上野・本郷界隈/玉川重機「草子ブックガイド」/魔法少女まどか☆マギカ:誰かの作った世界で生きるということ
Posted at 11/09/26 PermaLink» Tweet
【上野・本郷界隈】
おととい夜帰京。11日ぶりの東京。信州はもうだいぶ寒くなっていて最低気温8度というような具合だったが、東京はまだ余熱が残っているという感じで温度のギャップを感じる。東京に帰れば帰ったでついいろいろなことに手を出してしまい、寝るのが遅くなった。
昨日日曜日は沖縄にいる友人から電話がかかってきて目が覚めた。ひとしきり話をして、切る。東京の友人と今日会う約束をしていたのでメールで問い合わせ、午後に谷中のカヤバ珈琲へ行くことにする。上野駅の公園口で待ち合わせ、上野公園と国立博物館の間の道を上野桜木の交差点へ。昔はこの辺りもずいぶん寂れていた場所だったのに、最近は下町とか昭和レトロみたいなものがブームなのだろうか、どこへいっても人が多くて大変だ。カヤバ珈琲も最初は入れなくてほかの店を探して戻ってきたら入れたのでよかったが。
ひとしきりいろいろな話をして、場所を変えようと根津のほうへ歩き出したら沖縄の友人から電話。少し込み入った話になってしまったので東京の友人には謝ってそこで別れて落ち着いて話せる場所を探して歩き回るがなかなか見つからず、結局弥生町まで歩いて東大のキャンパスに入った。その中でも座り込んで話せそうな場所がなく(何しろまだ腰が本調子でない)、安田講堂の前のベンチを探したが親子連れやら犬の散歩やら学生の一団が頻繁に通り過ぎたり(考えてみたら当たり前だが)なかなか話に集中できない。結局そこも離れて中央図書館の前へ行ったら本日休館ということで人気もなく、階段横の石の手すりに腰掛けてしばらく話し込んだ。だんだん宵闇が濃くなっていったのだけど、電話の向こうの沖縄はまだいつまでも明るかったらしい。結局、今は悲しいのは当たり前だから悲しみを表現したほうがいい、やるべきことはやった上で、自分の悲しみを悲しいと表現したらいいんじゃないかというような話になった。相当意訳しているけれども。
しかしまあ、東京の友人は別れたあとなぜか根津の駅に出られずに谷根千界隈を駅を探して歩き回り、結局本駒込にたどり着いたという。本当に申し訳ないことをした。
私はそのあと本郷三丁目の駅まで歩き、丸の内線で東京駅に出て成城石井で買い物。ベーコンと卵とピクルスとアプリコットジャムとチキンレバーペースト。ほとんど朝食用だが、卵が思ったよりよくなかった。高いからといっていいとは限らないなと思う。
草子ブックガイド(1) (モーニングKC) | |
玉川重機 | |
講談社 |
そのあと丸善へ行って玉川重機『草子ブックガイド』1巻(講談社、2011)と市川春子『25時のバカンス』(講談社、2011)を買う。ついでに『魔法少女まどか☆マギカ』のコミカライズ作品をぱらぱら見たが、結局買わなかった。全3冊だから買ってもいいのだけど、どうせ買うならアニメ版かなという気がしたので。しかし考えてみたらこれはもともとテレビでやったのだからビデオで撮っておけばロハだったんだよなとも思う。レンタル代だけで6枚2000円払っているというのもなんというか不思議といえば不思議。DVDで買えば半端ないお金がかかるわけだし、なかなか微妙なものだなこういうものは。
【玉川重機「草子ブックガイド」】
25時のバカンス 市川春子作品集(2) (アフタヌーンKC) | |
市川春子 | |
講談社 |
そのあと4階に上がってカフェでスパークリングワインとプレミアムハヤシライス。『草子ブックガイド』を少し読む。もともとこの作品はモーニングに連載されているのは知っていたけど、今まであまり読む気になってなくて、ちら見しただけという感じだった。それが最新号の「老人と海」を取り上げた回がとても面白かったので、単行本も買ってみたのだった。これが思いがけず面白い。モーニングはそういう新しい作品、新しい作家を意欲的に描かせているけれども、自分としては連載目当てで読んでいるので新しい作家の作品は読む確率は半々だ。でもそういう作品の中からけっこう新しく連載作品が生まれてくるので、よい作品に当たる確率はかなり高いといっていいのだと思う。この作品のように後で面白さに気づいてフォローするようになるということもけっこうある。
