人間離れしたもの/プロテクション/あえて「がんばっている自分」を見せる意味
Posted at 11/10/02 PermaLink» Tweet
【人間離れしたもの】
昨日夜帰京。自分の中を寝る態勢に変換するのがあまりうまくいかなくて、結局カウントダウンTVを全部見て2時から風呂に入って寝た。朝は友人から電話がかかってきて起こされ、10時半ごろまで話す。なぜか薩摩の琉球支配の歴史からバイキングのノルマンディー支配、ノルマンディー公のイングランド征服まで話が及び、長大になってしまった。
昨日寝る前に今日ブログに書こうと思っていたネタ、メモを見直してみたら少々不穏なのだけど、まあ裏返しだけど結局はオマージュなのでいいんじゃないかとも思う。
また香川照之のことを考えていたんだな。彼は本当に私にとっては了解しにくいところがあって、というかなぜ彼のことをこんなに考えなければいけないのかすらよくわからないのだけど、なんというか、彼の本当はどこにあるのかなとか考えていたんだろうか。何を言っても本当なのかな、と思うところがあって、なんだか全部うそなのかもしれない、この人は天成の嘘つきなのかもしれない、言ってることもやってることも全部仮面なのかもしれない、とか思ってみたが、まあそういう仮面を演じ続ける自分こそが彼の本当の自分、なのかも知れないとか、思ってみたり。まあ役者って多かれ少なかれそういうことはあるにしても、それにしてもどこかで素顔を見せてるんじゃないかと思うんだけど、彼の場合はあんまりそういう感じがしない。でも逆に演技だと思ってみていると、それが本当の彼だったりすることもすごくあるんじゃないかと思う。
なんというか私は彼の演技がそんなに素直に「巧い」と思えないところがあるんだな。表現なのか、それ以外の何かなのかがわからないというか。表現からはみ出した何かがある、というと天才の形容になるわけだけど、彼は普通の意味でのそういう天才ともまた違う感じがする。かといってメンタルに何か持っている人特有の何か、というわけでもない。それはまあ、ある種の狂気なのかもしれないけど、ちょっとなんというか人間離れした変なものを飼っている感じというか、そういうところがある。
彼がインタビューで、人の心の底には蛇のようなものがいる、というようなことを言ってたけど、蛇というのはなんというか言いえて妙なところがある。天使とか悪魔とかなんだかそっち系の人間離れした何かを彼は持っているような感じがして、通常の人間を演じていても、誰を演じていても役不足みたいなところもあるのだ。小林秀雄が豊臣秀吉を評して、「秀吉なんて言うのは現代の役者が演じて演じられるような人間じゃないんです」と言っていたと茂木健一郎が書いていたが、そんな大天使でもあり大悪魔でもあるような秀吉のような人間をこそあらゆる枠を取り払って彼が演じてみるとすっと納得するような人物像ができるのかもしれない。そのとき蛇は大蛇とか龍とかいった類のものになっている可能性はあるが。
【プロテクション】
なんか半分この世ならぬことを書いていて、この辺のところは朝友人と話していて注意されたことでもあるのだけど、私は変なものに対するプロテクションが弱い、と言うか無関心なところがあって、それで時々混乱すると言うことは確かにある。私は子どものころは無意識に何かに守られていると言う「自分は特別」みたいな感じがあったのだけど、大学生のころはそういうものが見えなくなってすごく何をやってもうまくいかないという感じのときがあり、稽古のときに演出家に「君は世界に愛されているんだよ」と強い言葉で自覚を促されたことがあった。それ以来それが魔法のような役割を果たしてはいたけれども、でもまあプロテクションに関してはすごく無頓着で、それで90年代にはひどい目にあったということはあるなと思う。
今はなんというかへんなものには基本的に近寄らないようにはしているけれども、もっとそういうものに対して機動性を持って近づいても少しなら大丈夫であるとか、自分が力を抜いてふっとしたときにちゃんと自分を守られた状態にするとか言うことをちゃんとしておかなければいけないと思うのだけど、まだその方法論は確立してないなと思う。
