どういう人間として生きるのか/高校教師をやってよかったこと/野田秀樹の『二十歳のころ』

Posted at 11/06/29

【どういう人間として生きるのか】

新しい小説のネタを考えている。ここ数作のテーマというかモチーフが「再起」「読書体験」「初恋」と来ているので(?)今回は「生き方の選択」(含む進路選択・人生選択・自己プロデュースetc.)ということで考え始めたのだけど、これは難しい。自分自身が数十年考え続けたことだから一つの「こういうことだ!」みたいな作品にするのは出来るのかなという気がするが、なんというか逆にやりがいがあるテーマだなとは思う。

どういう人間として生きるのか、ということは本当に小さいころからその時なりに、表面的なことも含めて考えてはいて、たとえば5歳くらいのときに行こうと思った大学に実際に入っている。まあそれは親がそこを出ているからというような単純な理由で周りのおばさんたちにそう言われて何となくそう思っていたのが高2くらいのときにそう無理な目標でもないということが分かって実際に受けてみたら受かった、というようなことだ。

【高校教師をやってよかったこと】

それから人生のステージの中のどこかで高校の先生をやるだろうということもかなり前から思っていた気がする。実際にやってみたら思っていたのと全然違ってなんとかよろよろと10年はやったけど。この10年間で得たものは何だったんだろう、何もないんじゃないか、というようなことを考えた時期もあったのだが、今考えてみると二つはあると思った。

一つは社会or世間から「一人前」として扱われるという経験。芝居を続ける傍ら学生のときから塾講師のバイトをして多いときには月に20万以上稼いでいたので別に金銭的には就職する必要はないやと思っていたのだけど、その塾が大きくなるにつれていろいろな人が採用され、学生バイトだけでなく年配の人たちが入って来ると、その人たちが実は「組合ゴロ」みたいな人たちで会社を食い物にして好き勝手なことをやったりしているのを見て、年をとってもバイトでこの仕事を続けているとああいうふうになったり見られたりするのかなと思うといやだなというのも一つのきっかけになって教員採用試験を受けて高校教師になったわけだが、なってみるとまわりの扱いが全然違う。図書館とかで話していても「何とか高校の~」とかいうともう下へもおかぬような扱い。世の中肩書きなんだなとビックリしたし、親戚の扱いも「ようやく就職したかこれからは大人として対等だ」的な扱いでこれは何なんだろうなあと思った。正直バイトのときより月収は減ったが、しかしボーナスというものをはじめてもらって驚いた。それまで労働というものは時給計算で収入に結び付いていたのだが、働いても働かなくても給料が同じということになると妙に居心地が悪い。教員の仕事などというものは金に換算できないわけのわからない仕事が多いからそれも変な感じだった。

しかし「一人前」に扱われるということに関しては自分の中の一つの目標でもあったので、その扱いを受けるという経験をしたということに関してはよかったと思う。10年務めて教員をやめたとき、多分一番引っ掛かったのは無職になって「半人前」に戻ることだっただろう。実際前の職場の集まりや親戚の集まり、あるいは学生時代や演劇時代の集まりからもしばらく足が遠ざかってしまった。その時37歳だったから孔子のいう「三十に而て立つ」を過ぎていて逆戻りすることへの抵抗もあった。もっと早くやめた方がよかったのにと今でも思うがやめられなかったのはその辺のこともあったかなと思う。

しかし結局のところ教員という仕事は自分のやりたいことではなかったなということは分かっていたので、やはり続けることはできなかった。自分のやりたい仕事で「一人前」にならなければ意味がないのだ。

【他人の人生に何らかのプラスをもたらす仕事】

もう一つ教員としてやってみてよかったと思ったのは、他人の人生に関わる仕事だということ。私は自分が進路指導というものをほとんど受けずに自分の大学とかを決めていたので進路指導というものが重要な仕事だと思ったことがなかった。しかし初任の商業高校ではクラスの42人の女子たちをどこかの会社や学校に送り込まなければならないということで1学期から指導がはじまり求人票の公開や夏の面接など、夏休みも半分返上して調査書を書いたり面接指導をしたりしていた。受験する企業が重なったりするとその調整もしなければならないし、(結局原則的に成績順になるわけだが)あの年(1992年)の恐ろしいことは、それまでのバブルの名残で7月まではあきれるほど求人票が届いていたのに、一社目がだめで二社目を受けるという段階になった子にぱたっと求人票が来なくなったのだ。実感としてバブル崩壊を感じたのはあのときだった。それでも42人中32人が就職でき、9人が専門学校、一人が一浪して短大ということになったが、商業高校の進路というものはこんなにバシッと決まるものかと感動したことを思い出す。

