信濃の国のブリューゲル/大相撲が帰ってきた/性交渉の描写/テキスト庵で起こったことについてまた考えてしまった

Posted at 11/07/10 Comment(4)»

【信濃の国のブリューゲル】

今日は朝、実家のある地区の共用地の草刈りがあり、私は本来は住民ではないのだが、母がとてもそれに参加するような足腰の状態でないため、私が参加して草を刈った。まあ、自治会の役員の人が事前にかなり刈ったり木の枝を落としたりしてくれてあったようで、今日の仕事はそんなには大変ではなかった。大昔の溶岩が平地にせり出したところ(まあ小型鬼押し出しみたいなもの)がちょうどこの地区の児童公園になっていて、その上や横に江戸時代からの石碑や石仏がたくさん立っている。以前、近所の人にお宅の石仏はそれだよと教えてもらったのだが、もうどれだかわからない。その横すぐ下に川が流れていて、その川が20年ほど前に氾濫したとき、それまでは溶岩の壁にまちまちに立っていた石仏を、コンクリで固めた壁に整然と並べなおしてある。しかしそれがすべてではなく、溶岩の壁がもう土になっているところに石碑や石仏が散らばっておいてある壁面があり、若手がそこを総がかりで草刈りをしていた。自分の持ち場が終わってからそちらを手伝いにいって、下に下ろされた木の枝や草を2tトラックに載せたりしていたのだけど、道の端まで下がって壁を見上げると何十人もの人が崖の途中に立って思い思いに草を刈り、道の下ではおじさんたちが上を見上げて話をしていたりする様子が、まるでブリューゲルの絵のように見えて、とてもいいなあと思っていた。携帯を持ってきてなかったので写真は撮らなかったけど、絵心があったらぜひこれは一度絵に描いてみたいような情景だと思った。

【大相撲が帰ってきた】

ということで草刈りを終えて一風呂浴び、朝食後母を乗せて西友に買い物に行き、戻ってきて上京の準備をして10時過ぎの特急で上京。駅で親戚に会ったり、朝の草刈りでも妹の同級生にあったりほかの親戚にあったりして、よく人に遭う日だった。

マンガでわかる有機化学 結合と反応のふしぎから環境にやさしい化合物まで (サイエンス・アイ新書)
齋藤勝裕
ソフトバンククリエイティブ

帰京後、東京駅で丸善によって本を二冊買う。齋藤勝裕『マンガでわかる有機化学』(ソフトバンクサイエンスアイ新書、2009)。これはぱらぱら立ち読みして面白い感じだった。もう一冊は宮崎駿『シュナの旅』(徳間書店アニメージュ文庫、1983)。これは読了したが、『ナウシカ』と『もののけ姫』と『ゲド戦記』を混ぜたような、というか三つの話のこっちのほうが原点なのかなという感じの話だった。私自身が書いた小説の中のイメージと重なるところが結構あって、ああ、こういうものを世に発表できることは幸せだなと思う。人間、深いところではイメージするものは結構似通っているということなのかもしれないが。

シュナの旅 (アニメージュ文庫 (B‐001))
宮崎駿
徳間書店

午後はなんとなくネットを見て、結局またテキスト庵関係の記述をいろいろ読んでいた。これに関してはあとで書こうと思う。テレビをつけたら相撲をやっていて、久々だったのでつい6時まで見てしまった。今日の入りはあまりよくなかったようだが、やはり相撲がないと落ち着かない。震災以後、本来なら二度あったはずの本場所がなくなってしまい、今日からようやく再開されたということで、少しは震災前の日本が復帰してきた感じがあって、やはり何かうれしかった。