夜寝る前に頭を緩めてから寝るようにしなさい、とは整体の先生に常々言われているのだけど、寝る前にはいろいろな形でダメージを受けているからなのか頭を緩めると意識とかイメージとかが暴走を始めて制御できなくなる感じがあり、結局面倒くさくなって十分にそれらを鎮圧しないまま眠ってしまうことがよくある。なんというか頭はちゃんと緩んでないんだけどそういう暴走する象や虎のようなイメージや意識に無理やり麻酔銃を打ち込んで眠らせるような感じのところが、私の眠りにはある。で、起きてみるとそいつらが体のコリというような形で実体化してしまうという感じなのだ。
活元運動と言うのも瞑想の一種だといえると思うのだけど、これは道場でやると心おきなく集中できる。しかし自分ひとりでやるとどうも何かが中途半端になってしまう。それは守られていると言う安心感が足りないからだろう。結界が十分ではないのだ。そこらへんのところを何とかするように考えておかないといけないなと思った。
まあこういうことというのはあんまり普通に考えることでもないのだが、小説を書く内容のことなどを考えているとやはりどうしても踏み込まざるをえないようなところが私の中にはある。肉体的な物理的な世界と、精神的な世界と言うものはやはり隔絶している部分があって、そこに橋をかけるというたましいの業は、なにか物理法則からも精神法則からもつながっていない部分の要素が大きい。小説などと言うものは特に向こうから来るときは来るし来ないときには全然来ないものだから、作家というものは本当にたましいの世界に向かって常に窓を開けていないといけないようなところがある。
【あえて「頑張っている自分を見せる」意味】
昨日かおとといか月刊MOKUのバックナンバーを読んでいて、今度の大震災の後、『五体不満足』の乙武洋匡が東北へボランティアへいった話を読んで、感動した。手足のない彼が被災地で何ができるか、実際に行ってみて本当に考えたと言う。彼はそれまで、障害者だからという目で見られることを嫌っていて、普通の人が出来ることを彼がやると「すごいね」と見られることにとても違和感を感じていたのだと言う。つまり「障害者『なのに』がんばってる」と思われることがいやだったと言うわけだ。だからなおさら、障害者だって健常者と同じなんだ、何でもできるんだと言うつもりでエネルギッシュに活動してきたのだと言う。
しかし被災地に行けば、彼は瓦礫の片付けも出来ないし地震のときも結局電動車いすでしか動けない彼を周りの人たちが100キロを超える車椅子を運んでくれてようやく移動することができ、自分が何もできないと言うことを思い知らされたのだと言う。しかし被災地に行って、彼もまた被災者たちががんばって復興に向けて動いていることに感動していることに気づき、自分自身が「被災者『なのに』がんばっている」という目で見て、そういう風に見ることでやはり自分が『感動』を得ているいることにはじめて気がついたのだそうだ。そしてそう思ったときに、自分が被災地に行くことで何ができるのか考えてみて、「障害者『なのに』がんばっている自分を見せる」ことこそが被災者にエールを送ることになるんだ、と思い、それまでの自分のこだわりや美学をかなぐり捨てて、被災地の小学校でバスケットのドリブルをして見せたり、仙台の楽天の試合の始球式でボールを投げるところを観客に見せたりしたのだと言う。
もちろん今後どういう姿勢で生きていくのかと言うことは別にして、いま自分がやらなければならないのはこれなんだ、と思ったのだそうだ。これは本当にすごいことだなと思う。本当の意味で人間はみな「がんばって」生きているのだし、その「がんばって」生きている姿を見て、大変な人が感動し、癒され、生きる力になる、ということはある。それはたましいの協奏曲、宇宙の交響曲のようなもので、淀んでいた空気をさっと換えてさわやかに流れる風のようにたましいを自由にする空気に変えていくことができるということだ。それを感じ、それまでの自分を捨ててそのように行動した彼は、やはりすごいと思うし、人間の底力のようなものを感じることができた。
こういうことも、本当は政治の果たすべき役割であるはずなのだけど、でも日本にはそうやって普通の人にだってそういうことを出来る人がたくさんいる、ということが日本の底力なんだと思うし、そういうものがなくならなければ、日本はまだまだ大丈夫だと思う。まあいろいろだけど、そんなことを考えたのだった。
希望 僕が被災地で考えたこと | |
乙武洋匡 | |
講談社 |
この本を読んだわけではないが、『MOKU』のインタビューがこの本の出版を受けてのことだったようだから、内容的には同じ方向性のことが書かれているのだと思う。
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