次の普通高校ではそうはいかなかったが、それでも将来の夢や希望を持っている子にそれを実現するためにどうすればよいかを一緒に考えて会社を紹介したり補習をしたりするのは楽しかった。人の人生に何らかのプラスをもたらすことができる仕事に対してやりがいを感じることができたのは貴重な体験だったと思う。

しかしまあ人の世は有為転変で、せっかくいい企業に就職した子がバブル崩壊後の倒産の連鎖で無職になったり、高校時代とても活発だった子が会社があわなくて出社拒否で辞めてしまったり、進学を目指して勉強したけど結局合格できなかった子が警察官と結婚して幸せなお母さんになったり、人間の幸せというものは一口で語れないなあと実際思う。まあ進学校に勤めていたら教員は続けられたかもしれないけど私が見て来たような形でのみんなの人生というものに触れる機会はなかったわけで、確かにそういうふうに物を見られるようになったことがいまの自分の小説の作風にも反映している部分はあるのではないかと思う。そう思えればそういうみんなの人生に触れられたことは無駄ではなかったということだよなあと思う。

あ、何というかこういうことって書きだすときりがない。勤めているときは本当に毎日大変で、最後の方は体を壊して辞めた後入院してしまったくらいなのだが、やっぱり自分の人生にとって必要なプロセスだったのかもしれないなあという気もする。本当にこの時期は芝居も止めてしまって戯曲も書けなくなり、詩は書いたけど発表には至らず、小説などとてもとても取り組めず、まだネットも使ってない時期だから日記を読んでもらうことなど思いもよらず、文章表現ということに関しては本当に不完全燃焼の時期だったし、たぶんこのころに受けた精神的外傷が元でしばらくまともに物が書けない、それ以前にものが見えない、感じられない時期があったのだけど、でも何かしらこの時期の経験から引き出せるものはあるはずだといま書きながら思えてきた。

【いいことばかりはありゃしない】

逆に怖いのは、他人の人生に何らかのマイナスをもたらしたことだって必ずあるだろうということだ。まあそれは自分の人生を振り返ってみてもこの人にこういわれたこと、こうされたことで自分の人生が変な方向に曲がってしまったと思うようなことはある。そういう被害者意識は持っても仕方がないのだけど、少なくともそういう被害者意識を持たれる可能性のあることは必ずどこかでやっている。それはもちろんどんな仕事にでもあることなのだろうけど。

特に教員というのは、生徒にいい顔ばかりするわけにはいかない仕事だからだ。そしてコワモテの顔をするというのが私には苦手だったしつい感情的になったりなめられないように虚勢を張ったりいま考えたら似合わないことをいろいろしていた。進学校なら言ってわかるようなことでも、職業高校や底辺校ではそうはいかない。彼らを狙う社会的勢力というのは常にある。それは暗黒社会でもあるし、また下流ビジネスでもあるし、すごく一般的な意味で金銭的にもさまざまな意味でも狙われやすい子どもたちなのだ。そして自分たちがそういうものに魅かれる面も最初から持っている。ここには書けないけれどもさまざまなことがある。書くとしたらそれこそフィクションの一環としてだけれども、逆に私はあまりそういうことを書きたくない。でもそういうことも知っているということも、辛いことだけどものを書く上では何かの形で生きることかもしれないと思う。

彼ら彼女らのために、本当にベストになることをしてやれたのか。いや、そういう意味では一人の教員のできることなどほんのわずかなことだし、熱血先生や夜回り先生のまねは私にはできない、やったところで本当に彼らの気持ちが分かるなどということは私には無理だと(辛いことだけど)分かっていたから最初からしなかった。そしてそこまでやったって教師にできることなどほんのわずかなことなのだ。その子の人生はその子が生きるしかないのだから。

進学校に行ったら行ったでまた別種の悩みもあったかもしれない。官僚になった子が不正を働いたり、エリートOLが変死したりしたとき、その子のことを見てきた教師たちはどんなふうに感じるだろう。その子の人生はその子のものだと割り切るのだろうか。あるいは、もっとその子に何かしてやれたことがなかったかと自問自答するのだろうか。そういう経験はあまりないのでよくわからないのだけど。