【性交渉の描写】

奇跡 (集英社文庫)
岡本敏子
集英社

7時過ぎに出かける。地元の文教堂で本を見て、岡本敏子『奇跡』(集英社文庫、2011)と千明太郎『キミイロフォーカス』6巻(少年チャンピオンコミックス、2011)を買う。『キミイロフォーカス』は高校写真部の話らしく、中を少しのぞいてみたら面白そうだったので買ってみた。今は少年マンガでも絵柄はこんな萌え系なんだなあと少し物を思わされたが。『奇跡』の方は性交渉の描写、というかそのときの言葉のやり取りが面白く、まあたぶん岡本太郎との間にあったことを思い出しながら書いているんだろうなと思うけど、「笙子の体は正直だ。それが好きだ。」なんてせりふ、やっぱり岡本太郎っぽく言うともろにそうだなと思っておかしかった。私は小説を書いていても性描写がどうも上手くないのでどういう方面からアプローチすればいいかなと思っていたのだけど、こういうのは面白いなと思ったのだった。今『キミイロフォーカス』を少し読んでみると、なんか主人公の少年が少し岡本太郎っぽくて面白いなとは思った。

キミイロフォーカス 6 (少年チャンピオン・コミックス)
千明太郎
秋田書店

そのあとどこに行くか迷ったが、結局日本橋で降りて、丸善に行ってみたら開いていたので少し立ち読み。でもすぐ8時半になってしまってあまりいられなかったのでその足で東京駅まで歩く。大丸で何か買おうと思ったのだが、もう閉まっていた。しょうがないので東京駅の新しくできたあたりを歩いていたらいろいろ店ができていて、特にタワーレコードとユニクロが出来ていたのはこれは使えると思った。しかし食べたいと思うものがなくまた買いたいと思うものもなかったので丸の内側に出て、閉店間際の新丸ビル地下で弁当を買って家に帰った。

【テキスト庵で起こったことについてまた考えてしまった】

さて、テキスト庵のことについて少し書こう。今日帰宅してからいろいろ読んでいて、いろいろ思いながらツイッターでつぶやいたりしていた。そもそもの騒ぎの発端になった個人情報朗詠問題、当事者間で一応話し合いが始まったようで、とりあえずこの件に関しては収束に向かっているらしく、まあそれはそれでよかったと思う。当事者間でお互いに納得できる結論を出してもらえばそれでいい。

また、テキスト庵が閉まる直前にばたばたと脱退したり、「にーんーげーんごーじゅーねーんー」と歌いながら舞いを舞ったりした人のツイッターやブログを読んだりしていて、何がこの人たちを怒らせたり、義憤に駆り立たせたのかということがだいぶはっきりしてきた。しかし正直言って、どうもその人たちの考えている正義の基準と私の意識している正義の基準にずれを感じていた。まあそれ自体はよくあることだから仕方ないのだけど、いやだなという感じがしたのは、誰もがそう考えるべきでありそう考えない人は間違っていて攻撃されて当然で、そういう風に考える想像力のない人は許せない、というところで一致を見ていてちょっと怖いなと思ったのだった。そのあたりのことに関連して(いや関連させてないが)以下の一連のつぶやきはそのときに感じたことについて感じたことを書いたもの。

(引用はじめ)
2011.07.10 15:46
結局ね、自分の思っている「人間が持つべき想像力」みたいなものを相手に求めるのは無理だと思うんだよね。私も相手にそれを求めてものすごいトラブルになったこともあれば、自分にそれを求められて一応努力はしてみたけど結局その人との関係が息苦しくなってしまって関係を絶ったということがあった。

こういう想像力を持つべきだ、という主張は、ある意味あらゆる脅迫よりも恐ろしい。

想像力まで自由にさせてもらえないのか!という絶望に苛まれる。

今回の件でもそういう主張があちこちに散見されるのは残念。

(引用終わり)

まあ、それは人間だからある程度はそういうことあると思うし、たとえば自分の彼女/彼氏とかとあまりに「人間として大切にしたい想像力」の部分でギャップがあるととてもやっていけない。ま、私の離婚の原因も(以下ry 

まあ、自分の本当に大切にしたいものをわかってくれ、また相手の大切にしたいものを心底尊重できる人とやって行きたいのは当然なのだけど、夫婦ならともかく世の中の人一般にそれを求めても無理だと思う。ただなんというか、自分の身の回りでそれが共有できたりすることは珍しくない。ほかの土地に行って一番感じるカルチャーショックはそういうことが原因だから。

