「ちゃんとやる」と「本気でやる」/諏訪大社上社前宮

Posted at 11/09/08

【「ちゃんとやる」と「本気でやる」】

単に語感の問題かもしれないのだが、ちゃんとやるということと本気でやるということは違うと思う。ちゃんと、つまりきちんとやるということと本気でやるということを心に思い描くとき、私の物事に向かう姿勢が全然違うことについ最近気がついた。

本気でやる、というのはやるということについてあれこれ考えず、もうすぱっと決めたことを実行するという感じ。全力でやる、というのがこれに近い。とにかくやると決めたらブルドーザーのように最後までガンガンやるという感じで、まわりにとろいのがいたらなぎ倒すという感じになる。こういうモードになっているときはとにかく最後までやることはやるが、いろいろ口を挟まれてもうるさいだけだし、うまくいかないと焦る。本気の反対は遊びだろうか。遊びでやってるときはすいすいできることが、本気でやるとどこかにぶつかりながらになってしまうことがある。いつでも本気になってしまうと結局あの人は遊びがないとか、もっと余裕を持ってやればいいのにとか、そういうことを言われるようになる。わたしは割とそういうふうになりがちだ。特に、いやだけどやるとか、仕方ないけどとにかくやるとか、そういうときにこういう悪い意味での「本気」になりやすい。よく「本気になってやんの」とか言うからかい方があるが、あれは本来はこういう悪い意味での本気をからかうことだったのかもしれない。本気になりすぎると余裕がなくなるし、「本気でどこが悪い」と開き直ってしまうから、ブレーキもきかないし周りも見えない。自分で止まらない限り止められないし自分でとめられないからどんどん空回りしてしまう。

私の場合は、そういう悪い意味での本気が止まるのが整体指導を受けに行く時だ。そういうときは身体の感じもおかしくなっているし、よく先生に『気が急いてますね』と言われる。そのたびに、あ、気が急いているか、とおもうのだけど、それがどういうことを意味しているのか、今まであまりよくわからず、結局また同じことを繰り返してしまうという感じになっていた。

いつでも本気ではだめなのだ。遊びもあっての本気だし、いろいろなものを取り入れてこそ本気の実力が発揮される。本気になりすぎるというのはやはり少々小馬鹿にされても仕方のないことなのだ。

「ちゃんとやる」とはどういうことか。ちゃんと、とかきちんと、というのは心配りをして、丁寧に一つ一つのことに神経を砕きながら物事をやる、という感じが私にはある。もともと不器用な方だし、そういうことをやるときにはすごく気を使う。技はないから要するに心配りだけでそういうことをきちんとしようとするから、やり終えたときには疲れ果ててしまう。

誠意を持ってやる、というのは結局そういうことになるわけで、考えてみるとそういうことも結局自分のやりたくないことに適用されているケースが多いような気がする。

結局私は、「本気でちゃんとやる」ことよりも「半分遊びでけっこう適当にやる」ことの方が好きみたいだ。そっちの方が自由に感じるのだろう。自分のやりたいことをやっているときはあまり本気という感じはしないし、ちゃんとやっているとも意識はしない。もちろん小説を書くときなどはやはり本気にならないといけない部分もあるしちゃんとしないといけない部分もあるのですべてを「半分遊びでけっこう適当に」やるわけにはいかないのだけど、少なくともそういう部分がなければあまりいいものができないというか、自分にとって満足のいくものは出来ないような気がする。

まあつまり、自分にとって「半分遊びでけっこう適当に」出来るというのは、ある程度「技が身についている」部分なんだろうなと思う。そういう部分は同じことをしていても仕方がないのでいろいろバリエーションを考えて遊びに熱中して行く。不得意な、あるいは技が身についてない部分に関してはやはりそこは意識して本気になったり意識してちゃんとしないといけないことになるのだと思う。

本気と遊び、ちゃんとと適当、そのあたりのところ、その奥にある何かがつかめると人生をもっと生き生きと、なおかつ意義深く、そして自分が感動し人もまた何かを得られるようなことができる、そういうものとしてやっていけるのではないかと思うのだけど、まだまだ先は長いなと思う。


【諏訪大社上社前宮】

今日は午前中思い立って諏訪大社上社前宮に出かけた。大社のお宮は上社が前宮と本宮、下社が春宮と秋宮の全部で四つがあるのだが、一番目立たないのが前宮だ、と今まで思っていた。しかし今日行ってみてその認識が全く違うというか、神社が神の社たるゆえん、その清浄な気の強さと深さに足が震えるほどの感動を受けた。江原啓之が神域めぐりみたいな本で前宮の魅力をとても強調していたけれども、全くそうだなと思った。清らかさと強さと、そして猛々しさ。この社の持つ力は包み込むようなやさしさではなく、厳しいものだと思った。もともと諏訪の神さまは狩猟の神でもあり、鹿の頭を供物にするような強烈な力をも持っている。その供えられた鹿の頭の中には必ず耳が裂けたものがあるといい、それが不思議として語り継がれていたのだそうだ。社の隣に流れる小さな流れの清らかな気には全く圧倒される。ここはルルドのように水の聖地なのだと思った。

圧倒されて車で帰る途中、バイパスの下で車同士がぶつかる事故に遭遇した。わたしは信号が変わったのですぐに走り抜け、そのあとどうなったのかは知らないけれども、けたたましい急ブレーキの音のあとにドスンという音が聞こえ、赤信号で止まっていた私は振り向いたら白い車が白い車の横腹にめり込んでいるのが見えた。めり込まれた車はすぐ動き、場所を変えているのが見えたが、めり込んだ方の車がどうなったのかは分からない。

これは私にとっては警告だなと思った。焦ったらあのようになると。当事者同士にとっては警告では済まないわけだけど、何か猛々しい神の気がそういう警告を私に運んで来たような気がした。

そのあと近くの書店に行って『美味しんぼ』の106巻と107巻を買ったが、やはり諏訪の地にはそういう神の気が広く及んでいるような気がした。上社の前宮・本宮のある西山の方は断層山地で、私の実家があるあたりは霧ケ峰火山の溶岩の突きだした最前面みたいな場所で、土地の成り立ちは違うのだが、諏訪湖と諏訪湖にいたる低地をはさんだ反対側に位置する私の家にまで、そういう強い気は及んでいるような気がした。そして私の家と同じ側に位置する下社の二つの社との不等辺四角形を軸にして、配置されている多くの中小の社とそれを七年ごとに活性化する御柱によってこの地の守りが更新されているのだなと思った。

まあ色々あるけれども、ときにはそういうことを思い出すのもいい。

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