あ、書いているとあのころの落ち込みの感覚が戻って来る。いいことばかり書くのもフェアじゃないと思ったからこういうことも書いてみたのだけど、フェアでなくてもあまり書かない方がいい場合もあるかもしれない。

まあこの話はこれくらいにしておこう。

【ランドリ三昧】

Landreaall 18巻 限定版 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)
おがきちか
一迅社

まあそういうわけで人生の選択とか自己プロデュースとかに関する本を読んでいるわけだが、昨夜帰宅したらamazonで注文してあった齊藤孝『自己プロデュース力』が届いていたのでぱらぱらとみた。しかしこれもamazonに注文してあった『ランドリオール』18巻の限定版が届いていて小冊子付き。出かけるときに東京駅丸善で買った『コミックゼロサム』8月号もランドリ連載100回記念で大特集号。ということで寝る前はランドリ三昧だった。

Comic ZERO-SUM (コミック ゼロサム) 2011年 08月号
一迅社

【野田秀樹の『二十歳のころ』】

今朝はそういうことで齊藤孝を少し読んだのだけど少し自分の読みたいものとずれているところがあったので本腰を入れては読んでいない。昨日ツイッターで会話をしていたら立花隆『二十歳のころ』という本で赤川次郎を取り上げていてそれに感動したという方がいたので図書館に出かけて借りてきた。赤川次郎のところはなるほどという感じではあったがやはり学生インタビューなので本当に自分がききたいところに触れられてなくて不完全燃焼の観があったのだけど、面白かったのが野田秀樹へのインタビュー。野田さんの生の声が聞けたと感じられたのは初めてかもしれない。大人になってだいぶ率直に語るようになったのではないかという気がする。1998年だからいまから13年前のインタビューだが。私がいちどだけ野田さんと宴席を共にしたのが1989年で、それから9年でだいぶ野田さんも変わった。一番大きく変わったのは遊眠社を解散したことだろう。このあいだに、背負ってるものが劇団から日本の演劇界に変わったのではないかという気がする。この時期になると私はもう野田さんの芝居は見てないし、芝居自体も見なくなっていた。教員時代の末期でそういう精神的余裕もなかったし。

二十歳のころ―立花ゼミ『調べて書く』共同製作
立花隆
新潮社

一番印象的だったのが、演劇を一生続けようと思ったのはいつかといわれて、よくわからないと答えたこと。「やめようと思ったことがないから」というのは本当に野田さんらしい答え。私も実際、やめようと思ったことはないのだけど、私の場合はブランクが長くなって行くうちにもう無理だなという感じになった。書いてないと書けなくなると赤川次郎が言うのと同じで、芝居もやってないとやれなくなるのだ、間違いなく。逆に言えば、やめようと思わずやり続けていればやり続けられただろう。やり続けるためにはどうしたらいいかを考えてチャレンジを続けていたら。

自分にそういうものがあるだろうかと思うと、やはり書くことしかない。子どものころから書き続けていて、何度も何度もあきらめそうになりながら、この年になってもまだ書き続けている。書くものは変わってきたけれども、やめようと思わず書き続けていれば、きっと書き続けることができると思う。

そう考えると進路って選択するものなのかどうか、やや疑問になって来るわけだけど、まあそれは誰にとってもそうであるとは限らないわけで、そういうことって本当に小説にできるのかどうか、やっぱり難しいなとは思う。野田さんの芝居に対する巨大な情熱はやはりすごいなと思ったし、有無を言わさない、反論を許さない何かがそこにある。やはり野田さんは芝居の中に自分を発見し、その中で生きることをたとえ無意識であれどこかの時点で決めたのだ。彼はそういう意味で正直な人ではないからいつどの時点なのか本当にはまわりからは分からないし彼自身もそんなことに意味を感じてないのかもしれない。

しかし、Van99ホールでつかこうへいの後釜として遊眠社が入ることになったそのオーディションを受けるときのことを、「受ける以上はアマチュアというわけにはいかない」と言っているので、その時にはプロとしてやっていくことだけは決めただろう、一生というわけではなくても。そして巨大な動きの中心として動いて行くことになったことを自覚したときにやめるということを考えること自体をやめたに違いない。そういう予感がどの時点であったかとか、そういうことは多分もうフィクションとして語るべき範疇だろう。

まあ小説として書けることということはそういうことなのかもしれないな。

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