五十嵐大介とか日高トモキチとか/帰るべき場所

Posted at 11/08/10

【五十嵐大介とか日高トモキチとか】

そらトびタマシイ (アフタヌーンKCデラックス)
五十嵐大介
講談社

昨日帰郷。特急に乗る前に丸の内の丸善で五十嵐大介を三冊買った。『そらとびタマシイ』(講談社、2002)と『リトル・フォレスト』1,2巻(講談社、2004-5)。Wikipediaによると1996年にデビュー作の連載が終わったあと放浪したり営農したりした時期があったのだそうで、『そらとびタマシイ』はその時期の作品のようだ。いろいろ作風や画風を模索している感じがあり、ときに駕籠真太郎のような奇想に近づいたりもして。こちらは読了。いろいろ考えさせられたけれども、この時期の模索があとに生きてるんだなと思う。『リトル・フォレスト』はまだ最初の方。しかしこれだけ読んでみると、デビュー作の『はなしっぱなし』も読んでみたくなってきた。これは短編連作だから『そらとびタマシイ』と同じような感じだろうか。

リトル・フォレスト(1) (ワイドKCアフタヌーン (551))
五十嵐大介
講談社

しかししてみると長編と言えるものは『SARU』と『海獣の子供』しかないということになるのだろうか。またそうなると、『SARU』は単行本には描き下ろしとあったから雑誌に連載になった長編は『海獣の子供』が初めてということになるのだろう。うーん、何というか感慨深い。

家に帰るとamazonマーケットプレイスで注文していた日高トモキチ『パラダイス・ロスト』(竹書房、1994)が届いていた。これは今朝読んだのだけど、基本的に江口寿史を思わせる作風(イラストっぽい美少女が出て来る、でも駕籠真太郎の美少女にもどこか似ているな)で、ポップなつくりになっているのだけど、江口の登場人物たちがお洒落だけど存在感がない(むしろそこがいい)、つまり泥臭さがなく徹底的に都会的であるのに対して、この作品では日高は「存在感」と「かるみ」の両立を図っているように見える。何というかこの作品に出て来る人たちは本当にいそうなのだ。『トーキョー博物誌』に出て来るさまざまな動物たちの実在感というのは、むしろこういうところに起源がある、いやそういうものを見る観察眼が人間像にもそういう存在感を与えているのかもしれないと思った。言葉を変えて言うと江口寿史が「反省しない感じ」なのに対し、日高は「反省してしまう感じ」があって、そこのところの微妙な陰影が評価の仕方を微妙にしてしまうのではないかという気がする。しかし逆に言えば、江口寿史の真似は誰にもできない、ということかもしれない。正直後半の方が面白くなってきているし、2巻以降も読みたいのだが、まだ刊行は未定のようだ。

パラダイス・ロスト 1 (バンブー・コミックス)
日高トモキチ
竹書房

【帰るべき場所】

今日はいろいろ考えて久しぶりにフィクションのアイディアが出て、短いものだけど少し書いた。やはり私は、フィクションを書いているときが一番楽しいし充実するし書いたあとも満足感がある。ここは本当は、自分にとって高揚する場所というよりは帰るべき場所なのかもしれないと思った。

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