マンガばかり/とり・みき『とりったー』/みなもと太郎『風雲児たち』/駕籠真太郎:エログロナンセンスの奇想マンガ家/イリュージョンとファンタジー/子供をイノセントに描くということ/中庸という帰るべき場所

Posted at 11/08/08

【マンガばかり】

今日は立秋。しかし日月しか東京にいない私にとっては、久しぶりのかなり暑い日。

昨日は夕方神保町に出かけて、本を買ってきた。と言っても、5冊全部マンガだったのだけど。全部マンガを買うつもりで出かけたわけではないけど、目当てにしていたのもマンガだったし、目に付いたのもマンガだったと言うことだ。やはりマンガと言うものは自分にとってかなり重要なものらしいと思う。

昨日は雨が降ったり止んだりで、傘を持って出かけた。新御茶ノ水の総評会館の出口を出ると、少し雨が降ってたけど周りの人は傘を差してなかった。その中で傘を差して信号を待っていると、少し雨の振りが強くなったり。ガイアプロジェクトに寄ってパンを二つ買う。そのまま神保町へ歩いていったのだけど、いつもやってる店がいくつも閉まっていて、夏休みなんだなと思う。駿河台下の交差点を渡って、まず書泉グランデの地下へ。五十嵐大介『魔女』の第一集、第二集(小学館IKKIコミックス、2004・5)を買う。一応の目的は果たしたので三省堂で少し本を見たが、結局買わず。それから書泉ブックマートへ行って少し物色するが、とり・みき『とりったー』(徳間書店リュウコミックス、2011)があったので買った。それから少し本を見て、階段を下りようとしたらみなもと太郎『風雲児たち・幕末編』19巻(リイド社、2011)が出ていたので買った。この時点ですでに四冊。

それからすずらん通りを散策。やはり夏休みのせいか、閉まっている店が多い。マザーズのレストランも閉まっていて、夕食はどうしようかなと思う。すずらん書店へいって本を物色し、駕籠真太郎『夢のおもちゃ工場』(三和出版、2009)と言うのが目に付いた。青年マークのついた作品で、面白そうなのだけどかなり迷い、一度店外に出て携帯でamazonの書評などを調べ、結局買った。それからカフェテラス古瀬戸へ行ってカレーを食べながら本を読んだ。時々外で雷の音がしたり、ざあっと雨が降ってきたりする音が聴こえたりしたけれども、7時半ころまでいて家に帰った。

【とり・みき『とりったー』】

とりったー (リュウコミックス)
とり・みき
徳間書店

とり・みき『とりったー』。これは『コミックリュウ』で連載されていたツイッターネタのマンガ。2010年から11年の流れの中で、『コミックリュウ』休刊の8月号まで連載されていた。これはかなり面白くて、喫茶店で読みながらかなりにやけて困った。好きだったネタを一つあげると、データセンターには「小人さんの影をよく見かける」という話。サーバーがたくさんおいてある空間はゴキブリが干からびて死ぬような過酷な環境なのだそうだ。そういう中でサーバーの近くにぬいぐるみを置いておくとトラブルが減るという験かつぎがあって、テディベアとか亀のぬいぐるみがよく置いてあるのだそうだ。こういう話は割りと好き。

【みなもと太郎『風雲児たち』】

風雲児たち 幕末編 19 (SPコミックス)
みなもと太郎
リイド社

みなもと太郎『風雲児たち・幕末編』19巻。時代としては安政の大獄の最中で、吉田松陰の処刑にいたるまでのエピソードと奄美大島に流された時期の西郷隆盛の話が中心。松陰処刑は『コミック乱』本誌でも読んだが、やはり一つの物語のクライマックスだなと思う。細かいエピソードをよく調べて描いていて、その辺がやはりこのマンガの魅力なんだなと思う。