以前日記猿人で常に上位日記の地位を占め、テキスト庵には参加していないが今でも日記・ブログを書き続けている人を何人か知っているが、その人たちはたいがい実名で書いていて、インターネット初期の空気を今でも漂わせている。もちろんテキスト庵参加者にもそういう方はおられるが。しかし、テキスト庵に参加していないそういう方が今回の騒動をみて書いておられることを読んで、今回の事件の背景がわかった気がした。

時代は、ある象徴的な出来事によってがらっと変わる。一番身近なものは今回の震災で原発に関する言説が様変わりしたことだが、たとえば男女雇用機会均等法以前と以後とでは言説の様変わりは著しい。それ以前は女性の就職は腰掛だと言ってもいやだなとは思っても表立って非難するというほどではなかった。大体多くの女性が「私は腰掛だから」と言っていたし。いい会社に就職して25までに寿退社して専業主婦、が王道だと思われていた。大体26以上になると売れ残りのクリスマスケーキとか言われてたから今昔の感がある。今腰掛だとかクリスマスケーキだとか言われたらセクハラだと黙っていない人は決して少なくなかろう。ひとつのきっかけで許される言説、と言うか社会の中心的な認識が変わった例である。

あるいは個人情報保護法の成立もそうだろう。それ以前も個人情報の漏洩を気にする人は気にしていたが、あれ以降は本当に大きく様変わりした。それ以前も他人の個人情報をあからさまに人に披露することは決して上品とは言えなかったが、ものすごく非難されて当然と言う認識が共有されることはなかった。日記猿人のオフ会などではサイトにかけないような人のプライバシーがダダ漏れで飛び交っていたという話もあるので、そういう時代もあったということなのだ。

大体今でも田舎に行けば隣近所のことはみんなダダ漏れだ。近所のおじさんが気がついたらうちの庭を歩いていて驚くときがある。まあうちなど庭やら裏山やらをぜんぜん管理してないので近所の人が善意で片付けてくれてあったり時には草を全部刈ったりしてくれてあったりする。うちの土地のことをうちよりも知ってたりするのだ。いわんや個人情報をや。

個人情報保護法以前の認識からまだ抜けられない人もたくさんいるだろうし、それどころか均等法以前の社会の認識からまだ抜けられない人もまだたくさんいるのが現状だろう。そういう人にとっては「何を神経質な」と思うことが、今の時代に照準が合っている人から見たら絶対に許せない、と言うことになることがよくある。今回の出来事のきっかけというのも、結局その辺りにあるのではないか。

その個人情報朗詠の場にいたのがどういう人か知らないし、実際にどうだったのか再現できるわけではないだろうから憶測を含めて言うが、その場に居合わせた人の感じ方としては、「言いたい気持ちはわかるけど、それ言っちゃったらちょっとどうなの…でもま、いっか」くらいの微妙な感じだったのではないかという気がする。言った人にしても、人の知らないことを披露したいという欲望に負けて、「ねね、明菜とマッチってできてるらしいよ」くらいの感じで言ったのではないかという気がする。そこには問題に関するずれ、ひょっとしたら世代間のずれ、過去の時代を経験しているかいないかというある意味戦争体験の風化問題のようなずれがあったのではないか。それに、やはり親しくなると隠し事をしないのが美徳だと言う観念はわれわれ日本人には根強くある。同じテキスト庵の参加者だからそういう感じで言ってもいいよねとつい思ってしまったのかもしれない。想像に過ぎないが。

私が教員をしていたときも、定年間近の司書教諭の先生が、「今の女性は、私たちが必死で勝ち取ってきた権利を当然のものと思ってわがままの口実として振り回している。もっと大事にしてほしいわ。」と言っていたが、生まれたときからあるものが当然のものだと思わないほうが難しい。大体「戦争体験を引き継がなくては」なんていう優等生は大体胡散臭いものと決まっていると感じるほうが健全だと私は思うが、まあでも私も年をとってきたから旧世代の思いというものが少しはわかってきた。戦争体験とか心の痛みとかはわからないけど、わかってもらえないなあという痛みは理解できるようになってきたし、だから少なくともその思いはわからないけど粗末には扱わないようにしようと思う。

