負けないための論理と勝つための直感

Posted at 11/10/09

【負けないための論理と勝つための直感】

今日は今まで一日のんびりしている。というか、小説を書くための前段階として気持ちをニュートラルと言うか純粋に明るくして自然に走り出すような感じにもっていくのに費やしていると言えばいいか。身体と精神のバランスと言うのは常に問題で、そこのバランスがうまく取れているときはいいのだけど、常に取れているわけではない。大局観をもつためには広さと深さの把握を同時にしなければいけない、と羽生善治が言っていてなるほどなと思うのだけど、自分の中に用意された新しい作品を収めるためのスペースみたいなものの広さと深さを確認しながら、新しい話を考えていくことが必要なんだなというイメージを持った。今まで、中に入れるもののことばかり考えていたけれども、自分の中での器と言うか、それを収めるスペースみたいなものについても考えていく必要があるなと思う。今まではそれを自然に広げて作っていたのだけど、いつも前に向かっていくためにはそのスペースをあらかじめ用意しておかないといけないなと思う。今はだいぶ広げてはいるのだけど、そこに入ってくるべきものがまだ物足りないかなと言う感じだ。

そしてそういうイメージを持ってみると、一つの作品を生み出した後、新たな作品をそのスペースに宿すまでにはある程度時間が必要なんだと言う感じもわかる。ひとつの作品を生み出した後、そのスペースが再び作品を宿す力を持つようになるまで弾力を回復しなければいけないと言うか、そういう感触を持った。小さい作品が呼び水になってさらに大きな作品を生むとかそういうことはあるけど、大きな作品ができるとしばらくなかなか新しいものを宿すのは難しかったりする。

絶望の国の幸福な若者たち
古市憲寿
講談社

昨日は午後から夕方にかけて仕事をして、飛び入りで一つ文章を書かなければならなくなったので上京の特急を一本遅らせて何とか仕上げた。それで少し精神のバランスを崩したので、それをニュートラルにもっていくのにだいぶ苦労した。昨日は家に帰ってきて寝たのが3時過ぎになり、今朝も起きたのは9時になっていた。それでも疲れが取れてなくて、午前中にブログは書けず、昼ごろ日本橋に出かけて丸善の地下で原稿用紙ノートを買って本を物色し、前から買おうと思っていた古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社、2011)を買った。それから3階のカフェで昼食をとってまたなんとなく本を立ち読みしていたら岡田武史・羽生善治『勝負哲学』(サンマーク出版、2011)と言う本が面白く、結局買った。またサンマークだが、やはりサンマークはどうしたら本が面白くなるかのつぼを押さえた編集者がいるんだろうなあと思う。この本はいろいろ面白いのだけど、たとえば先に上げた羽生の言葉もそうだが、「負けないためには論理が必要だが、勝つためには論理を超えた直感が必要だ」、と言うような話がとても面白いと思った。

勝負哲学
岡田武史・羽生善治
サンマーク出版

これは自分の分野でいえば、つまらなくない小説にするためには構成していく上で論理をちゃんと通していかなければ(構成の論理であってストーリーが論理的でなければいけないというのとはすこしちがう)いけないが、面白い小説にするには直感やひらめきやそういう論理を飛び越えたものがなければいけない、と言ってもいいと思う。エッジが立つとか、おっと思うとか、そういう言い方をしてもいい。本を読んでいてそういう部分がないと結局時間の無駄だったなと言う印象になる。立ち読みして買った本と言うのはまずそういう部分がちゃんとあるわけだ。論理的な部分と言うのはまあ、勉強すれば誰でも述べられるし迫れる部分で、もちろんそういう部分だってそう軽視していいわけではないのだけど、正直言って私にとってはつまらない。そこには生きている実感がないからだ。やはり直感とかひらめきとかの部分があってはじめてそこに「生きている」あるいは「生(なま)の」感じが生まれるわけで、私は常にそれを求めて本を渉猟していると言っていいのだろうと思うし、当然そういうものを書きたいと思っている。

しかし、当然ながらそれは必ずしも「計算が立つ」ものではなく、「計算が立つ面白さ」によって安全に儲けようという立場から言えば危険な賭けに見えるのだろう。しかしリスクをとらないのが最大のリスクだと言う羽生の言葉を待つまでもなく、リスクをとらない国は衰退していくだけであり、日本が陥っている最大のジレンマはそこにあるのだろうと思うので、そこは常にチャレンジしていかないといけないと思う。

なんというか、論理的な部分と直感的な部分を徹底的に窮めて行けば、最終的には必ず直感的な部分のほうが勝つのではないかと思うのだ。なぜかと言うと、われわれは生きているから。論理はいわば死んだ部分であって、その積み上げによって防御を固めることは出来ても、そこからは意外性は生じないので結局物量のみの戦いになる。今の日本は対米戦で物量で負けたと言う意識が強すぎるからついそっちを重視してしまう傾向が強いのだけど、現代のようにハードよりソフトの戦いの時代になると、問題は物量や論理ではなくひらめきや直感、アイディアの部分になるし、それがたとえばジョブズとかなのであって、物量で勝ったアメリカが今ではアイディアでも最先端を走っていると言うことは肝に銘ずべきことだと思う。

通常は論理を積み上げ積み上げていってそれ以上積み上げきれなくなったところで直感で勝負すると言うことになるのだろうけど、逆に論理よりも型とかさばき方とか流れだとか勝負の場の広さや深さを見ているうちに見えてくる大局に乗って手を打っていく、ある意味通常の意味での、つまり頭で考える論理を完全に捨てて体が勝負のリズムに乗ってくるところから勝負するという行き方もあるんじゃないかと思うし、たとえばそれが桜井章一の麻雀なんじゃないかとふと思ったのだけどそれはまあまたテーマにすると何かありそうな気はする。

しかしなんというか世の中の趨勢と言うのはそういう方向ではなくて、正直言って、日本には面白いものを面白くなくしてしまう魔法使いのような人が住んでいるのではないかと思うときがある。たとえば昔あんなに面白かったマンガ家が、なぜこんな感じになってしまったんだろうかという。その原因・責任はマンガ家本人にのみ帰せられるべきものではないのではないかという気がするのだが。

帰ってきて一寝入りしたらだいぶすっきりして取り敢えずブログは書いた。まだ東京は半袖の人たちも多いけれども、日中でももうだいぶ影は長くなってきていて、季節は確実にまわっている感じがする。今は5時半だが、もう外は暗くなってきた。

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