【駕籠真太郎:エログロナンセンスの奇想マンガ家】

夢のおもちゃ工場
駕籠真太郎
三和出版

駕籠真太郎『夢のおもちゃ工場』。これが難物。さすがに外で読む気にはならず家に帰ってきてから読んだのだけど、前半はSM系、後半はスカトロ系の作品群。前半は基本的に刺激は強いものの面白く、苦笑しながらまた感心もしながら読んでいたのだけど、後半はかなり私にはきつかったのでちゃんと読めていない。ネットで調べると前半の掲載誌コミックフラミンゴはSM系という看板ながら「ともするとSMという領域を逸脱して異世界へと突っ走ってしまうような作品が多かった」というが、まさに駕籠の作品などはその代表だったんだろうなと思う。冒頭の「抜首哀歌」という作品はろくろ首もので(これがすでに変)、この人の作品がホラーに分類されている場合があるのもうなずけるのだけど、絶頂に達すると首が抜けてしまう、それも日本のろくろ首のように首が伸びるのではなく、マレーシアのポンティアナという抜け首のように首が抜けるときに内臓がついてきてしまうというシュールな女性が主人公になっていて、そのときになると首から下が人体模型の内臓図になってしまうというよい子は見てはいけません的な要するにグロ系の設定になっている。

と書いただけで受け入れられない人はたくさん出てきそうな話なのだが、後の作品も考えるとこれがまだ一番一般に受け入れ可能な作品ではないかという気がするくらいでだからまあ誰にでもお勧めできる作品ではない、というか、ここに書いただけで引いてしまう人もたくさん出てきそうな気がする。

系統としては丸尾末広とか花輪和一を思い出すのだけど、グロさの徹底度合いではダントツこちらだし、丸尾や花輪に見られるような反社会性とか社会への恨みのようなある種の倫理的・反倫理的なメッセージはゼロで、とにかくシュール・奇想天外だ。昨日読みながらツイッターにいろいろ書いたのだけど、なんというかネットで変なことを書いたりする人の行動に対しても駕籠の作品とか読んでるとたいていのことでは驚かなくなり、その心理とかも分かりやすくなる気がした。世の中本当に変な人が多いから、そういう意味で役に立つと言えなくもない。

【イリュージョンとファンタジー】

談志大全 (上) DVD-BOX 立川談志 古典落語ライブ 2001~2007
竹書房

いったいどういうところが面白いのだろうと考えながら読んでいたのだけど、結局駕籠の作品は完全なイリュージョンなのだということに気がついた。エログロナンセンスというのも、結局その面白さというのは「イリュージョン」なんだなと思った。こういう文脈でイリュージョンということをいっていたのは立川談志なのだけど、彼は現在は終わってしまったMXテレビの『談志・陳平の言いたい放題』という番組で若手の芸人の芸にコメントするというコーナーで、イリュージョンということについてよく言っていた。面白さというのを突き詰めていくとシュールになり、さらにはイリュージョンになってしまって、分かるか分からないか、笑えるか笑えないかの境目みたいのがあって、そこから先に行くと帰ってこられなくなる、つまり完全に狂った世界に行ってしまう、という点があって、そこをどこまで行くか、という問題があるんだということを言っていた。そのときはあまりぴんとこなかったけど、駕籠のマンガを読んでいるとまったくそのとおりだなと思う。ある人が読んだら彼の作品は完全に狂った世界だと思うだろうし、私のようにその限界ぎりぎりのところで面白いと思えるものと「ムリ」という感じになってしまうものとがある、という人もいるだろうし、全部受け入れられるという猛者もまたいるのだろうなとは思う。しかしこういうものを作品にするのは相当な計算が必要だし、また正直相当な画力が要る。なんと言うか、デュシャンを最初に見たときのようなショックがある。

談志との関連で言うと、ある意味江戸の落語のイリュージョンというものと駕籠のマンガは共通しているところがあるような気がした。エログロナンセンスというと昭和初期を思い出す。『ドグラマグラ』とかも読んでないのでちゃんとは比較できないけど、むしろそういうのを飛び越えて江戸期の落語とかにつながってるんじゃないかなと思ったが、まあこのあたりに関しては昭和初期のものをちゃんと読んでから出ないと論評は困難だなと思い直した。