先に書いたことと関連するが、「人の思い」とか「人の痛み」とかは、絶対にわからないのだ。わかったと言うやつは胡散臭いし、少なくとも勘違いしている可能性は常にある。しかし「痛いよお」と言っている人の苦しみを粗末に扱わない、と言うこと、場合によっては同情し、大事にし、時には励まし、と言うことはできる。挨拶をされても返事ができない人の苦しみもあれば、挨拶をしたのに返事が返ってこないことに感じる痛みもある。世の中には痛みなんかそこらじゅうに転がっている。アスペルガーの人の苦しみを私は理解できないし、性同一性障害の人の苦しみだってわからない。もちろん想像はできるけれども、絶対にその人自体の苦しみがわかるわけがないじゃないか。もちろん特に親しい人の苦しみならば、理解したいと思い、また代わってやりたいとさえ思っても、でも誰も代わることはできない。たとえその人との関係の中でその人を癒し、またその人が癒されることで自分自身が癒されることがあったとしても、それは必ずしも理解を通じてではないだろう。「わかってくれている」と言う安心感を持ったとしても、その相手はその人の苦しみ自体をわかっているわけではない。「その人が苦しんでいる」と言うことを黙って全身で受け止めているのだ。

だから敦盛氏が「事情がわかっているのに友達だからと言って沈黙しているのはおかしい」と主張しているのを私も一面そうかなと思ってみたりはしたのだけど、むしろその方たちはその認識を慮って敢えてワルモノとして口をつぐんでいると言う大人の対応をしているのかもしれないと言う気がしてきた。「セクハラだ!」と騒ぐ人に対して「そのくらい昔は・・・いやいや今はそういう時代じゃないな。でもそこまで一緒になって騒ぐことはできないし、黙ってるしかないな。」みたいな対応しかできないと言うことは世の中にいくらでもある。教員が体罰だと言ってマスコミにたたかれたりしているときに、上位校の教員ならいざ知らず、底辺校の教員たちはたいがい「熱心すぎたんだな」と思っている。暴力マニアのような教員は問題だけど、そうでなければ体罰に走ると言うのは熱心すぎたり一昔前の熱血先生にあこがれて教員になったりした人だったりする。体罰の基準もどんどん厳しくなっているし、今なら廊下に立たせたり床に座らせていすを机代わりに授業を聞かせたりと言ったわれわれ(40代)の世代なら当たり前だったことだって大問題になる。

まあいろいろ書いてきたが、だからと言って現在の基準を正義としたら間違いをしでかしたことには違いなく、まあそれはそれで当事者間で落とし前をつけてもらうしかない。お互いにいろいろなものを失って、ぼろぼろになったことだろうし、お気の毒だと思う。われわれ一般参加者としても残念だけど、ある意味こういうことは人の世の常で、一方的に依存していた存在が急になくなって誰かを責めるのも大人気ないことだとも思う。

ある方のブログのコメント欄に敦盛氏が書き込んでいるのを読んで、この人は本当に義憤、あるいは公憤に駆られてこういう行動に出たのだなと言うことは理解できた。しかしある意味やりすぎだったのは確かだ。私が読んでもはっきり言って恐怖を感じるくらいの演出だった。まったく当事者でない私が恐怖を感じるくらいだから、後ろめたい部分がある人が読んだら表面上はともかく心の中がパニックになってもおかしくない。いや、そういう意味ではものすごく役作りがよくできていた、おそらくはご本人が思っている以上によくできてしまったのかもしれない。

「信長のように「敦盛」舞いながらテキスト庵炎上を見守るブログ」と題されていたら、誰がどう読んだって「本能寺の変」を連想する。ある日突然、援軍がないまま火に包まれ、炎上した本能寺を連想するだろう。まあ史実ではなく大河ドラマの本能寺の変だが。この人は決意を持って、どこまでもやろうとしている。たとえテキスト庵を炎上させても。その「炎上」がサイト閉鎖を意味し、閉鎖するまで責め続けるぞ、と言う決意の表れだと思われても仕方がない。まあ押し付けるわけではないが、私の想像力ではそう思う。それが二の矢三の矢を放たれれば、やはり閉鎖に追い込まれても仕方がないと多くの人が思ったからこそ敦盛氏の行為を多くの人は荒らしと見、テキスト庵を閉鎖に追い込んだ直接のきっかけをつくったという認識を持ったのだと思う。

