人は後ろ向きであることにさえ快楽を感じることが出来る/魔法使いのおばあさん的なもの

Posted at 11/11/13

【人は後ろ向きであることにさえ快楽を感じることが出来る/魔法使いのおばあさん的なもの】

おとといから昨日は弟が、昨日から今日にかけては下の妹が来てくれるということで、私は2週間ぶりに上京することが出来た。近くのローソン止めにしてあったカニグズバーグ『ぼくと<ジョージ>』(岩波少年文庫、1989)がなかなか取りにいけず、キャンセルになるのではないかとひやひやしていたが、昨夜ようやく取りに行くことができてほっとしている。

久しぶりに帰ってくると、やはりほっとする。実家では全部が自分の思うように物を配置したりしているわけではないし、もちろん職場もそうは出来ない部分がある。自室はそれなりに出来てはいても、生活のすべてを委ねられるような状態ではないから、とりあえず丸一日外に出ないでも生きていけるような場所にいるということがどんなに気持ちが安らぐことか久しぶりに感じた。

とりあえず、エミリー・ウングワレーの画集(国立新美術館で展覧会をしたときのカタログ)とターシャ・テューダーの絵本を持って帰ることにした。考え出すとあれも欲しい、これもほしいという感じになってくるがもてるのは限りがあるしダンボールに詰めて送るのも大変だから、一度東京まで車で来て物を持っていったほうがいいかなという気もする。今後どの程度上京できるのか見当がつかないから、しばらくは調整しながらということになるだろう。

この二人の名前を書いてみて思ったが、私は「おばあさんの魔法使い」みたいな人がけっこう好きだなという気がした。考えてみれば白洲正子とか塩野七生とか、塩野さんはちょっと申し訳ないけど、そういう感じの人がわりと好きかもしれない。好きなことをやっているうちに90歳くらいになっちゃった、みたいな人の持っている力。猫は二十年生きると化け猫(猫又?)になるというが、女の人も90歳まで好きなことをやり続けたらやはりある種の魔法使いになる気がする。

今朝は谷川俊太郎と宮藤官九郎ともう一人が出ている「ボクらの時代」を見ていたのだけど、おもしろかった。表現の第一人者の言うことって面白いなと思う。文字で読むより、映像でしゃべっているのを見たほうがやはり感銘がある。

男でもなんと言うかハイブリッドというか年をとってくるとおばさん化してくるという話があったけど、最近の年よりはそういう傾向が確かにあるな。年をとってもどんどん先鋭に男だなと思うような人はやはり最近は数少ない感じがする。桜井章一はそうだけど。昔の人を考えると、小林秀雄とかも男だなという感じが強い。おじいさんか。まあこういうのは時代なのかな。

まあ国会全体が圧倒的におじさんの方が多いはずなのにおばさんの井戸端会議みたいになってるからなあ。何かきまって何か動いているんだろうか。

やはり田舎にいると肩肘張ってないといけない時間が長いんだよな。それがやはり疲れる。週に一度それを逃れてリフレッシュできるというサイクルはよかったんだけど、今後は少し考え方を変えないといけないかもしれない。

扇風機をしまって、ホットカーペットとガス暖房を出した。次にいつ来ることになるかは分からなくても、きたときにはちゃんと温まれるようにしておきたいなと思ったので。

『月刊全生』の11月号の巻頭言、すごく感銘を受けたので引用しておきたい。

「蒼い空は快いし、その浮かぶ白雲の悠々たる遊びも面白く、黒雲来たるやと見るや降り出す夕立も、之に伴う雷鳴雷光も勇ましく爽やかなものです。
 寒ければ火は温かいし、暑ければ風は冷しいし、冬になれば美しい雪が降るし、人間の生きている世の中も又美しく快いものであります。
 暑ければ汗が出るし、寒くとも働けば温かくなるし、疲れれば眠くなるし、醒めれば働きたくなるし、食えば旨いし、空けば快いし、その大小便することに迄快さはあるのであります。
 生きていることそのものは、生きているものの欣びであります。  晴哉」

 寝たら気持ちよいし、起きたら爽快だ。働いたら心地よく疲れるし、風呂に入ると快い。人間が活動することには何もかも快感、快さが伴うんだという当たり前のことに気がつかされた感じがする。たとえばセックスの快感だけを特権的にすばらしいとする考えというのも、考えてみればかなり考え方に偏りがあるといえなくはないなと思った。人間の欲望というのはたくさんあるけど、生きていることそのものの快さの枝分かれしたものが快感で、それを満たす、感じることによる快さというのが本来の喜びで、それは生きていれば味わう気になれば味わえるものなんだよなと思う。いわゆるとめどない欲望というものは頭の中で作り出される、脳化された、つまり幻想に疎外された欲望ではあって、まあ自分の欲しいものを手に入れる、実現するというのは人間本来の欲望ではあるけれども、生きていることを自体を感じる喜びがあってこそのものだなと思う。

母が入院してみて、自分の自由になる時間が減ってみて、それをいかにやりくりしつつ自分のやりたいことをやっていくかということを考えてみると、無駄なことをやっている時間はないなと思う。

なんというか、人間は生きていくためには自分自身をいくらでも欺いたりするわけで、それはある意味生物としての本能的な知恵なんだなと思うけれども、うまくいかないときも敗北感とか挫折感とか後ろ向きの気持ちの中にもなんともいえない甘美なものが伴ったりしてしまう。それは自分を追い込みすぎないための生物としての必死の本能の働きなのだと思うのだけど、その甘美さ自体が再び前向きに立ち上がるときの障害になったりもする。世の中の片隅で自分のしたいことをそれなりにして生きていければいい、という隠者的な楽しみかたというのがどこかわたしにはあって、そのことは自分の本当の気持ちとしてはそんなに好きじゃないんだけど、どこかそういうものに妥協しているところがあったなと思う。人は後ろ向きであることにさえ快楽を感じることが出来る。それは恵みであるとともに脅威でもある。

このところ、創作のためのアンテナというか、感情のアンテナのようなものを張ることのみに自分の中で専念していたところがあったのだけど、どうもそれだけでは不足だなと思う。創作のためという意識だったけど、それが本当に創作のためになっているのかもよくわからない。感情のアンテナのようなものは多分意識はしていたほうがいいのだが、それだけではなく、新しいことが起こったとき、新しい事態が展開したときに、人間としての多面的な力、知識とか経験とか勘とかその他もろもろ、また専門的な部分に少し入り込む領域での知識や力、勘、そういうものを駆使して状況を受け止め、対応を考えて決めて、実行する力のようなものが必要で、その部分部分は人に任せたりやらせたりすることも含めて、受け止めたり考えたり決めたりすることは自分でやらなければいけない。

そうした中で、状況を自分で果敢に切り開いていく男的な行きかたをしなければいけないこともあるけど、状況が自然によくなっていく、なんとなくいつの間にかうまく行ってるみたいなおばあさんの魔法みたいなものが今必要な感じもするし、だいたいもともとそういうものが好きなんだなとも思う。そういうおばあさん的なものが好きだという観点からも自分の生活を見直して立て直してみるのもいいかなという気がした。

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