エヴァンゲリオンと業の浄化

Posted at 11/11/22

今朝は氷点下0.9度まで下がった。私がいる中ではこの秋一番の冷え込み。昨日の夜東京から戻ってきたけれども、夜は冷えるだろうなと思っていた。午後のうちに市役所の人に来てもらって温泉の配湯量を増やしてもらったので夜はゆっくりと温かいお湯に入ることができて良かった。

日曜日は横浜へ直接行って友人と会ってかなり時間をかけて話をした。アイデアを出したり計画を立てたりする話だったからかなり疲れたが、やりがいはあった。私の方はと言えば、ずっとエヴァンゲリオンを見ているわけだけど、日曜の夜に19話を見て月曜の朝に20話を見たのかな。続きを見たくなって結局地元のツタヤへ行って第6巻を借りて、21話のオンエアフォーマットとビデオフォーマットを見た。郵便返却ということで昨日のうちにもうポストに入れてしまったけど。編集もかなり違うし、両方見るとやりたいことがより明確になって来るように思う。っていうか、やりたいことがよりリアルに、どんどんリアルに感じられるようになってきている。

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心象風景もシンジのものが中心だったのが、21話になると冬月副指令という地味なキャラに焦点が当たって、かなり客観的な立場から見た地球に起こったセカンドインパクトの惨劇とその影響、ネルフの成立が描かれ、22話ではアスカの、23話ではレイの心象風景が描かれてそれとともに彼女らの背負っている業のようなものもまた明らかにされている。このあたりすごくフロイト的な図式にのっとって描かれていると言っていいし、考えてみるとそれは今や古いタイプのドラマなのかもしれないのだけど、そして私自身もそういうものの先にあるものを求めようと思うようになってきたところもあるのだけど、しかしやはり自分の中にはそういう業を背負って生きる人間たちの過去の浄化のようなものにどうしようもなく魅かれるところがあり、逆にそういうトラウマであるとか過去に縛られる自分のようなものこそがキャラクターのリアリティを存立させているところは確かにあるのだなと思った。『まど☆マギ』でも一番リアルなのは一番長い時間を生きているほむらであるわけだし、過去こそがキャラクターのリアルを支える大きな要素であることは間違いない。

エヴァンゲリオンはそういう正面から人間の業を描いていて、それぞれの人間だけでなく人類の業のようなものを描いていて、女であること、母であること、科学者であること、戦士であること、真実の探究者であること、それぞれの業が組み合わさって成り立っているそういう普遍性を持っているが故に古いかもしれないが骨太なドラマになっているのだなと思う。

こういう業が爆発するタイプのものをもともと私も書きたいなと思っていたことを考えていて思いだしていた。劇団が中で二つに方向性が分かれた時に最後に書いた戯曲が古事記の眉輪王の説話をもとに古い海運会社の経営者一族の崩壊を書いた(あまりリアリズムではないけど)ものだったのだけど、構成の緻密さとかもちろん相当違うのだけど、主人公は自分の殻にこもった少年で、何年も眠ることができず、白日夢を見ているという設定だった。上演時にはさらに言葉をしゃべることができないという設定を加えて、身体表現だけでその役柄を演じるという方向性になっていたが。『晩鐘』という題だった。いまエヴァを見ていると、あのころ私が書きたかったことを書き切ってくれているという感じがすごくして来ていて、なんだか安心した気持になってくる。自分は当時、全くそれどころではなくて、またその取り上げられ方も全然自分に今見えているエヴァ像とは違う取り上げられ方だったから近づきもしない、避けてきたものだったのだけど、同じ世代の人が私とすごく大きな世界像を共有してこういう世界を描いてくれたことにすごく大きな安心感をさえ覚える。この作品は、作られるべき作品だったのだ。少なくとも私のために。まあ親鸞の言う、弥陀の請願は私一人のためのものだったのだ、という感慨と同じようなものだけど。

我々の世代の、と書いてしまうと反論があるので、少なくとも私が感じていたある種のリアルと同じものを共有している人たちが私の他にもいて、その世界観――自分の中で、世界観と言えばほとんど終末観と同じ意味だった――、人間観、女性観、社会観、そういうものがかなり徹底的に描かれているように思う。そしてアニメーションというものがこの種の表現として最も優れている、ないしはアニメーションの分野に自分に近い世界観を持った人たちが多く入り込んで、自分が納得するものを撮ってくれたんだ、と思う。宮崎駿の作品もそうだけど、私は子どものころに大好きだったアニメにあえて触れないようにして思春期以降生きてきたから、今その豊饒な世界に触れてめくるめくような思いをしているわけなのだけど、なんだこんなところで自分が真剣に悩んでいたこと、あ考えていたことを表現し、ある意味代弁してくれる作品が作られていたのかと苦笑いをするとともにすごく安心している感じがとてもある。

私たちの世代は若いころから新人類といわれていて、誰もがその類型に当てはまるとも思わないけど、私自身はけっこう自覚的にそう思っていたのだけど、枠からはみ出したり戻ってみたり拒絶してみたり掘り起こしてみたりしながらいままで生きてきて、途中で何が何だか分からなくなってしまった感じがする。この作品の作られた1995年は地下鉄サリン事件と阪神大震災の年で、私の中でも何かが大きく変わってしまった年だったのだけど、この作品はその年までの集大成として、つまりはその年からの出発点としてとらえることができるというか、その時点での自分をはっきりさせ、ある意味海の中で漂っている海月のような危うい足場に立って風を感じている私のたどってきた道と進むべき進路を指し示す大きな道しるべになってくれる感じがする。95年の時点でこの作品を見たとしたらどう思ったか分からないけど、今の自分にはそんなふうに感じられる。

一つ分かったことがあるのだけど、トラウマとか過去というものをもとに物語を組み立てるということは、たましいは救済されるべきものだと思っているということなのだ。庵野自身がどういうかは別にして、私自身はそうだと思うし、私自身もたましいは救済されるべきものだと思う。

宝物になるものを作りたい。たましいが救われるための話を作りたい。人が生きて行くときの明かりになるような話、それは同時に人が生きて行くときに足をすくわれる暗がりになるような話なのかもしれない。でも、そういう話を作りたいと思う。いまは。

18時の特急で帰郷して病院に直行し、帰りにツタヤへ回って第5巻を返して第7巻と第8巻を借りて帰った。第22話を見終わった後、近くのポストまで歩いて郵便返却した。

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