先に書いたように後半のスカ系の作品はちょっとまともに読めなかったのだが、多分前半のほうがよく書けているといっていいのではないかという気がする。

いずれにしてもこの作品を読んでイリュージョンというものがどういうものか分かった気がした。丸尾や花輪もファンタジーじゃないしこういうものをどう表現すべきかと迷っていたのだけど、イリュージョン系といえば自分の中ですっきりする。オタク系のサブカルチャーというのも要するにイリュージョンなんだと考えるとかなり広範囲なものが自分の中で落ち着き場所を得るような気がした。腐女子系のものはどちらかというとイリュージョンというよりファンタジーに近いものが多い気がするけど。

私の定義としては(っていうか今日未明に思いついたのだけど)ファンタジーは想像力を刺激するもので、イリュージョンはもっと直接的に精神や時には肉体にまで介入するものだと考えていいのではないか。視覚的な暴力現象という形をとることもあるし。出、たぶん現代アートというのは、というか本当はアートの本質というのは、ファンタジーであるだけでなくイリュージョンでもなければならないのだなと思ったのだった。いやあ結構きついところがある、制作するのも鑑賞するのも。まあそういう意味では私はきわめて常識的な人間なんだなと思う。


【子供をイノセントに描くということ】

魔女 1 (IKKI COMICS)
五十嵐大介
小学館

五十嵐大介『魔女』第1集、第2集。現在第2集の第3抄、「Petra Genitalix」まで読んだ。面白い。これはファンタジーの要素が強い。第1抄「スピンドル」はイスタンブルが舞台、羊飼いの少女が「伝言」を伝えにいく。第2抄は「クアルプ」。黄金の三角地帯あたりが舞台だろうか。森を守る女呪術師と開発者たちの呪術的闘争。五十嵐の話は読者が思い入れをする側が勝利する話が多いのだが、これだけは負けていて、ある種の実感があるんだろうなと思う。第3抄はスイスが舞台でこれは諸星大二郎の「生物都市」を思い出した。五十嵐の話は諸星の作品を髣髴とさせるものが多いが、やはりそれだけに時代性、世代性の違いが現れてくるのが面白いとも思った。

昨日読んでいて思ったのだが、五十嵐は子供を、特に女の子をイノセントな存在として描いている。そこが私と違うところだなと思った。よく考えてみると諸星も子供全般をイノセントに描いているのだけど、あまりそんな気はしなかった。やはり五十嵐はその部分にかなり思い入れがあるのだと思う。子供をイノセントに描くことはステロタイプに陥る危険がある、これはたとえば女の人のせりふを女性言葉で書くことで陥る可能性があるステロタイプとも共通するのだが、しかし逆にそのように描くことで子供や女性を明確に対象化して描くことができるという利点もあって、作者の自我のかけらのようなものをつい込めてしまったりせずにすみ、その分自由に動かせるということはあると思った。

もうひとつ思ったことは、五十嵐が歴史的な知識、民俗学的な知識などを、自由にフィクションの源泉に用いているということ。私は90年代に大学院に行きなおしてきちんと歴史学を学んだために、そういう知識をフィクションの題材に用いることを冒涜だと思う部分ができていたんだなと思う。その部分を取り外さないと、せっかく自分が積み上げてきたさまざまなものを創作に生かすことができないなと思う。ある種の結界をはずさなければいけないなと思った。

自分の創作をどういう方向に進めていけばいいのか迷うところもあったのだけど、一つの方向性が見えてきたし、生身の人間を描くためにはファンタジーだけでなくイリュージョンもまた用いなければならないとか、いろいろ思うところがあった。私にとって出会いのあるマンガ群だった。

【中庸という帰るべき場所】

そういうことが考えられるようになったのも、自分の中の中庸というものをちゃんと意識できるようになったということが大きいんだなと思う。そういう意味で畑村洋太郎を読んだこともまた大きい。そこから探索に行って帰ってくる場所。自分にとって一番ニュートラルでいられる自分にとっての常識に満ち満ちた場所。理解と納得に満ちた世界。そういう意味で自分にとって中庸という場所は実はすごく人工的な、ちゃんと構築しなければならない場所なのだということをきちんと認識した。中庸の場所が確保され、そこで安らげる時間があるからこそ、より幅広い奇想天外やファンタジーやイリュージョンを受け入れ、また創作することができるんだなと思う。

さて、部屋の片付けでもしなくては。中庸の場所を確保するために。

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