ペンネームの玉川重機というのはお父さんが経営していた会社の名前だったそうだ。ごつい人たちがたくさんいて、でも高校生のときに倒産して、久しぶりに帰省してその人たちの消息を尋ねたら何人もの人がもう亡くなっていたのだという。そのときには永遠に続きそうだったその場の雰囲気、その場の世界が、一度ふとしたことでなくなってしまうと、それはもう永遠に帰ってこない。そういうことは理屈では分かっていても何か不思議なことで、今は一時分かれているけれどもいつかまた出会って昔のように、という気持ちがどこかにあるけれども、その「いつか」は永久にやってこない。今でも友達が死ぬたびに、改めてああ、あのころの「続き」はもうないんだ、と思うと不思議な気分になる。でも、それを大事にしたいという気持ちがこの人のペンネームにはこめられてるんだなと思うと、なんだか不思議な親近感がわいてきた。こういう作品を描くことからもきっとこの作者は読書好きなんだろうし、読書のとらえ方、作品のとらえ方も共感できるところがかなりある。絵柄はなんというかますむらひろしみたいで、これはちょっと好みが分かれるところかなとは思うけど、まああのますむら版『銀河鉄道の夜』のような不思議なレトロ感、温かみがある。7話中2話まで読了。
あまりゆっくりせずに東西線で帰宅。普段なら距離など感じない駅と家との間がずいぶん遠い。田舎では少し距離があるとすぐ車で出かけるし、運転席に座るとわりと腰がしゃんとするので腰痛も気にならないのだが、東京では基本は歩きなので、実はけっこう歩きが腰に来るということに気がついた。帰宅後しばらくは起きていてN響アワーなど見ていたが、辻井信行がチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を引き始める前に爆睡してしまい、第1楽章はまったく記憶がない。結局後半は聞けたけどブログも書かず風呂にも入らないまま寝てしまった。
朝起きると案の定けっこう腰に来ている。入浴して脚湯してかなり暖めたし、便秘も腰痛の原因になりやすいけど割合すきっと通ったので大丈夫かなと思ったけど、まだ少し変な感じが残っている。まあ今日はあまり出歩かないようにした方がいいなとは思った。
【魔法少女まどか☆マギカ:誰かの作った世界で生きるということ】
『魔法少女まどか☆マギカ』についてまた少し考える。おとといいろいろ書いたけれども、解釈と評価についてまだ自分の中でちゃんと決着がついてない感じがする。以下ネタばれを気にしていては書けないので伏せます。ウィキペディアなどでは博物誌的な分析というか、アニメ史・サブカルチャー史的な分析がなされているけれども、それはそれでまあ分からないではないけどだからどうなのというものであって、結局は受け取り手がどんな風にこの物語を受け止めたかということが問題なんだと思う。そういう意味ではみな一人ひとり受け止め方は違うのだろうが、私という人間がどう受け止めたかということについて。いやそんなことくどくど書くまでもないのだけど、全然そういう分析を読んでないわけでもないよということで。まあほんとはあまり読んでないけどね。まあなんというか、90年代以降のサブカルチャーについてはあまり基礎知識がないので引用してくるものもどうしても古くなるのだけど、この作品に関しては90年代とか00年代とかを超えたある種の普遍性を感じるし、そうした狭い枠組みの中だけで論じなくてもいいもののようにも思える。とにかくネタばれ含む内容は下のリンク先から。
魔法少女まどか☆マギカ 3 【完全生産限定版】 [DVD] | |
新房昭之監督作品 | |
アニプレックス |
こういう風に主人公が神や神に近いものになっていくという展開を、私はどうも無意識の中で避けていて、やはり人は人でいてほしいし神は神であってほしいと思っているのだろうなと思う。そこの境界線があんまり曖昧なのはどうかなという気がする。
しかしまあ、拒否ばかりしていても作者のメッセージを受け取り損ねてしまってもつまらないので、もう少し考えてみようと思う。
