いろんなことが起こっているが/河合隼雄の不思議な魅力/シンクロニシティと無意識

Posted at 11/07/09

【いろんなことが起こっているが】

昨日。テキスト庵のことに関していろいろ考えていて、夜、自分なりに全体の構図が見えた。それが正確かどうかともかく、というか正確かどうかわからないから書かないけど、何というかいたましい感じがして来て、もうこのことについて書いたり考えたりするのは終わりにしようと思った。私なりにいろいろなツイートをしてテキスト庵関係者に少しずつ情報をお伝えしていたのだけど、幸い熱心な方がアンテナ等を利用してかなり多数の方へのリンクを復活させていたのでそれなりにテキストを読みに行くことはできる状態が回復しつつある。ご苦労様です。私としてはまたいつか思いだしてこのことについて書くまでは、取りあえず終わりにしておきたいと思う。

こころと脳の対話 (新潮文庫)
河合隼雄・茂木健一郎
新潮社

まあ昨日はそういう大騒動があったのだけど、リアルの方でもいろいろ起こって、かなり忙しかった。新しい小説のプランに関連していろいろ考えたり読んだりしていたことがかなり広く深い感じになってきて、先が見当がつかない。昨日読んだので言えばダヴィンチの鼎談、それからその時に買った河合隼雄と茂木健一郎の対談本、『こころと脳の対話』(新潮文庫、2011)がかなり面白い。それから、amaonに注文してあった世阿弥の『能作書・覚習条条・至花道書』(岩波文庫、1931)が届いた。

能作書・覚習条条・至花道書 (岩波文庫)
世阿弥
岩波書店

何か書こうと思っていたことがあった、いやあるはずなのだけど、なんだかどうも書く気があまりしない。あまりに暑いからか、冷房が利きすぎているからか。関東甲信越は梅雨明け。つまりはちょっと疲れが出ているらしい。

【河合隼雄の不思議な魅力】

ああ、少し書こう。最近、面白いと思っている人たちが何人かいるが、その中に茂木健一郎がいる。いや最近と言うほど新しくないけど。しかしこの人は、すごく面白いと思うところもある一方で、どうもよくわからない、わかりにくいところもある。その茂木と2007年に亡くなった河合隼雄が対談しているということは、もちろんあっても不思議ではないけど、読むのは初めてだった。その中で、茂木が河合の言葉にどんどん魅かれていく感じをある種不思議なストーリーとして読んでいる自分がいるという感じがあった。

河合隼雄という人には不思議な魅力がある。いや、あった。というか、今でもその著書を読んでいると眩惑されるところがあるからある意味健在なのかもしれない。この人を見たのは一度だけ、講演の切符を行けなくなった人からもらって見に行ったことがあるだけで、それが一生に一度の生河合隼雄体験だった。私は多分30年くらい彼の読者で、だから茂木が初体験のようにビビッドに河合の言葉に魅かれていく感じがすごく新鮮に感じられたのだけど、逆に茂木の言葉に現れる心の動きが河合の言葉の魔術のひとつの不思議な現れとして読んで、こういう感じの面白さ、不思議さに私も魅かれ、そしてちょっと自分の立っているところが見えなくなってくるような不思議な感じを警戒して読まなくなったんだなということを思い出した。今読んでいても、河合の論理のここの部分には取り込まれないぞとか、頑張っている自分がいたりしていまだに彼の言葉群を超えていないなと思う。

何というか、彼の言葉を読んでいると、それだけで『満足』してしまうところがあるのだ。しかし読者としての満足を得れば人生それで十分であるならいいけれども、書く人間として私は書かなければいけないから、そうなると書かないでも満足してしまわされる河合の文章は危険なのだ。よくわからないけど、河合先生が言うならそうだろうと、思ってしまう自分がいる。これがたとえば内田樹や名越康文ならなるほどそうかとか、ここの部分はわかるけど自分は取り入れられないなとか、自分の主体を失わずに物が考えられる。人の言葉に依存しないでもものが考えられるのだけど、河合隼雄に関してはいつの間にかその世界に取り込まれてしまっている、という感じになってしまうわけだ。

