合的な要素があるかどうかは微妙だが、そういう要素的な萌えというものを製作者たちは特に劇場版25話・26話で強くプッシュしているように感じる。

というか、25話・26話では要素還元主義というか、一人一要素というか、そういう「要素」さえあれば萌えるでしょ、的な(萌えという言葉はまだ当時ないと思うが)そういう「おらおらどうよ」的な意図を感じる。だからマヤがグロテスクな場面を見て吐いてしまっている光景に萌えを感じたりするのは作者の思うツボで悔しいし、作者はその高慢な意図でニュアンス主義とか衒学趣味とか感動主義とかそういう既成の物語作りの概念をあざ笑う姿勢が感じられてなんだか腹立たしいのだが、まあ自分でもツボにはまる「要素」を見つけてしまうと「萌えるけど違うんだよ!」みたいな中途半端な叫びにならざるを得ない。

24話まで、わりとしっかり物語ができてテーマ的にも構造的にもニュアンス的にもよくできているのに、オンエア版にしても劇場版にしても25・26話は物語があんまり大事にされてない感じがあって、それが私自身としては残念だ。オンエア版ではテーマ偏重、劇場版では物語構造偏重とでもいえばいいのか。ここまで盛り上げておいたらいくらでも感動の火花を散らせる場面を無限に配置できるのではないかと思うのに、内容より形式を重視して組み立てている感じがしてなんだかもったいないなと思ってしまう。しかしそれも、我々の世代に共通の物語軽視なのかもしれないという気もする。

レイ・シンジ・アスカもそれぞれにキャラクターの枠を決められて、属性の範囲内で表現がいろいろされてはいるけれども、その範囲内に収まってしまっている気がする。アスカの復活の戦闘場面での表情なんかは極端すぎて日野日出志みたいだし、シンジの目も日のでなければ楳図かずおだ。何か私がホラーがあまり好きでない(ニュアンスに欠けるから)からそういうふうに思うところもあるんだろうけど。シンジもアスカを欲望の曖昧な対象にして入院しているアスカの肉体に欲情してマスターベーションしたりしていて、何というか醜いブタ。マゾであるシンジがサドであるアスカに依存して「ぼくをバカにしてくれよ!」と動かないアスカに叫んだりしているのもどうなんだ?という感じになってる。ラストでもアダムとエヴァ的に生き残ったシンジが泣いてるのに目を覚ましたアスカが「キモチワルイ」とか言ってて、そういう愛の言葉はないだろうと思うが、SMという要素を通して納得しろということなのかと思った。マゾのアダムとサドのエヴァがつくりだす新しい創世記っていったいどんななんだと取りあえず突っ込みを入れてみたりしたが。

で、結局一番特異なキャラクターである綾波レイがその存在感を突出させるということになるんだろう。エヴァのキャラクターの中でレイは突出した人気を持っているというが、まあそれだけ特異な存在感を持っているのは事実だ。設定からして普通の人間ではないし、レイに関しては要素だけでなく存在としてのリアルがあって、設定を越えた存在になっているように思う。ウィキペディアを見ていて庵野がレイに関して「レイは感情がないのではありません。知らないだけなんです」と言ってるのを読んだのだけど、それもすごくよくわかるなと思った。それは私自身も、「感情を学ばなければならない」という思いを強く持ったことがあるからだ。当然、いやだとか怖いとか痛いとかそういう子どもっぽい感情は持っていたけれども、やさしさとかあたたかさとかいつくしみとか思いやりとか、そういういわゆる「人間らしい感情」みたいなものが自分には足りないなと思っていることがあるからだ。それでそれからあえて意識して感情的に振る舞うようにしているところがあって、それは今でも続いている。せっかく表面に出てきた感情的なものがまた12万枚の装甲板の奥に、ATフィールドの奥に立て籠ってしまうことを、私自身がいまだに恐れているところがある。感情を知らないレイが一つ一つ感情を覚えて行く場面が感動的なのは、人間の形をしているのに人間でないものが、一歩一歩人間に近づいて行くある種の倒錯的な過程を見ることの感動をどうしようもなく覚えてしまうからだろう。あのLCMの中のレイのダミーたちは、私自身であるかもしれないと感じているのかもしれない。

人類補完計画、それをともに目指しているゲンドウとゼーレがなぜ対立するのか分からないのだけど、前者がサードインパクトを避け、後者がそれを求めているということなのだろうか。でもそれもそれがなぜなのかよくわからないのだけど。オンエア版では人類の補完というのは個人の足りないところを埋めるということなのかなという印象になってしまったが、劇場版の方は個人の意識の壁、物理的な壁を消滅させてすべてが一体化することとして表現されている。このあたり、諸星大二郎の『生物都市』を思わせる。多くの大人たちがその中に飲み込まれ、一体化して行く中で、少年だけがそれに加わらないところも似ている。「会いたい」というシンジの思いが「補完」をやめさせ、一体のエデンの園からアスカとともに現実に戻ってくる。

そしてそれを実現させたのがゲンドウを捨ててシンジのもとにやって来たレイで、レイによってその選択権がシンジ個人に与えられる。すべては碇の息子に委ねられたと冬月はいうが、セカイ系が誕生した瞬間だと言えるように思った。まあこのあたりからラストにかけての展開、ある種の憤りや疑問を覚えたりもするしまあいろいろだ。また考えが出てきたら書いてみようと思う。

少年が物語の最後であらかじめ用意された展開を拒む、という点ではやはり諸星大二郎の『マッドメン』を思い出すが、しかし『マッドメン』のコドワはそれを「拒む」強さを持っていて、それは『風の谷のナウシカ』漫画版でナウシカがヒドラが守ってきた楽園や清浄な人類の種子を拒むのと同じなのだけど、シンジは強さでなく、「会いたい」という思い、「愛」のような曖昧な弱い思いによって地上に帰ることを選択する。そのあたりは諸星大二郎で言えば『マッドメン』よりは『暗黒神話』に近い。

25話と26話、総じてオンエア版と劇場版とどちらがいいかいうのは難しい。というか一長一短で、これで決まり、みたいなものはない。それを作るという意志もないのだろう。比べてみるとオンエア版もそれはそれで面白いし、劇場版のアクション要素の過剰をはじめとする生硬な過剰性もまあそれはそれでいいと言えなくもない。劇場版で一番いいのは、滅びて行く過程の描き、その美しさみたいなものなんだろう。ネルフの一人ひとりが「補完」されて行く。リツコに「補完」されるマヤの倒錯した美しさの輝きが私の印象には強く残る。まるで平家の滅亡のような、小林秀雄だったか、「滅びゆく平家はただ美しい」という言葉を思い出させる。

見終わってみて、なんだか最後の方はいつものように集中して見過ぎてかなり疲れたのだが、すごい清々しさと充実感を感じている。見るべきものを見た、という感じ。いままで、見るべきものを見てなかったという感じ。見なければならないものを避けてきた、という不全感がやはり今まではあったんだなと思う。本屋で感じたように、世界の理解が確実に一つ進んだという感じがする。

レイがゲンドウよりもシンジを選んだ意味とか、まだ考えたいことは残っている気がするのだけど、取りあえず『エヴァンゲリオン』は見終わった。このある種の混乱、ある種の歓喜。この中から、自分自身の新しい創造が生まれて来ることを信じて、『エヴァンゲリオン』のページをひとまずは閉じようと思う。

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