こういうパターンの作品の中で私が受け入れられた、というかむしろ傾倒したのは諸星大二郎で、『孔子暗黒伝』の赤や『暗黒神話』の武などはほかの登場人物たちが孔子だったり仏陀だったりタケミナカタノカミだったりまあそういう普通の人間とは違う人たちが多かったから最後に武が「弥勒」になったかもしれない、という結論をまあ受け入れられないこともなかったしその想像力のスケールの壮大さに圧倒された感があった。そのあと諸星の作品をずっと追いかけ続けたのも、彼が解き明かしていこうとする、ないしは描き出そうとしている『世界の秘密』というものを私も読みたい、知りたいという強い思いがあったからだと思う。彼の描く神やそれに類したものたちは圧倒的に人間的なものには無関心で、無慈悲で、しかしながら人間を否応なしに巻き込んでいく自然の恐ろしさのようなものの具現化でもあり、「災害としての神威」みたいなものがよく表現されていて、圧倒的なこの世の摂理の暴力とその中でこじんまりと人類が作り上げた守られた空間との対比、みたいなものを感じていた。
出来ればそういうものを書きたいという夢、野望のようなものを私は子どものころから持っていたのだけど、それはなかなか実現しなかった。
しかしいつのころからだっただろうか、その傾向がだんだん変わってきたような気がする。たとえば村上春樹の描き出す世界も、ある意味ファンタジーだ。彼の描き出す世界はとある個人、それも普通の個人が努力したり何かしたりすることによって世界のルールが変わりえるような世界で、ある意味最近のいわゆるセカイ系の物語群と構造が等しい。どちらも90年代半ばにそうしたものが明確に作られてきているという点でも、そのあたりでどこか「物語」というものが構造変化を起こしたのではないかという気がする。
多分90年代半ば――おそらくはそれが明確化したのは1995年の地下鉄サリンと阪神大震災――に、何か精神世界の構造が変わってしまったのではないだろうか。その変化はもっと前から出ていたとは思うけれども。私自身がちょうどそのころから精神的危機に陥ってしまったり、滅多やたらに忙しくなって世の中で何が起こっているのか客観的に見られていないのが痛いのだけど、そのあたりで地獄の釜の蓋が開いたというか、何かが大きく構造変化したのではないかという気がする。もう一つは、冷戦が終結して世の中はポジティブに変わっていくという予感による世界の変化に対する甘い見通しもあったかもしれない。それが間違っていたことは同時多発テロその他によって思い知らされていくことになるわけだけど。
だからある意味、われわれ以上の世代は、「一身で二世を生きる」経験をしているという自覚を持たなければいけないように思う。それは敗戦のような巨大な価値観転倒を伴う激しい断絶としての経験には見えないが、実際には敗戦と同じような大きな変換が起こっているのだ。
ああ、何か話がずれたというか大きく行き過ぎて書ききれない。そういうことを書きたかったわけじゃない。
まど☆マギの最終話、まどかは「すべての時代を生きた魔法少女の祈りや願いをうらみや憎しみで終わらせない」という望みと引き換えに魔法少女になる。そして歴史上すべての魔法少女を魔女に堕すことから救い、最悪の魔女「ワルプルギスの夜」すらも救済して、世界を作り変える。そしてまどかは人間でもソウルジェムでもなく、世界を成り立たせる「原理」の一つとして非人格化し、すべての人にその存在すら忘れ去られて新しい世界を守るようになる。
これはある意味『ブレイブ・ストーリー』の人柱のようなものだが、ブレイブでは女神の意思により選び取られた人間が人柱として幻界を1000年のあいだ守っていくことになるけれども、まど☆マギではまどかが自ら選び取るところが違う。それは時間軸を何度もたどりなおして出口を探してきたほむらのまどかへの思いに答えることでもあり、またそれを超えてまどかの「願いを恨みで終わらせたくない」という思いを実現するという強い明確な意思の表れでもある。
そしてほむらはまどかによって更新された世界の中で、ただひとりまどかの記憶を持ち、つまらないくだらない世界であっても、まどかが守ろうとしたこの世界、まどかが世界の基本原理として働き続けているこの世界を守っていく、という決意で戦い、生きていくことになる。
……と書いてみたが、正直この設定をどう受け入れるべきなのか、ということが自分にとって一番大きな問題で、自分の理解できる線からとこうとしてみて前回の記述と今回の記述になっているわけだ。セカイ系の物語に親しんでいる人から見れば、こういう結論はひとつのバリエーションに過ぎないのかもしれないが、私にはそういう受け取り方はなかなか難しい。まあ難しく考えすぎだというのが妥当なところだが、それじゃあやはり物語の読む側としては消化不良なので、もっといろいろ考えてみざるを得ないのである。
「この世界は、誰かが作った世界なのか」
それが一番根本的な問題なのだ。