白洲正子とか河合よりも年上の人との対談だとお互いにもっと余裕があるから年寄りの放談を聴いている感じで面白いという感じになる。村上春樹との対談は、やはり村上が教えを乞うという形になっていたけど、村上は自分の聞きたいことしか聞かない感じで二つの思考の流れが交わらないまま平和共存しているような感じがあった。茂木の場合はビビッドに河合の言葉に反応していてそれが面白く、「河合先生の言葉は宝石のようだ」とか手放しに讃嘆したりしてむしろそれを読むと河合が茂木の心に働きかける電気信号のようなものをその都度認識させられてそういう意味でも河合の言葉が相対化できる感じで面白かったのだなと思う。113/207ページ。

【シンクロニシティと無意識】

もうひとつ、この本で発見だったのはシンクロニシティの問題。鶏のことを考えながら歩いていると鶏の本に出くわす、というような話。これに関して、「鶏のことを考える」ことと「鶏の本に出くわす」こととを因果関係ととらえてしまうと変な感じ、神秘主義的な感じになってしまうのだけどそうではない、ということを明言している。つまり、「鶏のことを考える」という現象と「鶏の本に出くわす」という現象がシンクロしているのではなく、「鶏のことを求めている無意識」が先にあって、それが「鶏のことを考えている」という意識上の現象に反映し、鶏のことを求めている無意識によって「他の本に比べて鶏の本がパッと目に入る」という現象がおこる、つまり無意識と外の現象が呼応しているのだ、と結論付けている。

このことについては、ユング派の神秘主義的な雰囲気の言説の中でも特によくわからないことだったので、それが明確に理解できたのはよかった。河合の本でもここまで明確に説明しているものは今まで読んだことがなく、それは茂木との対話であったからこそここまで明確化したのだと思う。

それからもう一つ、なるほどと唸らされたのは、普通の話をしているのに話し終わった後どっと疲れる人というのがいるけれども、そういう話の内容と話し終わったときの疲労度のギャップが大きければ大きいほど、相手の抱えている問題、あるいは病は深い、という話だ。

確かにそういうタイプの人はいる。普通の話をしているだけなのにこちらがものすごく疲れる、というタイプ。いくら話していても全然疲れないタイプというのはこちらとの共鳴度がすごいということだけど、普通の話をしていてもその話の内容をこちらが受け取ったり、相手がこちらの話を受け取る様子を見ていてすごく疲れる人というのはいて、そういうところにその人の問題が隠されているのかと言われて目から鱗が落ちる思いだった。そう、この話のところで茂木が「河合先生の言葉、宝石のようです」という名言?が飛び出したのだった。

で、テキスト庵の話に少し戻ってしまうけど、ある方とやりとりしてこの異常な緊張感はなんだろうと思っていたときに、橋口いくよの原発供養の話とかと同時にこのことを思い出し、その相手の心象風景が急にさあっと見えてしまったのだった。それはいたましいものだった。そのいたましさが私を心底疲れさせたのだと思ったし、しかしそう言わずにはいられないその方のいたましさに思わず魂鎮めの言葉をつぶやかせたのだった。人は異界に案外近いところにいる。

まあこんなことがあるときにこんな本を読んでいるというのもある種のシンクロニシティだが、まあそれこそ現実が先にあってそこで生じた私の無意識の動きにシンクロしてこういう本が本屋で目に入ってしまったということなんだろうなと思う。

それにしても、もし今河合隼雄が生きていたら、3.11以後の事態にどのように発言しただろうかと思う。私たちはやはり、何か貴重なものを失ったのだ。失ってみないと分からないものを。

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by Luke Peterson

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