でもまあ、なんと言うかそういうさまざまな事情を離れて考えてみると、ある意味この「敦盛」と言うキャラクターは傑作だ。これを書いた人は間違いなく才能がある。永仁の壺を作って陶芸界を追放された加藤唐九郎のように。荒らしと認識されたものの中で、ある意味これだけきっちりとキャラが立って人に恐怖を感じさせるとともに一抹のユーモアさえ漂わせるニクイ演出がなされ、日本の歴史や大河ドラマの演出さえ踏まえていると言うのは稀有のことではないか。公憤という推進力があるからこそだと思うが。

まあ、いろいろな人を批判したり持ち上げたりしたように見えると思うが、まあ私の意図としてはあんまりそういうところにはない。とりあえず何が起こったのかを理解し、今後の人生に少しでも糧になるように収めておこうと思っていろいろ考えただけだ。そういう意味でいろいろと得るところがあったので、私としてはまあいいかと思っている。もし私が書いた中で少しでも役立ちそうなことを拾っていただければ、こんな文章を書くのに毎日数時間を費やしている私としてはすごくうれしい。

"信濃の国のブリューゲル/大相撲が帰ってきた/性交渉の描写/テキスト庵で起こったことについてまた考えてしまった"へのコメント

CommentData » Posted by 夢吉 at 11/07/11

私自身はテキスト庵には登録せずじまいでした。だからか当事者の方々、テキスト庵自体になんの思いもなく状況を追えたような気がするのですが、結末については仕方がないかも、と思いました。
この件について言及している数々の日記を、ついつい探して読んでしまったのですが(関係ないのに・・・苦笑)、猿人消滅後に探してでも読み続けている人と、猿人消滅とともに何かもういっか、と追わなくなった人の表現の違いがくっきり分かれていたのが面白かったです。面白いって書くと、ちょっとアレなんですけど、自分が追わなかった理由が今頃、はっきり分かって納得がいった感じです。
結末は仕方がないと書きましたが、でも、残念ですね。最後の砦でしたものね、テキスト庵は。

CommentData » Posted by kous37 at 11/07/11

コメントありがとうございます。お久しぶりです。

夢吉さんのような立場の方の見方は、ある意味渦の中にいるものにとってははっとするところがあります。古い参加者も新しい参加者もそれぞれにそれなりの居心地のよさと悪さを感じていても、それが何か見えにくいですからね。

結末は仕方ないという面はありますが、それでもみななぜこうなったのか、納得したいというのは強くあると思います。それに少しでも役に立てばと思っていろいろ書いているわけなんですけどね。

ありがとうございました。

CommentData » Posted by 夢吉 at 11/07/11

申し訳ありません。ご挨拶をすっかり忘れておりました。
ご無沙汰しております(汗)

kous37さんをはじめとして、俯瞰視点で書こうとして下さる方がいらっしゃるからこそ、部外者でもすぐに状況把握が出来たように思います。
納得する/しないはさておき、何が起こったのかについては可能な限り正確に知らないと、正しく反応出来ないですものね。

有難うございました。

CommentData » Posted by kous37 at 11/07/11

ありがとうございます。

まだときどき、テキスト庵が閉鎖になって途方にくれている人、特に今まで私もあまり拝読していなかった方のそういう発言があって、まだまだ問題は終わっていないんだなと思います。たとえは大げさすぎますが、親たちが自分たち当事者どうしが納得して離婚しても、子供たちはそれまでいた家庭という場所を理不尽に奪われるということに、構図としては同じことが起こっていると思います。失われた場所は帰ってこない。思ったより多くの人の心の支えになっていたんだなと思って少し心が温かくなったり、心が痛んだりもします。

今はなきテキスト庵にありがとう、そしてさようなら、と閉鎖されたサイトたちのあの世での幸を祈り、感謝をささげるばかりです。

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