キリスト教など一神教の世界ならば、それは答えは明確であって、神が創ったのだ。日本人は、特に最近のそうしたセカイ系の世界観ではわりと簡単にそういう構造に人間が介入して行ってしまうけれども、そういうことには私はかなり抵抗がある。聖俗の規範についてはどうも私はけっこう潔癖なところがある。まあそれはともかく、一神教世界ではまあいわば「創造的世界観」を持っているわけだ。
日本的な世界観では、「天地初めて発(ひら)けしとき、高天原にありませる神の御名は天御中主神…」という具合に、天地が先に出来て神は後に生まれてくる。まるで雨が降った後の大地に草木が生えていくように、萌えいずる生命の一つとして神もあり、そうした神話的な世界の中でルールは取り決められていくけれども、創造主は誰でもなく、世界があってそこに生命が生まれたという世界観だ。私はそれを「初発的世界観」と呼んでいるのだけど、日本的な生命力の強い土地柄ではそのほうが実感に近いように思う。
とまあここまで書いて気づいたが、つまりどんな世界でも「世界のきまり」というのは神話的な世界の中で取り決められていくものなのだ。つまり、まど☆マギを含め、そういうストーリーの根本的な特徴は、人間的な世界がそのまま神話になっていく、というところにあるわけだな。「残酷な天使のテーゼ」にあるように、「少年よ神話になれ」というわけなのだろうか。
まあ世界を壮大なものというか、宇宙全体の原理のようなものと考えるとそれがあまりに人間的であることにはかなり抵抗はあるけれども、逆にこう考えることも出来るなと思うのは、この世界はある意味、誰かの作った世界であるということなのだ。つまり日常的なレベルでは、子どもの世界は基本的に親の作った世界の中で生きているのだし、学校へ行けば学校という国家的な意思、社会的な意思によって作られた世界の中で生きることになる。友情にしろ恋愛にしろ、人間関係はその人間間で作られていくものだし、そういう意味では「誰かの作った世界」の中で自分は生きているという実感を持ってもそうおかしくはないのかもしれないと。
ただそれだとやっぱりつまらない気はするな。
うーん、まあよくわからない。やっぱり取り敢えず、「誰かの作った世界を生きる」というテーゼ自体に違和感を覚える、ということで終わりにしておいたほうがいいのかもしれないな。
わからん。
どこに違和感があるのか。
まどかが更新された世界で新しく世界の存立原理の一つとして組み込まれる、という設定自体への違和感はあまりないのだ。なんていうか、ある意味世界ってそういうものだと思っているところがある。仏陀の意思が広大な仏教世界を作り出し、マルクスの一冊の書物が社会主義の栄光と挫折の1世紀を作り出したように、そういうことはありえると思う。まどかはすでにインキュベーターの秘密も知り、魔法少女の秘密も知り、そしてすべての魔法少女たちが魔女となってしまう事実も知って、あえてそれを変えたいと思う。それは王太子シッダールタの思いでもあり、カール・マルクスの思いでもあり、名を残さず消えて行ったすべての宗教家、社会運動家、革命家たちの思いでもある。「願えば叶う」という構造を肯定できるなら、変化を願うのは当然のことだし、その構造すべてを受け入れるなら変化が起こることも当然のことなのだ。
だから結局は、「それ」が起こった後のほむらの位置づけの問題なのかもしれない。
ほむらだけが、「それ」が起こる「前」の世界を知っていて、「後」の世界に生きている。ほむらは記憶の伝承者であり、それをインキュベーター(きゅうべえ)に話すが、その記憶を誰とも共有することは出来ない。わずかにまどかの小さな弟が「想像上の遊び相手」としてまどかの記憶をとどめているに過ぎない。まあこのあたりも突っ込んでも仕方ないような突込みどころではあるのだけど。
ああそうか、なんていうかその辺の構造がどうもあやふやに、曖昧になってしまっていることにつまりは不安というよりも不満があるということなのかもしれないな。
「すべてが終わった後の世界の構造」というのが、多分自分にとっては大事なことなのだ。世の中は本当によくなったのか。魔女という存在は(魔法少女は魔女にならずに消滅することになったから)後の世界にはいなくなったけれども、魔獣というものは存在して、やはり魔法少女は戦っている。魔獣はどんな存在であるのかはまったく提示されていない。どんな風に世の中が変わっても、やはり人の世はつまらない、くだらない部分があることに変わりはない、ということを言いたいのだと思うし、まあそれはそうだろうと思うけど、でもそういう放り出され方はあんまり私は好きではないな。
まあつまり、もっとちゃんと落とし前をつけてほしい、ということなんだろう。
私が「ナルニア」が好きなのは、「さいごの戦い」の後で来るべき世界について、ちゃんと書かれているという点が大きい。それまでのストーリーだってもちろんどれもこれも面白くわくわくしながら読んだのだけど、「さいごの戦い」を読むことでこのストーリーは一生忘れられない物語になった。「ドリトル先生」や「ホームズの冒険」にも熱中したけれども、それらと「ナルニア」のどこが違うかといえば、最後まで責任持って作り上げた架空の世界を描いている、というところなんだと思う。物語が終わっても、その先に歩いていくべき通路があり、信頼できる道しるべがある、という感じである。
物語のスピード感から言って、おそらくはあれ以上、「それ」以降の世界を描くことは出来なかったんだろうとは思う。まあそういう意味で言えばこの願いはないものねだりなんだろうなとは思う。あくまでこのストーリーは「魔法少女もの」の商業作品なのだから。
ただ、この世界、このくだらない世界にだって生きる価値があり意味がある、というテーゼをもっと押し出せるならもっと押し出せればよかったなという気が私にはするし、なんというか宝石箱をひっくり返したような全体の構造と華やかな映像描写、音楽造形の完成度から言って、何かそのあたりが中途半端になっているところが何かもったいない、何か「九仞の功を一簣(き)に虧(か)く」ような感じがしてしまうなあと思うのだった。
この作品を見ての収穫はたくさんあったけれども、特によかったのは、魔女や異空間での戦いの場面の背景の描写だ。これは「メルヘンホラー」と評されているそうだが、なかなか質の高い表現だったと思う。適当にロマンチックで適当にチープで適当にキャッチーでキッチュ、でも基本的には上品でともすれば深刻になりがちなテーマの大きな救いになっていた。「劇団イヌカレー」というアニメ集団の仕事だということで、アニメーションというのが実に多くの技術者たちの共同作品なのだなということを改めて認識した次第。スタジオジブリの製作風景は何度かテレビで見たことがあるけど、テレビアニメの創作現場もまたいろいろ大変なんだろうな。「劇団イヌカレー」のサイトを見たが、ここ数年更新されていなかった。大変なんだなと思う。
***
いまWikipediaのまど☆マギの記述を全部読み終わった。なるほどと思うところもあるし、より広く見えるところはあるけれども、感じた不満についてもまあ世の中がこういう視点で見ているならこういうことで落ち着くのかなということは思った。
その中では小池和夫の指摘が一番なるほどと思った。以下引用。
「本作の作り方が小池が漫画原作を作る際の「キャラクターを立て、設定を決め事件を起こす」という、わかりやすく進む手法とは全く逆を行っており、「何がなんだか分からず、謎が謎を呼び、ラストまで行ってしまう。この引き方は紙の文化である漫画の世界では作り得ない」と分析した。世界観についても、「魔法少女になれば魔女にならざるを得ず、魔女になれば悪を行わざるを得ない。悪を行えば希望が消える」ということについて「こうした考えた方は僕の上を行っている。僕は漫画の世界でこれだけ大きな世界観を持つことができなかった。負けたなという感じを持つ」と評価している。」
前半はそんなものかな、マンガだってそういう風に構成することは可能じゃないかな、という気はする(商業性の強い作品では難しいかもしれない)けど、後半はなるほど、ストーリーの根幹をそういう風に整理すると分かりやすいし、それを乗り越えるための解を探すほむらとその解を見出したまどかの強さと物語上の役割が明確化させられるなと思った。
本当は、ほむらすらまどかの記憶がないほうが物語の構造上は正解なんじゃないかという気もするが、要するに「それは淋しい」というのが最強の説得力を持つしそれが日本というものだという気がする。まあそこだけ中途半端に歪んでいるところも含めてこの作品はそれでいいのかもしれないな、という気がだんだんしてきた。
***
このブログを書くのに3時間かかった。腰が痛い。バカだな。(笑)
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